一章

文字数 10,150文字

一章
 光を拒む仄暗い空の下に、血塗られた歴史により造り上げられた荘厳な建築物が並ぶ都市ロンドンでは、様々な人種と三つの階級に区別された人々で溢れている。そんな文化の中心であり、浪漫溢れる「霧の都」の異名を持つ陰気な都市を窮屈極まりない馬車の中からレオンハルト・ハワードは静かに眺めていた。
 色彩豊かな植物や木々に恋しさを覚える暗い配色が広がり、死が身近に潜む暗澹(あんたん)たる世界に嘆き、千編一律な景色を見渡す。すると、レオンハルトの眼にロンドン橋とその欄干の上にぽつんと立つ一人の少年が映った。かれは眉を顰め、眼を向けると、少年は腐蝕した都市の空気を肌に包み込ませるようにゆっくりと歩む。
 レオンハルトは驚きで眼を見はったが、その愚行に嘲笑し、まるで三流作家が作り上げた低俗な笑劇を鑑賞するかのように耽る。が、次第に深い悲しみと狂気に心を蝕まれ、花や蝶と戯れながら口遊む憐れな少女オフィーリアを彷彿とさせる少年の不可解な動きに疑懼と不安に身体を(ふる)わせた。咄嗟に馬車から身を投げ、少年の元に駆ける。地面を叩き踏む激しく乾いた音が響き渡ると、レオンハルトに呼びかける雷鳴のように鋭い御者の叫喚、馬車を引く車輪の音、馬の悲鳴、それらが同調することにより狂想曲が奏でられる。
 すると、少年はすぐに異変に気付き振りかえった――その瞬間、平衡が崩れ、身体が大きく蹌踉めく。テムズ川の黒く暗い底なしの闇に引き込ませまい! と、少年の細い腕を掴む。掴んだ細い腕を力一杯に引っ張り、その小さな身体を抱き留めながら後ろに転倒した。かれは僅かに安堵の表情を泛べて体を起こし、少年を腕の中から解放した。背中に巡る鈍く重い痛みで顔を顰めながらゆっくりと立ち上がり、赤く火照る頬と乱れる呼吸を整え、飾り気のない灰色の外套に付着した砂や泥を念入りに払う。やがて愁を帯びた勿忘草色の瞳に濡羽色の髪の少年がなにかを言いたげな様子で歩み寄ると、レオンハルトはその小さな両肩を掴み叫ぶように言った――「正気か! テムズ川には死神が潜んでいるのだぞ!」
 少年は大きく眼を見はり、動揺を示す。突然現れた脊が高い金髪の男の言動に身体が竦み、声を出せずにいた。すると、愚かなる好奇に支配された者たちがまるで獲物に群がる餓えた獣たちのように囲い、瞬く間にふたりは好奇の目に晒された。ある者は憐れみの眼差し向け、ある者は嘲笑し、ある者はただ傍観する。あらゆる視線を浴び、身体の底から込み上がる憤りと不快感に襲われたレオンハルトは大袈裟に尋ねた。
「ロンドン橋でこんなに人盛りが出来るとは大変珍しいこともあるのですね。一体、何があなたたちを魅力させているのでしょうか? よろしければ教えて頂けませんか?」と天色の鋭い眼差しを向けた。
 レオンハルトの皮肉まじりの問いに対し、人々は一斉に尻込み始める。かれは更に憤りを感じた。ロンドン橋は異様な静けさに包まれると、呪詛の言葉を囁き、そっと少年の手を掴む。少年の手を引き、他人の好奇に満ちた視線を感じるたびに顔を顰め、人混みを掻き分けながら、乗車していた馬車へと向かうと御者に憂慮な眼差しを向けられた。が、かれは気に留める事なく、引き続きロンドン・ブリッジ駅へ向かうよう告げ、少年と共に乗り椅子にどっかりと腰を掛けた。
 少年は僅かな時間で繰り出された奇想天外な出来事と未知との遭遇により、初めは緊張で強張った顔つきをしていたが、新たなる智慧(ちえ)が器に満たされるにつれて次第に無垢な子供同様に眼を焔のように輝かせ寛ぎ始める。そんな少年に対し、微かな苛立ちを覚えながらも身なりに着目し始めた。十二歳前後の背丈、英国人にはあまり馴染みのない珍しい濡羽色の髪、勿忘草色を称する可憐で透き通った青い瞳、かつては純白であることを物語る襟のついた黄ばんだシャツと黒いベールを被せるように煤がつき草臥れ退色した瑠璃色の背広、そして、乾いた黒い泥が付着した栗色の革靴、身体的特徴を除けば下層階級であることを示す。しかし、上位中流階級や上流階級特有の薔薇のように赤く血色の良いなめらかな肌に強い疑問を抱かせた。
 レオンハルトは奥深くにしまった厭らしい記憶を辿る。下層階級の子供は、大人同様に労働を強いられ餓えに苦しみ、小枝のように貧相な身体とオリーブ色の窶れた顔に生気を失い酷く爛れた肌、猜疑心を伺える鋭く暗く澱んだ瞳をしている――何故、この少年はそれらを全て否定するのだ? 長い顎に手を添え、思索に耽るもそれを阻むかのように馬車が生み出す心地よい揺れは鎮まりロンドン・ブリッジ駅に到達したことを告げた。ふたりは、速やかに馬車から降りて窮屈な空間から解放されるとレオンハルトは乱れ垂れた前髪をかき上げてから帽子を被り、御者にそっとチップを渡して淡白な別れを告げた。
「君、名前は?」かれは少年の名前を尋ねる。
 しかし、少年は反応を示すことはなく、その場で佇み名残惜しそうに馬車を見届けていた。レオンハルトは大きく咳払いをし、再び尋ねた。
「君、名前は何だ?」すると、少年はすぐに振り返り首を傾げる。かれは鼻を鳴らし、不機嫌そうに言った――「先に名乗れとでも言いたいようだな。レオンハルト・ハワードだ」
 少年ははっとして、名乗ろうとすぐに口を動かす。しかし、まるで声を失ったかのように上手く喋ることが出来ず、困惑した眼差しでレオンハルトを見つめた。かれはすぐに状況を理解した。聴覚は十分に機能しても、声を使い言葉を交わし合うことが困難であることに悲観し、両手で顔を覆い隠すように眼頭を指で強く押さえた。懸命に平常心を乱すまいと自分に言い聞かせているかれを目前に、少年は名前を明確に伝える方法を探し始める。うつろな表情をたたえる肉体労働者たち――ヴィクトリア朝の象徴の一つである『禁欲的』とは程遠く胸元を大胆に露わにした肉欲的で派手なドレスを身に纏うけばけばしい若い娼婦――悪事を働き逃奔する少年たちなど多くの人々が混同するロンドン・ブリッジ駅周辺を見渡しながら歩くと、少年は地面に散らばる石ころを見つけて先端が欠けたものを手に取ると足早でレオンハルトの元へ戻り、外套の裾を掴み強く引っ張った。
「何だ?」僅かに声を震わせながら、レオンハルトは呟く。少年は眼頭を強く押さえたままでいるかれの関心を引こうと、足元に腰を落とし、手にした石ころで地面を数回叩く。鈍い音に気づいたかれは、眼頭から指を離し、顰めた顔で少年に眼を注くと、少年は手にした石ころを見せて地面に文字を書き始めた。
 レオンハルトは、当意即妙な少年の行動に驚歎し、賛辞の言葉を洩らす間に特定のアルファベットが地面に浮かび上がる。

 I A N  G R A Y――

 レオンハルトは少年の名前を読み上げた。
「イアン・グレイ。それが君の名前なのか?」少年は二度頷き、微笑を泛べた。
「そうか。君、一人でこんな陰気なところにいても退屈するかもしれない――何もすることがなければ、早く親元に戻るといい」レオンハルトは少年の目線に合わせ腰を落とし言うと、イアンは続けて文字を綴り答えた。『お父さんはいないよ。気づいたら、僕はここにいたんだ』
「つまり、父親と逸れてしまったのか?」
『逸れてなんていないよ。ここにいないだけ。きっと、どこかにお父さんはいると思う』
「ロンドンにか?」
『きっと、そうだと思う』
 少年の支離滅裂な発言にどうしたものかと、レオンハルトは立ち上がる。両手に腰を当て、俯きながらその場を二、三度行ったり来たりをしたのち、かれは肩をすくめ沈黙をした。
『どうしたの? 大丈夫?』とイアンは沈黙を破るように訊く。
「大丈夫だ――恐らく、問題ないだろう。それより、当てはあるのかい?」と、熱のない口調で尋ねると、イアンは首を横に振った。
「勘弁してくれ」レオンハルトは想定通りの返事に頭を抱えると共に、これまでに感じたことの無いもどかしさに弱々しい苦悩の声を洩らした。
 しんとした沈黙が生まれ、レオンハルトは古錆色の懐中時計を取り出す。時針が一、分針が九を差し、午後一時四十五分を打っていた。午後二時の列車が発車するまでの時刻が迫り、一刻も早く偏見屋が集うロンドンから立ち去りたい焦燥感に駆られ、しばらく少年と懐中時計を交互に見つめたのち、「くれぐれもこの街が君を引き止めないことを祈る」と見捨てるかのように足早で切符売り場へ向かった。
 切り裂き魔が齎した憂苦な空気により、混沌と化したこの街で訳もなく子供が一人出歩くだなんて奇妙だ。出来る限り、面倒なことに巻き込まれたくない。だが、せめてもの慈悲で孤児院へ連れて行く、あるいは、良心を捨てそこらを彷徨く警察(スコットランド・ヤード)たちに賄賂を渡して代わりに救貧院へ連れて行くように頼むべきなのだろうか? どちらが最善の選択だ? いや、待て。何故、俺は見ず知らずの子供に対して親身になっているのだ? あの子の兄でもなければ親でもない――赤の他人だ。子供とは言えどあの子は既に大人だ。そうさ、()()()()()なのだ。世間を知らないのなら今から学べばよい、これ以上干渉する必要はない――時間の無駄だ! それに、あの子がこの世からいなくなったとしても貴族を含む裕福な生まれの者でない限り、誰一人気に留める者はいない。産業革命以降、人々は慈しみを忘れ、あらゆる形の死を眼の当たりにしすぎたのだと、かれは本心を偽り懸命に自分に言い聞かせた。が、少年との距離が空けば空く程、罪悪の病が良心を喰らい、耐えがたい苦悶の瞬間が訪れる前にかれは立ち止まり、渋々と振り返って低く倦怠感を宿した声で言った。
「君、いつまでそこでお絵描きする気だ。さっさと此方に来い」イアンはレオンハルトの言動に狼狽えながらも立ち上がり、かれの元に駆け寄った。
「もう一度聞こう。本当に当てがないのだな?」
 少年が訝しげに眉を顰めながら頷くと、レオンハルトは手招きをした。
 ふたりは切符売り場に向かってカンタベリー行きの切符を購入すると、一枚をイアンに渡した。初めて手に取る切符に興味を唆られ、じっと眺める少年にレオンハルトは咳払いをし、妙に穏やかな声とは裏腹にどこか威圧感を与える口調で喋り始める。
「よほどロンドンから離れたくないのだな。この場に留まりたい気持ちはとてもよく分かるが、残念ながら汽車は待ってくれないのだよ――分かるだろう?」
 イアンはかれの静かな憤りを感じ取り、鎮めようと切符に向けていた視点をかれに戻した。レオンハルトはにこりと微笑むが、間を置かずに暗く冷淡な顔に戻る。ふたりは歩廊へと続く門に向かい、番人の如く入り口で仁王立ちする強面の駅員に切符を見せ、門を潜る。道中、乗客たちの長く退屈な時間を有意義な時間に変える新聞、雑誌、大衆小説等が無秩序に並べられている売店が見え、ふらりと立ち寄ると、白髪まじりの痩せ萎びた険しい顔の店主が生暖かい眼差しで歓迎した。
「必要なものがあるなら今のうちにここで買い揃えておくといい」レオンハルトは新聞と雑誌を手に取ると、三ペンスを店主に渡しながら言った。
 イアンは迷うことなく新聞紙を取り、それをレオンハルトに見せた。
「それだけで良いのか?」レオンハルトは怪訝そうに訊くと、少年は首を傾げる。
「これから長い時間汽車に乗る。新聞だけでは退屈にならないか? 大衆小説として、ウォルター・スコットやチャールズ・ディケンズにシェリダン・レ・ファニュ、若者向けの安価な低俗小説だと侮蔑されているが、扇情的で刺激的なペニー・ドレッドフルだってある」
 何か言いたそうにもどかしげな表情を泛べるイアンに「興味ないと言いたいのか?」と訊くと、すぐに首を横に振る。かれは続けて訊いた。「では、読んだことがあるのか?」
 少年は頷いた。
「君は随分と物好きだな。本が好きなら幾らでも読ませてやろう」
 すると、イアンの脣には期待に満ち溢れた微笑が泛び、次第に喜びの色と表情が無邪気な勿忘草色の瞳に宿る。
(はしゃ)ぐにはまだ早い。無事に帰宅してからだ」
 異様に眼を輝かせている少年の無垢で熱烈な視線を浴びながら、店主に追加で一シリング渡して売店を後にした。間もなくして、駅員たちの乗車を促す声が歩廊に響き始めた。かれはすぐに少年の小さな手を握って、小走りで汽車に乗り込んだ。
「君、汽車に乗るのは初めてか?」
 イアンは頷くと、レオンハルトは手を離し、腰を落としてから言った。「そうか。なら、先程渡した切符に俺たちが座る席の番号が記載されている。席の番号は扉に表記されているから照らし合わせれば見つけられる――君がよければ一緒に探してくれないか?」
 イアンは勿忘草色の瞳を輝かせ、仔犬のように燥ぎ車内を駆け、探し始める。かれは、慌てて乗車客の通行の妨げにならぬように呼び掛けながら後を追う。途中、丸々と肥え、締りのない身体を高価な鼠色の外套と背広で包む老いた脚の短い紳士と熟れたブルーベリーのような濃い秋色のドレスの優美さをかき消し、文質彬彬とは無縁で高慢な顔つきの淑女たちのイアンに向けられる侮蔑をたたえた眼差しと呪詛の言葉にレオンは忿懣(ふんまん)を感じてぶるぶると右手を(ふる)わせた。かれは、病的なまでに家柄・血筋・身分に執着する高貴な差別主義者(レイシスト)である一部の上流階級の人間を酷く毛嫌っていた。階級に支配された社会の中で上位に立ち、逍遥自在な彼らにとって異邦人または労働を要する階級に属する者たちは、たとえ教養深く豊かな智慧を持つ聡明な者であろうと、下劣で慢侮の対象であると思想にしているからだ。そんな穢らわしく醜悪な少年を連れたレオンは再び好奇な視線を浴びることとなる。あらゆる罪が許されるのであれば、激情に身を委ねて楯突きたいと思いながら、忿懣の情を悟られぬように理性で抑圧し、いつもと変らぬ冷淡な顔つきで優越感に浸かる彼らを黙殺して横切り、イアンを追い続けた。
 そんな暗いかれとは対照的に、朗らかな微笑を浮かべているイアンは指定席を見つけると、レオンの方に向き変えて両手を名一杯に振って訴えかける。
「上出来だ。さあ、中に入って席に着こう」
 レオンハルトは歩み寄り、扉を静かに開けると、イアンはかれを勢いよく押し退けて我先にと中へ入り、窓際の席を占領した。かれは落ち着きを失い、車窓にべったりと張り付くイアンに呆れながら、帽子と手荷物を置き、静かに戸を締めて倒れるように座席にもたれた。鞄から唐草模様を施こした金属製の巻煙草入れとペイズリー柄のマッチ入れのケースを取り出し、阿片入りの巻煙草を薄い脣の上まで運び、火を点けると妖しく青白い煙がレオンハルトを包み込み甘美なる毒と快楽がかれの肺を満たす。
 イアンはすぐに奇妙な香りに気づき、巻煙草に眼を注ぐ。レオンハルトは燻る巻煙草を差し出すと、少年はすぐに手に取って物珍しそうに眺める。まもなくして、焼けた野草の香りと煙が空間を満たし、穢れを知らない小さな身体と肺を毒と不快感で犯した。
 レオンハルトは鼻を鳴らし、小さな指から巻煙草を回収して再び脣まで運んだ。イアンは初めて嫌悪の情を露わにし、子供らしく力任せに車窓を開けて、厭らしい香りと煙をロンドンの汚染された空気と入れ替える。
「随分とお気に召されたようで」かれが巻煙草を咥えたまま言うと、少年はそっぽを向いた。
 すると、発車を告げる汽笛の哀愁漂う音がロンドン・ブリッジ駅内に響き渡り、ゆっくりと列車が動き出す。灰色の空へたっぷりと吐き出される蒸気と黒く無骨な車体を支え動かす車輪に興味を唆り、車窓から半身を剥き出して眺める。レオンハルトは「何をしている! 落ちたら怪我どころでは済まないぞ!」と叱り、すぐに巻煙草の火を消してイアンを強引に車内に引き戻すと、車窓を乱暴に閉じた。
 真新しい物を目にし、昂揚感に浸るイアンは新聞紙を座席一杯に広げ、特定の単語を指で一つずつ丁寧に差し時間を掛け言葉として繋ぎ合わせて尋ねる。
『何か書く物を持っていない? お兄さんとお話がしたい』
 反省の色を見せることなく、筆談を試みるイアンにレオンハルトはため息を洩らしながら、鞄から使い込まれた黒い革製手帳と金属製のペンを取り出し、空白の頁を開いてから渡す。少年はそれらを受け取ると、すぐに言葉を綴ってかれに見せた。
『ありがとう。この汽車はカンタベリーに向かうのでしょ? 僕は生まれて初めて行くからとても楽しみ! それと、カンタベリーは十三世紀から十六世紀のはじめまで黒死病で人口が三千人近くまで減ったって本当?』
 レオンハルトは、無邪気な表情から発せられるイアンの問いに戦慄を覚えた。智慧と教養が求められるたった一つの少年の質問に積み重なった疲労による停止寸前の思考を巡らせ、喉につまる言葉を無理矢理絞り出し、声を震わせながら答えた。
「黒死病があったことは確かだ。しかし、人口に関しては答えることは出来ない。何故なら俺はその時代を生きていないからだ。正確な数字を求めるならば本に尋ねれば良い」
『本で読んだことがあるから気になったから訊いてみたの』
「それは素晴らしい。だが、俺の専門外だ」
『分かった。ヘンリー八世の離婚問題でカトリックと絶縁したって歴史もあるのでしょ?』
「それも専門外だ! しかし、事実であると認める。一つ尋ねるが、君はもう少し愛らしい内容の質問をすることができないのだろうか?」
 かれの厳しげな口調により、しんとした沈黙が生まれた。少年はしばらく悩み始める。再び型破りな質問をされるのではないかと、レオンハルトはどこか落ち着かない様子で待ち構えていると、少年ははっとした表情を泛べてからようやくペンを動かした。
『カンタベリーにはどれくらいで着くの?』
 平凡でありふれた質問に安堵したレオンハルトは、「新聞を読み、飽きたら羊を数えていれば良い」と答えた。イアンは、早速と言わんばかりに革手帳とペンを膝の上に置き、礼儀正しく座り()()()()()新聞を黙々と読み始める。
 ようやく待ちに望んだ静寂が訪れ、レオンハルトは新たに巻煙草とマッチを取り出し、火を点ける。肺を毒で満たしてから新聞を広げ、ざっと眼を通す。英国を震撼させる「ホワイトチャペル殺人事件」の新たなる犠牲者スピタルフィールズのハンベリー・ストリート二十九番地の売春婦アニー・チャップマンが九月八日土曜日午前六時ごろ、「子宮」の一部が取り除かれた惨たらしい遺体が発見され、ヴィクトリア女王は、一人住まいの男の聞き込みと切り裂きジャックの逃亡を防ぐ為、船の捜査、夜警を徹底すると公表した。程なくして起きるであろう警察(スコットランド・ヤード)と自警団による対立の激化、死に脅える市民たちの罵詈雑言の嵐、鎮まることのない暴動などの光景とロンドンのいやな思い出が脳裡に泛び、辟易とした。
 ひとつ息をつき、レオンハルトは再び眼を通すと、無名女優の事故死――玩具屋の店主の変死――霊媒師の毒殺――誠実なる自由を求め米国へ渡る者たち――若い男の失踪――悍ましい事件と同日に開幕されたフットボールリーグ――淑女としての幸せを得ようと生き方を改める娼婦、行き遅れた憐れな上流の男、新たな伴侶と安らぎを求める未亡人たちによる恋人募集の広告など統一性に欠け、混在とした情報の中で身の毛がよだつ程美化されたであろう失踪した若い男の人物画に興味を唆る。

「九月八日午後六時ごろ、エリス・グレイが失踪――白い髪、菫色の瞳を持つ二十歳前後の若い男の目撃情報を求む」

 レオンハルトは、瞼の上と肩につかない程度の長さに規則正しく整えられた髪、頬に丸みを帯び、女性的で柔らかな顔の輪郭、細く滑らかな曲線で描かれた『エリス・グレイ』を否認した。まったく想像力豊かな者がいるものだ! 白い髪、菫色の瞳、そして、見目麗しい女性を彷彿させる風貌を持つ美男子がこの世に存在するとでも言うのか! 現実味のない妄想の産物を大胆に公にするとは狂気の沙汰だ! これが、たとえ「美」に心酔している芸術家でもだ! 偶然とは言え、目の前にいる小さな紳士と名字が共通しているとは馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そうだ、この件についてイアンはどう捉えているのだろうか? かれは、新聞を乱雑に折り畳み座席に置いて、「イアン」と、初めて少年の名前を呼んだ。
 イアンは、新聞からひょっこりと顔を覗かせたのち、読みかけの新聞を膝の上に置いた。
「エリス・グレイを知ってるか?」とレオンハルトは声を張り上げ尋ねると、イアンは手帳を開き、文字を綴り答えた――『新聞に載っている失踪した人のこと?』
「そうだ。君と同じ名字をしている――身なりからするとそれなりに身分が高いように見える。何か知っているか?」と続けて訊くと、少年はエリス・グレイをじっと見つめたのち、静かに首を横に振った。
「そうか――くだらないことを聞いてすまなかったな」
『僕には何がくだらないのか分からないけど、エリス・グレイって人見つかるといいね』
 レオンハルトは乱雑に折り畳んだ新聞に手を伸ばし、再びエリス・グレイの記事を開きながら語を継ぐ。「見つかるといいね、か――記事では失踪したと述べているが、この時代に明確な「写真」ではなく曖昧な「人物画」で掲載していることが奇妙だ。これでは、まるでエリス・グレイの存在を否定しているように感じる。しかし、この画のように美しい女の風貌をした男が実在するならば、世にも珍しい白い髪と菫色の瞳とやらを見てみたいものだ」
『なんだか否定的だね。けど、そこまで言うなら本当は女の子の可能性もあるかもしれないよ?』レオンハルトは鼻先で笑い、更に語を継ぐ。「まるでジャンヌ・ダルクの再来とでも言いたいようだな。が、国を救うにしてもとうの昔に戦争は終わっているぞ。それよりも、もし彼が本当に存在するのならば軽蔑の眼差しを向けられないことを願うばかりだ」
『軽蔑? 一体、何を見て軽蔑するの?』
「白い髪と菫色の瞳だ」
『たったそれだけで?』イアンは眉を顰めて尋ねた。
「ああ、そうだ。英国で生まれ育ち、英国人として生きていた者でも、いつの日か「名前が()()()()()()()()」を理由に蔑まれる。故郷を諦めてまでジャガイモ飢饉から逃れようと渡英したアイルランド人のように、あのヴィクトリア女王の亡き夫アルバート公も貴族にも関わらず貴族社会や社交界では「異邦人」として疎まれていた。だから、愚蒙(ぐもう)軽忽(きょうこつ)な人間はそこらに転がる石ころのようにいると思った方がいい」
『同じ人間なのにほんの少し違うだけで冷たくされるのはなんだか悲しいね』イアンは悲しげな顔をした。
「信仰深かった時代に愚かな神とその憐れなる子たちが「完全なる秩序」を病的なまでに愛し、他者に強要したのが全ての発端だろう。バイキングをはじめとする異人種による侵略、大陸続きの欧州とは戦争を含む長年の交流に各国から亡命者を受け入れてきたこの英国に「完全なる秩序」はとても不似合いすぎる。現に王室の血筋はドイツ系なのだからそろそろ「多様性」を受け容れるべきだ」
『僕のお父さんも同じようなことを言うけど、ハプスブルグ家のような純血主義はもう古いってこと?』
「純血主義とは、君は変わった言い方をするのだね。そうだな――簡単に言えばそう言うことになる。今は具体的に意味がわからなくてもいずれ分かる日がやって来る。「あらゆるものはこうあるべきだ」と言う思想は、危険で破滅を招くこともある――いつしかハプスブルグ家のように滅びるのだと、頭の隅にでも入れておいてくれ」
『分かった。質問だけど英国が「完全なる秩序」を追求したらどうなってたの?』
「これは俺の推測になるが、集団心理の暴走の一例として挙げられる一七世紀の米国に起きたセイラム魔女裁判のように、反発する者は問答無用で無差別に絞首刑だ。同調圧力の前では一人の理性や正しいであろう倫理ですら無力と化し、報復と呼ばれる告発によっては、権力争いや迫害などが日常的に見られる「()()()()()()()」な世界になっていただろう。さて、エリス・グレイを含めて難しい話はここまでにして、外の景色でも見たらどうだ?」レオンハルトは、閉ざした車窓を開けながら言った。
 イアンは車窓に眼を注ぐと、豊かな緑と秋の訪れを感じさせる紫色のヒースの花が咲き乱れる郷愁の世界が広がっていた。ありとあらゆる汚物に塗れたロンドンでは決して見ることのない美しい景色に心奪われ、手にしていた筆記用具と膝の上に置いた新聞をそっと丁寧に座席に移し、身体を窓側に向ける。壮大な自然が生み出す爽やかな空気とヒースの花の甘く安らかな香りが車内を包み、心地良い風がふたりの頬を優しく撫でた。
「良い景色だろう」レオンハルトは優しい声音で言うと、イアンは向き直し柔かに微笑む。
「ロンドンが恋しくなる前に、今のうちにこの景色を目に留めておけ。ただし、車窓から絶対に顔を出すな」
 イアンは頷き、車窓の向こうに実在する絵本の世界を眺める。レオンハルトは古く馴染み深い景色に安堵を感じ、しばらく少年を暖かな目で見守る。束の間の休息を得ようとゆっくりと瞼を閉じ、やがて眠りに落ちた。
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