第5話

文字数 3,045文字


 この世界で気をつけなくていけないのは子供だけではない。至る所に触れると痺れる糸が張り巡らされているし、大きな鉄の獣がとてつもない速さで、固められた土の上を這いずり回っている。おそらくだが、全部人間の手のものだと思う。でも僕には蜘蛛の巣だって同じくらい危険だったし、カラスだっていつ僕に手をつけるかわからない。僕は世界で八方塞がりだった。
 それでも他のセミたちはなんなく自分たちの目的をこなしていた。決死の覚悟で木にしがみつき、精一杯声を振り絞ってメスを口説いていた。僕もそれを見てなんの焦燥を抱かなかったわけではなかった。僕だって一度はやってみたのだ。
なるべく地上から離れた木に飛びついて、大きく息を吸った。そして歌った。僕の歌声はとても酷かった。今までに聞いたことのないくらい不快な声だった。どんなに声を張り上げてみても、掠れた声しか出せなかった。挙句には、途方もないくらいに音痴で、ずっと音程を踏み外していた。いくらやってみても、ただジリジリと震えた声しか出せなかった。
 そのうちに1匹のメスがやってきた。小柄で可愛らしい子だった。琥珀色をした羽が印象的だった。ビビッと脇腹を鳴らして僕とは一本隣の木に留まった。そして樹液を啜った。僕は彼女を横目に小さな声で尚も歌い続けた。僕もオスだ。ここで逃げ出すわけにはいかないと思った。彼女はやがて横で歌う僕に近づいてきて、隣に並んだ。
「やぁ」と味気ない挨拶をすると、彼女も「こんちは」と返してきた。彼女の顔に浮かんだ微笑みはこの世界に出てきてから初めて見た、美しい光景だった。
「君はこっちにきてどのくらいなの?」と訊いた。彼女は少し考えると
「まだ二日くらいってところかしら」と言った。
「僕もまだそのくらいなんだ」
「あら、じゃあまだお相手は見つかっていないの?」と彼女は言った。僕は心臓と共に、腹がジリジリ音を立てるのを訊いた。
「うん。まぁね。こうして歌の練習をして待っているんだ」
「練習?」
「そう。なんだか僕には歌の才能がまるっきりないみたいなんだ。他の奴らとは違って、僕には全然魅力がないんだよ」と言った後僕は唾を飲み込んで
「でも、頑張ってみれば1匹くらいは振り向いてくれるかもしれない。僕みたいに歌が下手なやつでも、相手が見つかった奴はいるはずだし」と言った。言い切ってしまうとなんだか恥ずかしいように思えた。こんなことメスに話してみて一体何になるんだろう?まるでこんなにダサい僕を構ってくれないかとでも言っているみたいじゃないか。何か弁解しようとも思ったが、それもやめた。今更言ってしまったことはどうしようもできないのだ。僕は次に彼女が何を言うか怯えながら待った。木のどこかでやはり蝉は相手を探している。空の遠くで鳥よりも速い塊が白い尾を引いて飛んでいた。
「私、そういうの好きよ」とメスの蝉はいった。僕は何を言えばいいのかわからなかった。
「どんなにカッコ悪くたっていいのよ。大事なのはどれだけ相手に本気になれるかってことだもの」と言った。
「僕に本気になってくれる相手なんているのかな」僕はつぶやいた。
「えぇ。私だって君のそういうところ、好きになっちゃいそうだよ」僕はなんだか恋をしてしまったみたいだった。それは僕の思い描いていた、”種を残す”という淡白な宿命とは全く異なった形だったが、それでもいいように思えた。たった1匹でも、僕のことを好きになってくれるメスがいたのなら、その子のために生きようと思った。
「明日も来ていい?」と僕に訊いた後、彼女は飛び去って言った。その後ろ姿もとても魅力的で僕の情熱にさらに油を注いでくれた。僕は彼女と一緒になりたい。それだけが今の生きる活力になった。彼女がいなくなってからも僕は歌を練習した。
 その夜、僕は辺りを飛んでみることにした。夜は昼間よりも人間の活動が静まり、その分危険も減る。自分の周囲を調査するにはうってつけだった。僕は木を離れて、光の灯る石の森を彷徨った。人間の笑う声や、怒鳴る声が聞こえた。こんな時間になっても、歌う蝉はいて、盛んに相手を求めるのが分かった。
 やがて眠くなってきた僕は、調査をやめ寝床を探すことにした。ほとんど木のない世界で安眠できる場所を見つけるのは容易なことでなかったが、その夜は運が良かったのか、すぐに見つけることができた。木がたくさんあって、ちゃんと土も敷かれている場所だった。所々に人間が作った置物があったが、比較的”森”と呼べそうな場所だった。やはり、多くの同類たちが眠りについていた。僕はいい場所はないかとゆったりと飛んでいると、蝉がまぐわっているのが目に入った。見てしまっては野暮だと思って、すぐにその場を離れようとしたが、何かが僕にひっかかった。あの色の羽。見覚えがある。
 それは昼間僕の隣にいたメスだった。とても激しい行為だった。それは単に”種を残す”と言う目的を超えたもののように見えた。体を捩らせ、その快楽に身を任せている。彼女を覆うオスは、とても美しい声をしていた。それは息づかいから漏れ出す、細い喘ぎ声でわかった。歌声も素晴らしいものに違いなかった。
 気づいた時に僕はもうそこにはいなかった。僕はどこにも向かっていなかった。僕はなんだか可笑しかった。笑いながら飛んだ。最初から分かっていたことじゃないか。歌声の汚いやつに惹かれるメスなんているはずがないのだ。そして蝉に努力になんてなんと滑稽な!いくら頑張ってみたところで先に寿命が尽きるに決まっているじゃないか。僕は種を残せず、このまま死ぬのだ。つまり、僕はもうこの世界にいる必要などないわけだ。やっぱり僕の居場所なんてどこにもなかったんだ。気がつくと僕は木ではなく、人間の巣を囲む、石の壁にはりついていた。それはとても冷たく、無機質で、存在を失った僕にはピッタリだった。
 それから僕は死に場所を求めて飛び回るだけの虫になった。もう歌ったりもしないし、相手を探そうとも思わなかった。ただ安らかに死ねる場所があればいいと思った。たかが死ぬことにこだわる自分もよくわからなかったが、檻の中で朽ち果てるのは嫌だし、鉄の塊に踏み潰されるのも嫌だった。苦痛を伴わない死に方をしたいというのが僕の最後の望みであり、絶対にやり遂げなければならない使命だった。
 熱と灰に侵された空気が僕の胸を焼いた。長時間飛び続けるのはとても過酷だった。外に出てこいと言われ、嫌々出てみたら、歓迎してくれるものは1匹たりともおらず、僕は誰にも必要とされないまま外界を後にする。なんて惨めなのだろう。こんなのだったら、ずっとあの穴倉にいるべきだった。外の出てくるべきではなかったのだ。いや、もはや生またこと自体が間違いだったのかもしれない。
 何時間と飛び続けたが、この世界でひっそりと死ねそうなところはなかった。どこもかしこも絶え間なく人間が動き続けていて、恐怖が僕の周りから離れていくことはなかった。もう僕は飛んでいることさえ嫌になってきて、人間の巣に入った。もうどうなってもいいと思っていた。
 するとそこには細い一本の松の木があって、一息つくには良さそうだった。僕は捕まっているのが疲れたので、枝の方まで張っていき、地上と水平になるところに向かった。こうしていれば頬杖でもつきながら、死ぬことができる。足の筋肉を使う必要はない。息を吐いて体の力を抜いた。葉の影が僕の体を優しく包んで、疲労で蒸した体を冷ましてくれた。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み