第1話 【書評】ボワソナアド(副題)日本近代法の父(2022.4.30記)

文字数 1,307文字

【明治人は日本をどんな国にしたかったのか?】

1.書名・著者名等

大久保 泰甫 (著)
『ボワソナアド(副題)日本近代法の父』(岩波新書 黄版 33)
出版社 ‏ : ‎ 岩波書店
発売日 ‏ : ‎ 1977/12/20
ペーパーバック ‏ : ‎ 210ページ

2.兎平亀作の意見です

ボワソナアド先生は理想家肌の法律家である。だが、自分の理想を(勝手が分からなくて右往左往している)明治初期の日本人に、押し付けたりはしなかった。

「現段階の日本で、自分が果たし得る役割は何なのか。何が一番、日本のためになるのか」と言う、謙虚かつ現実的な姿勢でベストを尽くしてくれた。何よりも、正直者であった。

こういう人に巡り会えた明治の日本人は果報者だ。ボワソナアド先生、どうもありがとう。

これが本書の、第一の感想である。

本書は、ボワソナアド先生の一人芝居ではない。
多士済々の脇役・敵役が、ボワソナアド先生を引き立てている。これが、とても面白いメンツなのだ。

登場順に挙げると、江藤新平、箕作麟祥、井上毅、山田顕義、大久保利通、大木喬任、津田真道、谷干城、小村寿太郎、梅謙次郎、穂積陳重・・・。

他にも沢山、出て来るのだが、ご紹介に値するのは、ここら辺までだ。
明治も時代が下るにつれて、段々、役者が小粒になって行くからである。

(邪道かもしれないが、上記サブキャラの「世界観」は、Wikipediaで都度々々補いながら、本書を読み進んだ。おかげで、読了するのに、時間が倍かかった。)

日本をどんな国にすれば良いのか、本当に誰もが考えあぐねていたのだ。「
文明開化」とか「富国強兵」とか「和魂洋才」とかは、おおまかな目標であって、具体的な法律の条文にまで落とし込んだ国家イメージは、誰もがつかみかねていたのである。
それはゼロ・ベースで議論するしかなかったのだ。

明治の高官たちは、フリーハンドで理想の国家像を論じている。
最初から結論の決まった、セレモニーめいた「審議会」だの「諮問機関」だのとは訳が違う。鏡なしで自画像を描こうとするような、見方によっては、無茶としか言いようのない企てである。

こういう闊達な議論が許された時代があったのだ。
いや、必要に迫られて、真剣に議論していたのだ。
「条約改正を急げ」という至上命題があった。
安保上の脅威も、今とは比べ物にならなかった。

明治政府の高官たちに、ブルジョア主義だの、絶対主義だのと言ったレッテルを貼って済ませてしまうのは、一面的な見方だと思い知った。
自由も、民主主義も、国家の独立も、全てが流動的だった。
「善玉」対「悪玉」史観じゃ、何も見えて来ない。

これが本書の、第二の感想である。

おかわいそうに、ボワソナアド先生は、民法典論争[1889年(明治22年)~1892年(明治25年)]なる政治的茶番劇に巻き込まれて、ドロンコにされた上で、フランスに帰国するハメになる。
この論争で名を上げたのは、触れるのもイヤな、ツマンネー連中ばっかりだ。

日本が近代国家として自立するまでの「伝説の巨人時代」は、ここら辺で終わったと見るべきなんだろう。

本書のおかげで、私は日本を見る目が変わった。

これが本書の、第三の感想である。
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