第10話

文字数 3,164文字


 僕はなるべく早くその敷地から出たいと思っていた。なぜなら人間の死の匂いは僕たちのよりもはるかに強かったからだ。それはもう花の香りなどではなく、同胞が埋まる土壌のカビた匂いだった。
 でも、僕はあの人間を一人にしてここを去ることができなかった。その理由ははっきりとはわからない。でも一度間近に見てしまった死のイメージが、僕の体をここに止めているような気もしたし、人間が死ぬのを見たいという好奇心みたいなものもあった。
 僕は脱皮する時に、一緒に捨ててくるはずだったものをいまだに持っているのかもしれない。それはいまだに僕を成虫にしてはくれず、ずっと穴倉の心地よさを僕に説いている。一人でいることの楽さを僕に押し付けている。僕はそれをどこかに捨てていかなくてはならないと思った。僕は羽を広げて、人間の方に向かって飛んだ。怖くなかったわけではない。でもやらなきゃいけないという思いが、僕を1匹の弱虫であることを忘れさせた。

老人
 松に留まっていた蝉が飛んだかと思うと、私の横に並んだ。律儀にも頭を低くして木の床にくっついている。蝉を真正面から見たのは初めてだった。意外にも目らしきものはちゃんとあって、それを私に向けている。縁側に並んで同じ景色を見た老人と蝉はこれまでいたのだろうか。いずれにしても奇妙な構図ではある。
 蝉は別に襲ってくるわけでもなかったから、私は松の木を眺めながらまた物思いに耽る。本当に私は自分の家族たちに幸福をもたらせたのだろうか。いや、やはり金で彼らを満たすことなどできなかったのかもしれない。
 よく考えてみれば、私は夫として、父として立派とはいえなかった。仕事に明け暮れる日々で、子供の世話はせず、家事は妻と雇った使用人にやらせきっていた。いつしか妻は私と口を聞かなくなり、子供達も私を他人として扱うようになった。血のつながりなど、人間の他者の価値基準に全くもって意味を持たないのだと思う。
 今では妻は別宅を持ってそこで暮らし、子供たちは独り立ちし、もう巣には帰って来ることはない。一方の私は金で買った他人に身の回りの世話をさせ、こうして一人でこの見た目だけ壮麗な庵にいるだけだ。何か与えた者の報いにしては、あまりに空虚すぎる。
 でもそれでいいのだ。私はたとえ家族に嫌われようと、除け者にされようと、私は一向に構わない。なぜなら私は自分の幸福のために家族をつくったわけではないのだ。私は人を愛するということは自己犠牲であると信じてきた。自分の私利私欲のために結婚し、生物本能に嫌々したがって子供をつくったわけではない。彼らをこの世の花園に導くためにやってきたのだ。たとえそれが受け入れられずとも、私はそれでいいのである。男とはいつも一人で死んでいくものなのだ。それは初恋の人に置き去りにされた少年、たった一人の友に先立たれた青年に教わったことなのだ。


 人間の死の匂いはますます強くなっていった。僕は夏の容赦ない暑さで干からびていくこの命にどこか夢中になっていた。人間は何かを考えるようにずっと松の方を見ている。そんなにあの木に思い入れがあるのだろうか。あるいは木を通じて何かを思い出しているのかもしれない。
 僕はやっぱり一人でなんか死にたくないと、この人間を見てはっきりと思った。その内面の変化に僕は驚いていたが、あの蝉の最後を見てしまった以上、そう考えるのは当然のように思われた。肉がどんどん乾いていって、挙句にはあの松の木のように土と繋がりたくなんてなかった。
 僕は死を放つ人間を間近で見て、本物の孤独を知ったような気がした。

老人
 蝉は鳴きもせず、私の横でじっとしている。ほんとうにこれは蝉なのだろうか。そんな疑問さえ私に生まれてきた。蝉はどんな風に死んでいくのだろう。木に張り付いたまま、事絶えてそのまま地面に落ちていくのが普通なのだろうか。あるいは車に引かれたり、電線に絡まって丸焦げになる事だってあるに違いない。そうなると、私みたいに一人で、眠っていくように死んでいくのが彼らにとって、理想の往生なのかもしれない。形は違えど、私たちは同じ命なのだ。


 人間は僕の方をじっと見つめている。僕に何か訴えているのだろうか。僕は人間の言葉を持たないから何を思っているのか理解することはできない。それはあちらも同じことだ。でも、もし僕が人間と話せたらどうだろう。まずとにかくどうやって死ぬのか聞いてみたいと思う。次に、その時に何を思うのか。でもやはり一番は、長く生きるということがどんな感じであるかだ。それは僕ら蝉が一番気になる事だと思う。生きている間に何をするのか。それは彼らにとっても大事なことに違いないんだ。

老人
 蝉は私を凝視している。私に何か聞きたいことでもあるのか。何を聞きたいのだろう。やはり何十年も生きることについてなのだろうか。もし聞かれたらなんと答えるべきだろう。
 80年は短い。いや、それだと彼らにとって不敬極まりない。でもそれは紛れもない事実なのだ。今私が広げた生涯を見て貰えばわかる。結局手元に残るのはこれぽっちなのだ。君らよりもはるかに長く生きているのに、これしかないのだ。
 どうだろう。君の一週間と私の80年。天秤に乗せたらどちらに傾くのか。あるいはどちらにも….


 僕の人生は本当に短い。でも空っぽじゃない。失恋だってしたし、友達だって無くした。それらを通して僕は本当に一匹になった。僕はやっぱり1匹は嫌だ。本当は誰かにそばにいてもらい。でも僕らの同胞はそれに気づかない。あるいは気づかないふりをしている。子作りに忙しい日常で、その事実を上書きしているんだ。でも死ぬ時になってそれが雨で流されて、こう思うんだよ。なんて虚しいんだろうって。

老人
 私は疲れた。仕事にも家族にも。でもそれで私は満足である。そう思うことにする。自分の才能を大いに役立てることができたし、家族にも多くの富を残すことができた。孤独に死ぬというのは、人間が書いた最初の筋書きなのだ。私はそのプロット通りの結末を迎えるに過ぎない。そしてそう終えられることを幸運だとも思うし、幸福だとも思う。そう思うべきなのだ。


 本当はこの人間の死を看取ってやりたいと思った。でもそれは今すぐにはやってこないし、時間が残されていないのは僕も同じだった。僕は奥から聞こえる足音で人間のそばを離れた。 
 僕は夏の旋風に吹かれて、松の木の周りをしばらくの間飛んでいたが、やがて壁を越え外に出た。いつもと変わらぬ世界がそこにはあって、僕はやはり歓迎されていないように思えた。
 でも僕は迷うことなく、真っ直ぐに飛んだ。僕らの歌声が響く、硬い森の彼方へ。

老人
 使用人がくると蝉は飛んでいってしまった。しばらくの間松の周りを何周も飛んでいたが、使いの者が膳を置いて出ていったのと同時に、塀の向こう側に消えていった。
 私は一人松の木の前に取り残されてしまった。どこかで鳴く、蝉に混じって平岡の声が聞こえた気がした。
「でもやっぱり蝉にはなりたくないな。なんでかって?だってあいつら自分で死に方を選べないじゃないか。それは自分で生き方を選べないことくらい辛いもんだと思うけどな」私はこの時”一人”というものを知った。ここには私しかいない。妻も子供たちも。さつきちゃんも平岡でさえも私のそばにはいないのだ。あぁ、なんであの時初恋の人の手を、永遠の友の手を離してしまったのだろう!ここにはもう私の手を握ってくれるものはいないのだ。
「一人で死にたくない」言葉が口から流れ落ちた。
 どこからか、今まで聞いたことのない蝉の声が聞こえてきた。それは他の蝉とは違って、掠れていて、鳴き声というより叫び声だった。私は気づいた。この世に鳴かない蝉などいないのだと。
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