第3話

文字数 2,294文字

老人
 私は少年になって世界を見ていた。そこは子供の頃居心地がよくも悪くなかった、古臭い家があった。そして今から眺めようとしているのは私の初恋の記憶である。
 私の住んでいた旧家の隣の家には、国語教師の一家が住んでいた。彼は学者気質なのか、単にインテリ気取りだったのかはわからないが、その気難しさで、近所ではあまり交流の盛んではない人物として認知されていた。
 そんな国語教師は、時折私が見る竹でできた柵の上から、姿を表してタバコをふかした。その匂いは強烈で、私が部屋で昼寝なんかをしているとその煙が鼻腔を突き、気持ちの良い転寝から引きずり落とされたりした。
 彼は私の父と少しだけ交際があったようだから、おそらく父の気を引こうとして、わざとこの家の敷地に煙を燻らせているようだった。実際、私の記憶している彼の顔はどこか寂しそうで、誰か話し相手を探しているように見えた。
 よく私は家の庭先で隣の家をこっそり見ていたのだが、国語教師が現れるとすぐに引っ込んだ。私はこの男が鬱陶しかった。私は脂の浮き出たオヤジの顔なんてこれっぽっちも見たくなかったし、あのタバコの匂いが嫌いだった。彼の吐き出す煙には、どこか人間の憂鬱さが混じっていて、それを嗅ぐと頭が重くなるような気がした。
 私はその堅物の娘の顔を見るのが楽しみだった。彼女はその家の一人娘で、私の中に初めて淡い色の恋の花を芽吹かせた美しい娘である。
 歳は私と十も離れていたこともあって、彼女は私を少年としてか扱ってくれなかった。私は何度この娘に男児の自尊心を傷つけられたか計り知れない。だが、それと同時にその自尊心の形成にも大きく作用した。
 無学だった私は第一に勉学に励んだ。それは父に国語教師を持つ子だったから、学のある青年になれば、必ず彼女はこちらを向いてくれるという浅はかな思いつきのためだった。
 でも今思えば、私は実に勉強ができない子だったと思う。何時間も本を読んでは、「なるほど」と顎に手を当てつぶやいたものだが、その知識をひけらかす時に、口から出るのは決まって嘘と真を織り交ぜた不純物だった。なぜなら、私は娘と顔を合わすだけで、周囲の世界は失われ、そこには娘と自分以外に、何も残らないからだった。
ある時、私は庭で彼女を見かけると
「さつきちゃん!」と声をかけ、柵に向かって走っていった。その声に振り向いた彼女は、足を一度止めて、「あら」と上品な声と共に微笑んでみせた。私たちは柵を間に挟んで向き合い、文学の何たるかも知らない少年が意気揚々と、虚飾された知識を語り出す。
「さっきね、太宰の本を読んでみたんだ。題名は確か…そうそう『ラクヨウ』だった!」これは「斜陽」の間違いだ。少年は漢字もろくに読めなかったのだ。だが、それでも彼は一つの蕾を最後まで開かせようと必死だった。
 これには娘の方も苦笑を禁じ得なかった。しかし、少年は苦笑の意味をまだ知らなかった。人間が人を嘲ったり、小馬鹿にするために、笑みを浮かべることなど知り得なかったのだ。それを少年は、「俺がこんなに難しい本を読んで感激しているに違いない。惚れているに違いない。だからこんなにも優しく笑ってくれるのだ」と陶酔していた。そして調子ずいた彼は
「でもね、彼は若くして死んじまったんだ。確か、愛人と一緒に船に乗ってて、それで…そのままひっくり返って溺れて死んだんだよ。二人とも泳げなかったらしいし、夜だったから周りに誰もいなかったって」と鼻高に言い放ったのである。大嘘つきである。地獄行きである。でも閻魔様に舌を抜かれるよりも、この娘に笑って欲しかったのである。
「あらまぁ、それは残念ねぇ。一度お会いしてみたかったのだけれど」琥珀の肌に少し笑顔を滲ませた。
「でも、美しいお話じゃない。それこそまるで小説よ。妻よりも愛する人とお月様の下に沈んでしまうなんて」と詩的なことをいったなと少年は思った。空には太陽があったが、月の光に照らされたみたいに、静謐な微笑が、彼女の顔に浮かんでいるのが見えた。
 だが、その余韻を残さずして、例のガリ勉オヤジが奥から登場したのである。これはまずいと思った。私の話を聞かれていたら大変なことになる。教師が柵に寄ってきてタバコに火をつけると、それを煙たがるように少年は少し後ずさった。
「少年。君は全くもって無学なやつだなぁ。太宰はそんな死に方していないよ」私は冷たい汗が流れ、体が凍りつきそうになった。娘の方は尖った視線を父に向ける。
「太宰はねぇ。病気で死んだんだ。それもたった一人で部屋でね」と、言った。彼のまじめな表情は煙の中にあっても、確固たるものだった。少年は、知識の量でも、自信の度量でも到底叶うはずのない相手に、何も言い返すことができなかった。「そうだったんですか」と一言呟いたきり、少しの沈黙が流れる。
「もうお父さんったら、この子と張りあわないでよ」と高々に笑い声を青空に向けて解き放った。彼女には笑顔以外に必要な化粧などないとこの時思った。
「いやでもね、間違いない。私は知っているのさ。あの死に方は間違いなく病気だよ。どこにも書いてはいないけどね」
今だから分かるが、少年と同じように、教師もまた大嘘つきであった。この時、私がもっと勤勉に辞書を引いたり、新聞をよく読んでいたりしたら、あるいは、少年が持つ純粋な心を男の自尊心なんかと名づけさえしなければ、あの国語教師から一本とってやることができたはずなのである。その絶好の契機を逃した少年は、この先もずっとこの敗北を一生の「記憶」として手放すことができないことを、まだ知らないように見えた。
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