三章

文字数 9,528文字

「おはようございます、旦那さま。昨日はよく眠れましたか?」ベティは身支度を整えた主人に冷淡な眼差しを注ぎ、相も変わらず太々しい態度で迎えた。
 そんな異端的なメイドに対し、主人であるレオンはどうしたものかと、眉を顰めて、いかめしい脣から低く倦怠感を宿した言葉を発する。
「おかげさまで、素敵な夢を見たよ。それより、イアンはどうしている?」
「イアンさんでしたら、既に朝食を済ませて書斎室に閉じこもっております」
「やはりな」かれは嘆息混じりに言うと、窓から斜めに差し込む木漏れ日の中で、小さな円テーブルに用意された朝食の席に着き、愁の影で覆われた顔を隠すかのように身体を窓側に向けて雲ひとつない青い空の下でゆらゆらと揺らめく豊かな色彩の花々を眺める。
 メイドは円く白い陶器に乗せた温かく量感のある朝食を円テーブルに静かに置き、珈琲を注いだ。
「外出前に、一度イアンさんにご挨拶されたらどうですか?」
「そうしたいのは山々だが、今はそっとしておこう。後々、何処ぞのメイドのような態度を取られても困るからな」不満をたたえた眼差しでベティを見つめながら珈琲を啜る。けれども、メイドは臆することなく、微笑を泛べて「どうされましたか?」と妙に穏やかな声で尋ねた。
「何でもない」かれは鼻を鳴らし、むっとした顔つきで言った。「アンとコニーは?」
「アンは洗濯、コニーは街へ――私はこの後、屋敷全体の清掃に取り掛かります」
「そうか。コニーは何故街に出掛けたのだ?」
「必要なものがあると言って急遽街へ買い物に出掛けました。きっと、イアンさんの服地を買いに行ったのだと思います」
「なら、アンには正午前までには戻ってくると伝えておいてくれ。それと、今日は見送り不要だ」
「承知しました」メイドは恭しく深い一礼をして引き下がった。
 レオンは豊かなバターが香るきつね色のトースト、カリカリに焼かれたベーコンエッグ、ソテーされたトマト、ベイクドビーンズの順に喫っする。珈琲をゆっくりと啜りながら、庭の中をひらひらと舞う鮮やかな橙色の翅に黒い斑点が散りばめられた二匹の蝶と花々を眺めて、束の間の平穏を堪能し、量感のある朝食をあっという間に平らげるとテーブルに置かれた新聞を手に取る。メイドが丁寧に皺を伸ばした新聞を広げ、煩わしく退屈な記事にざっと眼を通しつつ、見目麗しいエリス・グレイに続くイアン・グレイの記事を探し始める。が、得られた情報は落胆だった。
 レオンは額に手を当て俯き、深い、深い溜め息を洩らした。ラファエル・グレイは一体何を考えているのだ? 切り裂き魔が潜むロンドンであの子を野放しにするとは、やはり正気ではない! かれは新聞を畳み、気鬱さを晴らす為、珈琲を一気に飲み干す。席から立ち上がり、仮にラファエル・グレイが貴族ならば、何故寵愛しているであろうイアンを置き去りにしたのかを問い質したい、と考えながら、胸の秘めたる苛立ちを露わにするかのように重い靴で床を大きく鳴らして玄関ホールへと向かう。ホールスタンドに予め掛けた鼠色の山高帽子と外套を身につけ、鏡で風姿を整えると、椅子に置いた鞄を持ち、鍵を開け玄関を出た。心地の良い乾いた風が吹き、庭を大々的に彩る秋薔薇の香りに満ち溢れた小さな園路を抜けて庭門をくぐると、青白い煙が燻り、一服する見慣れた若者の姿が見えた。
「バーニー、待たせてしまったか?」
「まったくだ! このまま二十世紀まで待たせられるかと思ったぞ」バーニーは僅かに顔を顰めて言った。
「安心しろ。待たずとも二十世紀はやってくる」
 バーニーは鼻を鳴らして言った。「そんなにのんびりしていると、お前だけ十九世紀に取り残されるぞ」
「是非とも、穏やかだった一八八四年に取り残されたいものだな。ところで、聖オーガスティン修道院前の郵便局まで頼めるだろうか」
「もちろんだ。その前に、ひとつ聞いていいか? 手紙に綴った言葉は、承諾と拒絶、どっちなんだ?」
「いい質問をするのだな。もし、俺が承諾を選択したのならば、それは再出発を意味し、君と三人のメイドを含めて、俺たちは別の道を歩むことになる。一方、拒絶は、変わらぬ退屈な日々を送ることを意味する。俺が綴った言葉は――」
「拒絶だろう。限嗣(げんし)相続制について、詳しくは分からないが、とにかく面倒であることはよく分かるよ」
「君にもわかるように言おう。要するに、政略結婚だ。あのような制度は、一部の人間に不幸を齎す。さっさと限嗣相続制を廃止して欲しいものだ」
「なら、早いところ行こうぜ」
 若い御者はすぐに巻煙草の火を消し、馬車に乗るように促す。かれが座席に腰を掛けたことを確認すると、手綱を引いてゆったり心地の良い速度で馬車を動かした。
「レオン」とバーニーは口をきった。
「なんだ?」
「今朝、コニーがカンタベリーに私立探偵はいないのか? と、突然尋ねてきたのだが、何かあったのかい?」
 一瞬、レオンはかすかに眉を顰めて、薄い下脣を噛んだ。そして、しばらく考えてから、かれは冷静に答えた――「ここ最近メイドのベティを夢中にさせている推理小説『緋色の研究』に、登場する主人公が英国ではあまり馴染みのない私立探偵をやっているのだよ。珍しさ故、カンタベリーに存在しているのかと興味を持ったのではないだろうか?」突然若い御者が振り返り、声高に言った。「あまり馴染みのない? そんなに探偵が珍しいのか?」
「君が想像している以上に珍しいものだよ。こうして物語の題材として使われているのだからな。俺がロンドンで外科医をやっていた頃に遡るが、パディントン駅周辺に探偵がいる噂を幾度か小耳に挟むにも関わらず、仕事で立ち合うこともなければ個人的に会うこともなかった」
「それでは、まるで幻じゃないか! 文化の街はあらゆる刺激に満ち溢れているかと思っていたが、ひと時の夢、浪漫もないのだな!」
 レオンは憂鬱に襲われ、苦悶の表情を泛かべて深いため息を洩す。なぜなら、一八世紀半ばから十九世紀かけて綿織物の生産過程における技術革新を起こし、波紋が少しずつ大きく広がるように工場制機械工業の成立、蒸気機関の出現とそれに伴う石炭の利用による鉄道や蒸気船の実用化など『産業革命』と呼ばれる大きな社会変動を生み出し、さらに資本主義社会の確立をさせ、『世界の工場』と君臨した大英帝国は、眩いばかりに煌めく功績と黒く澱む大いなる負の遺産を残したからだ。
 産業革命の影響による生産基盤を農業から工業への転換に伴い、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールなどの新興都市の誕生と共に、地方から多くの仕事を求めし者たちを迎え、次第に発展都市として繁栄して行き、今近代社会の象徴である機械が普及するにつれてまるで役目を終えたかのように特定の職を失う者たちも現れると、権利と人権が存在しない労働者たちの鎮まぬ憂苦は憤りに変わり、ラダイト運動、地位と権利の向上、あるいは開放を目指した労働組合が資本家に対して劣悪な労働環境・条件の改善を求める社会運動を起こして一時的に英国を混沌へと陥れたのだ。が、それらは始まりにしか過ぎなかった――政治的迫害、貧困など故郷を諦めた大量の不純な異邦人たちが「幻想」を求めて英国に流入したことにより、小規模で纏り、決して同化することのない彼らがロンドン内の特定地域に集中するに当たって更なる混沌を齎す。住宅不足による賃料高騰と権利金制度の導入、貧困が故に救貧法の救済を受ける者が増加する毎に上昇する他方税、同じ人種や宗教の者同士たちが集うことによって生じる国内商人の雇用奪取を目的とした排他的取引、失業から免れたいが為に低賃金で快く働く非熟練労働者に依存した資産家により発生する国内労働者の追放と貧困、異教たちによるキリスト教の祭日妨害などあらゆる破滅を及ばした。それらの悪意ある異邦人たちの罪の傷痕は、古くから人類に強く根付くレイシズムの発展に拍車を掛けると、貴族たちは地位が低い者に対して侮蔑をたたえた眼差しを向け、道徳を捨てた英国人たちは異邦人や風変わりな者たちを異端的だと虐げるなどの負の遺産の一つを残したのだ。レオンハルト・ハワードは負の遺産により、一人の英国人でありながらドイツの血筋を引くが理由に双方から蔑まれた故、ロンドンを忌み嫌っていた。都会に憧れを抱く一人の若い男に、レオンは忠告の言葉を含めて言う。
「バーニー、もしロンドンに足を運ぶ機会があればの話だ。期待はあらゆる苦悩のもとであることを忘れないで欲しい――それに、皆とは言わないが、あの街の人間ほど保守的で偏屈な者たちはいない。澆季溷濁(ぎょうきこんだく)な地で、創設当初の|警察たちのように世間からも全く理解されず“他人の秘密の詮索を怖しいと口にしながら本心では娯楽のように興じる蛮人”として疎まれる中で探偵として生きていくのは窮窟だと思うぞ」
「窮窟か……」バーニーはくるりと前に向き変えりながら語を継いだ。「レオン――秘密の詮索と警察で思い出したのだが、俺たちが生まれた頃だろうか――捜査に関わった刑事の一人が()()()探偵気取りだと批判され、話題になった事件はなかったか?」
 眼頭を指で押さえ、脳中の奥深くに埋もれた記憶を掘り起こしレオンは口を開く。
「一八六〇年に起きたロード・ヒル・ハウス事件のことか? 俺の記憶に間違いがなければ、十六歳の姉が三歳の弟を殺した事件だ」
「それだ! 当時は扇情的な事件だったらしく屋敷絡みの事件が起きる度、酒場で話題になることがあるのだよ。それで、遺族たちは不思議にも捜査には非協力的だったそうだな」
「真実よりも家名を優先し、乞食飯牛である|警察たちに各々の楽園を踏み荒らされたくなかったのであろう。それに、最初の刑事であるジョナサン・ウィッチャーは遺族たちによる不可解な言動の中に隠された“真実を突き止めたい”という欲に駆られ、事件の犯人である狡猾なコンスタンス・ケントに執着するのだが、有力な情報や証拠は関係者たちと地元警察たちによる隠蔽――新聞記者たちは面白半分に“家庭の秘密を暴く悪魔”だと報道――挙げ句の果てには、証拠不十分で無能な刑事の汚名を着せられ苦悶する日々を送ることになる――彼女が自白するまでの五年間もだ」
「誰よりも熱心で事件を解決に導こうとした男に与えられたものは名声ではなく汚名とは屈辱的だな――そのあと、ウィッチャーはどうなったのだ?」
「コンスタンスの罪が正式に公表された途端、皆手のひらを返すかのようにウィッチャーを賛美したさ。彼女の自白により、彼は無事に汚名返上を果たし、その翌年には私立探偵になったところまでが俺の知る情報だ。明確にとは言えないが、英国初の探偵はウィッチャーなのかもしれない」
「へえ、元刑事が探偵とはね――探偵としてのウィッチャーの話はないのか?」
「残念ながら探偵としてのウィッチャーの話はない。死体が届くまでの間、時間潰しに片っ端から署内の資料を読み漁ったつもりでいたが、それらしい記録は見当たらなかった」
「そうだったのか。なら、仕方ない」バーニーは残念そうに言った。「レオン。探偵についてだが、実はコニーに尋ねられた時に初めて存在を知った――初めから期待していないだろうがカンタベリーにはいないと思え」
「へえ、街一番の情報通であるバーニーが存じないとは、カンタベリーには夢や浪漫すらないのだな」
 バーニーは声を立てて笑った。「こんな辺鄙なところに夢を見るのは聖職者、浪漫を抱くのは見て呉ればかりの上流階級者たちを除き、芸術家くらいだろう」
「そうだな、景色だけは別格だから彼らが見惚れるのも十分理解できる」
「誰よりもカンタベリーを愛してやまない男の言葉にしては皮肉的だな」
「何のことやら――バーニー、郵便局は目の前だからここで降ろしてくれ。話の続きはまた今度にしよう。では、二時間後に」
 若い御者は二つ返事で承諾し、手綱を引き馬車を人通りの少ない場所に停め、レオンを下ろした。ふたりはすぐに顔を見合わせ、変わらぬ淡白な別れの言葉を交わした。
 鞄から白い便箋を取り出して、それを見つめながら、「こちらから願い下げだ」と呟き、数十歩先の小さな郵便局に入った。受付の若い娘に挨拶をし、予めポケットに入れた一ペンスと便箋を若い娘に渡すと、別れの言葉を告げてすぐに退出をした。かれは、メイドのコニーを探しに街の方へ足早に歩き始める。廃れ、静まりかえった聖オーガスティン修道院を囲む塀が続く街道を抜けて、街に踏み入れると、今日を生き抜く為に足掻き続ける労働者たちと聳え立つカンタベリー大聖堂を一眼見ようと遥々遠方から旅行で訪れたであろう裕福層の者や信仰深い巡礼者たちで修道院の静けさを忘れさせるほどとても賑わっていた。
 レオンは人混みをかき分けながら、琥珀色の髪と特徴的な狼の瞳に、小柄であどけなさの残る愛らしい少女のような顔立ちをした女性を探すも眼に留まるのは美しさと引き換えに、高慢さを引き立てる仕立ての良い鮮やかな色のドレスとけばけばしい高価な宝石を身につけた貴婦人。そして、対比的な薄汚れた服を身に纏う痩せ萎びた若い女性や小さな子供ばかりだった。かれは、もどかしさを胸に募らせた。いち早く合流したい一心で人目を避けて仄暗い路地裏へと逃げ込み、メイドが足を運びそうな大聖堂へと小走りで向かった。
 信仰深いコニーのことだからカンタベリー大聖堂周辺に行けば見つけられるはずだ。礼拝堂で祈りを捧げるはず! どうかそこにいてくれ! ささやかな願いを胸に抱き、入口に辿り着くと、レオンは再びコニーを探し始める。が、数秒、数分と時間だけが流れてとうとうメイドは姿を現す事はなかった。胸に募るもどかしさは、次第に不安へ変わり、焦燥の影がかれの顔を覆う。鞄から喫煙具を取り出して乱れが生じた感情を和らげようと、俯きながら、路地裏に向かって歩き始める。すると、「旦那さま?」と聞き慣れた女性の声が耳に入り、咄嗟に振り返った。
「コニー! ここに居たのか」焦燥の影が消えて安堵の微笑を泛べながらレオンは言った。「ベティから必要なものを買いに街へ出掛けたと聞いたのが……」
「昨日、イアンさんをしばらく保護するとおっしゃってましたよね。一度、旦那さまにご相談しようと思いましたが、いくつか着替えが必要になるのではないのかと思い、取り急ぎ服地を買いに来ました。今回ばかりは私のお給金から差し引いてください」
「いや、気にすることはない。どの道必要になるものなのだから――それよりも、バーニーに探偵について尋ねたそうだが、朝刊を読んだのかい?」
「はい。どうしても気になってしまい、街に詳しい御者のバーニーにお尋ねしました。何か問題でもありましたか?」
 レオンは険しい表情を泛べてしばらく俯くと、やがて、顔を上げて口を開いた。「コニー、君の気遣いにはとても感謝している。が、あの男と真剣な話をする場合、今後は内容を濁すようにして欲しい」
「それは何故ですか?」
「あの男は酒に支配されると饒舌になり、あらゆる事が公になるのだよ。コニーが屋敷に来る前の話に遡るが、ロンドンでの愚痴や不満をバーニーに話した後日、たまたま酒場(パブ)に足を運んだ時には皆に憐れみの眼を向けられ、慰めの言葉を掛けられたことがある――つまり、洩らされたのだよ」
「それはお気の毒に……」
「バーニーにイアンのついて何か聞かれた際は、意地の悪い遠い、遠い親戚の子供を一時的に預かっていると言い通しておいてくれ。身元不明の子を保護していることを知られると、後々が面倒だ」
「承知いたしました」
「ただ、君のおかげで探す手間が省けた。街に詳しいあの男が知らないとなると、望みは無いに等しい。あまり気は進まないが近々ロンドンに足を運んでみることにするよ」
「無理していかれる必要はないかと……」
 かれは肩をすぼめた。「率直に述べると行きたくはない。しかし、イアンの身元を調べるにはそれしか方法がないのだ」
「一つご提案があります。私が代わりにお伺いするのは如何でしょう?」
 メイドの怖しい言葉に全身の血の気が引き、怒りに震える声でレオンは叫んだ。「君は自分が何を言っているのかきちんと理解しているのかい? それだけは、絶対に許さん!」
 驚きに目を見はり、コニーは手にしていた花の刺繍が施された小さな巾着袋(レティキュール)を落とした。眼にうっすらと涙を浮かべて、か細い声で主人に謝罪の言葉を述べると、こみ上がる罪悪感と後悔に苦痛の表情がレオンを覆った。地面に落ちた巾着袋(レティキュール)を拾い上げて、砂埃を払いコニーに渡すと、かれはひとつ小さな息をつき、眉を下げ、穏やかな声で言う。
「取り乱してしまい、すまなかった。ロンドンはあまりいい街ではないから、行って欲しくないのだよ――君の身に何かあったとしたら……」
「私はただメイドとして、旦那さまのお役に立ちたいだけなのです」
「コニー、危険を冒してまで行く必要はない。それに、君は役に立っているさ。充分すぎるほどに――さあ、三人とも君の帰りを待っているのだから早く屋敷に戻ると良い」
 主人の温かな言葉にコニーは頬を豊かな薔薇色に染め、花を咲かせるように微笑んだ。「承知致しました。その前に、私は礼拝堂でお祈りをしてから屋敷に戻ります。旦那さまもどうかお気を付けてお帰り下さい」
 コニーは主人に恭しく頭を下げると、くるりと向き変わってカンタベリー大聖堂へと歩み始める。メイドが聖域に踏み入れるまで見届けると、かれは厭らしい人の海と化した広場を後にした。
 レオンは俯き、再びロンドンに足を運ばなければならないのか、と灰心喪気した。愁の情を晴らそうと、再び仄暗い路地裏に向かうが、得体の知れない黒い影に視界を遮られ、全身に鈍い衝撃が走った。宙には多量の紙が舞い、地面には重く乾いた音と金属の掠れる甲高い音が交互に響く中で、かれは投げ出されるように倒れた。
「ああ! なんて事でしょう! そこのあなた、大丈夫ですか!?」黒尽くめな男は慌てた様子でレオンの元に駆け寄り、まるで舞台の上で演じる役者の如く、大袈裟に尋ねた。
 レオンは顔を歪めながら呪詛の言葉を小さく囁き、ゆっくりと立ち上がって、外套に付着した砂埃を念入りに払うと、黙々と地面に転がり散らばった絵の具とカートリッジ紙を拾い男に渡した。
「ありがとうございます。それより、お怪我はございませんか?」
「ご心配なく。あなたこそお怪我は?」かれは不機嫌そうに言った。
「ご覧の通り問題ございません。全く陽気な()たちで困ったものですよ」と、男は笑いながら答えた。
「次はお淑やかな人たちをお連れすることを推奨致します。では、私は失礼致します」
 胡散臭い! ああ、なんて胡散臭い! 妙に馴れ馴れしいあの男とはなるべく関わりたくない、と、レオンは思った。榛色の瞳、純白のシャツに首元を飾る紅色の蝶ネクタイ、十六世紀を彷彿とさせる懐古的なシルエットに緩やかなフリルが施された長く張りのあるチュールスカート、踝まで丈のある外套、ごく一般的に見られるダブルの胴衣(ウェストコート)、幼きアリス・リデルのように黒く東洋的な髪に紳士の装いを纏め上げるシルクハットを乗せたあらゆる時代の流行を取り入れたかつてない奇妙な雰囲気にどこか怖しさを感じたからだ。奇抜な男に背を向けて、かれはその場からすぐに立ち去ろうとした。
「おっと! 駅はどちらの方角にありますか? これからロンドンに戻ろうと、駅へ向かっているところなのですが、どうやら迷ってしまいまして……」
 奇抜な男に呼び止められたレオンは、小さな溜息を洩らし、渋々と懐中時計と出向時刻を細かく記した小さな手帳を鞄から取り出して時刻を確認すると「駅はすぐそこにあります。出発の時間も迫っているでしょうからご案内しますよ」と熱のない声で言った。
「ご親切にありがとうございます! 私はヘンリー・ニューカッスルと申します。ロンドンで画家をしております」
「そうですか、こんな田舎で退屈でしょう。あなたのようなロンドンが見合う方を引き止めないと良いのですが……」かれは、明るく友好的なヘンリーに冷たく返事をした。
「初めてカンタベリーに来たのですが、あなたの言う退屈とは無縁でとても素敵なところですね! ストウ川を行き交う小舟に乗りながら、歴史的建造物の間やあらゆる花が咲き誇る庭園、チューダー朝の面影が残る美しい街並み、そして、なによりも荘厳なカンタベリー大聖堂に圧倒されました。常に何かと騒々しいロンドンとは異なり、とてもゆったりとした時間が過ごせそうです。ところで、()()()手肌が荒れているようですがあなたは()()()()()ですか?」
 饒舌で詮索し始めるヘンリーに対し、次第に苛立ちが募るレオンは無言で足早に歩く。が、厚かましい奇抜な画家はまるでかれを阻むかのように勢いよく前に出てさらに喋り続ける。
「おやおや、気を悪くされましたか? 医療に携わる方は石灰酸によって手肌がひどく荒れている人が多いと、優れた洞察力を持つ元警官の同居人から伺っていたので、気になり質問をしてみたのです」
 レオンは募りゆく苛立ちを懸命に抑えて、ひとつ息をつくと、画家の歩く速度に合わせて答えた。「これは偶然なったものですよ。医者と話がしたいのであれば、診療所へ行く、或いは、あなたの身近にいる元警官の同居人に頭を下げて検死室に案内してもらってはいかがでしょう?」
「とても素晴らしいご提案ですね! しかし、残念ながら、それらは当の昔に試行済みです。後者に至っては、元警官のアーネストに『君は惨たらしい死体と萎びた外科医を描こうとしているのかい? 随分と素晴らしい趣味をしているのだね』と、冷ややかな眼差しを向けられ、断られてしまったのです――悲しいでしょう?」
「それは残念ですね。そのアーネストさんが倫理に欠如した者であれば、次は賄賂でも用意し、再び頭を下げてみましょう。それでも、断られるのであれば、事件と関連性の強い死体でも見つけて警察署に駆け込むのも一つの手です」
「おやおや、随分と甚だしいことを言うのですね――嫌いではないですよ」
「なら、試してみてはいかがでしょうか?」
「大変素晴らしい案ではありますが、ご検討させて下さい。こう見えて私はあなたのように慎重で繊細なのですよ。そう言えば、まだあなたのお名前をお伺いしてなかったですね。差し支えなければ、教えて頂けないでしょうか?」
 レオンはぎこちない微笑を泛かべると、顔を背けるようにそっと俯き、視点を左側に向けた。咳払いをし、瞬時に画家の眼を見つめて「ナサニエル・ライトです」と名乗った。
「ナサニエル・ライトですか、あなたのような礼儀正しい方には()()()()()()()名前ですね。改めまして、ナサニエルさん、ご親切に駅までご案内して下さり、ありがとうございました。ロンドンに足を運ぶ機会がございましたら、是非、私にご案内させて下さい。あなたが思う以上にロンドンは素敵な都なので……」
「名案ですね。どうなる事でしょう」
「きっと楽しめますよ」画家は自信に満ち溢れた顔で汽車に乗り込みながら、別れの言葉を述べた。「ナサニエルさん。それでは、またお会いしましょう」
「その日が来ることを願います。さようなら」
 レオンは、二度と会うことのないヘンリー・ニューカッスルに向けた再会を望む友愛の言葉を並べて、足早に駅を後にした。画家は車内をゆっくりと歩きながら、かれの淋しげな背中を見届けると、鞄からカートリッジ紙と鉛筆を取り出して、不敵な笑みを浮かべながら何かを描き始めた。
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