第2話 矢印屋

文字数 8,987文字

 なぜか見逃された。いや、無視された。
 理由は不明だが結果、問題ないのだから忘れよう。こけおどしめいた石の建物は触ってみると本物の石を使っているような重く冷たい感触である。妻はこの先にいるのだろうか。道は巨大な木の扉のついた入り口を潜り抜け橋へと伸びていた。扉は開いているが内部は明かりがほとんどなく闇に沈んでいる。石の壁を伝って入って行くとぼんやりとした反映がどこからともなく漏れていて次第に目が慣れてくるとトンネルのような通路の輪郭が見えてきた。自分の足音だけが石造りの天井に反響している。どうやら明かりは左手にあるアーチ型の入り口から漏れているようだった。覗いてみるとすぐに昇り階段になっていて上のほうから光は伝わってきている。わき道にそれるのもどうかと思いしばらく進むと突然、
 そっちに行っても行き止まりですよ、
 という声がした。ふり返ると先ほど覗いた階段のところに人影が立っている。その人はゆっくりとおいでおいで、という動作をした。
 ご案内しましょう、
 囁くような柔らかな、低めの女性の声だったのでついていく気になったのかもしれない。こちらの警戒心を解くような落ち着きがあった。彼女はアメリカ製の小さな懐中電灯で鋭い光の輪を作り、足元を照らしてくれた。そしてロングスカートの裾を揺らしてゆっくりと階段を上がっていく。後ろから見ると背の高い女で長い髪は豊かで艶やかに輝いていた。普通の建物では数フロア分だろうか、結構昇ったなと息を切らせていると、明るいリビングのような部屋に入った。
 お疲れになりましたか?
 と女は私にソファを指し示した。鼻筋の通ったエキゾチックな感じの美人だった。目元にその年齢が最も顕著に表れている。人生の疲れのようなものが感じられるような、しかし決して醜くはないむしろ好感を持って受け入れられる皺が刻み込まれていた。頬は高くうりざね型の輪郭と細くしっかりとした顎は知性と品格を感じさせた。言われるがままにソファに腰をおろしていると飲み物の盆を持った彼女と共に恰幅のいい顎髭を蓄えた男が登場した。趣味のいい細いストライプのシャツにベージュのチョッキを着込み茶色のコーデュロイのボトムスをはいている。ラフな格好だがやはり知識階級の人間ではないかと思わせる穏やかさがあった。慌てて立ち上がりかけた私を制し、
 どうもこんばんは、
 と腰をおろす。午前二時を過ぎて突然押しかけておいてこんばんはでは済まないだろうと思っているといきなり、
 橋に住みたいのですか?
 と尋ねてくる。それは西洋人が儀礼的に初対面の人間にも見せるような作り笑い、決して不愉快でもないし、適当に答えればいいとわかっているが我々はそれを前にしてつい戸惑ってしまいがちで時としては極端に愛想よく答えて恥ずかしい思いをしたり、反対に無表情で答えを返して相手に失礼な奴だと思われたのではないかと心配になってしまったりするような、あの微笑だった。
 いいえ、妻を捜しに来たのです、
 と答えると、
 そうですかそれは残念ですね、ここは結構住み心地が良いのですよ、
 と言いながら女がテーブルに並べたコーヒーを勧めた。湯気の漂っているカップの香ばしさに心が和んだ。奥には小さな薪ストーブが置いてあり、小窓からちらちらと炎が揺れているのが見える。考えてみれば車を降りてから小一時間冷たい屋外をさ迷い歩いていたことになり、かじかんでいた身体の節々が次第に温まってリラックスした気分になってきた。
 まあ今の時代に橋に住みたいなどと言い出したらいったい何のことを言っているのやら理解してもらえなくても仕方ないと諦めなくてはならないかもしれないですな、
 と男はコーヒーを飲みながら続ける。
 でも歴史的には橋の上に多くの人住んでいたことがあるのですよ。「橋の下」なら知っているという方もいらっしゃるだろう。家を持たずに暮らす人々のことを指すこの言葉はときに差別的な意味合いさえ持ちます。現代の都会では水の傍は居心地が良いイメージがありますがもともとは高貴な人間の住む場所ではなかった。「河原者」、「河原こじき」は役者を意味しますが貧しくて河原に住んでいたところからそんな風に呼ばれるようになったらしいですね。鴨長明の『方丈記』を開けば鴨川の河原に累々と積み重なる死体の克明な描写にぶち当たります。なぜ彼がそんなに死体にこだわったのかは別として、河原という場所は人が死体を捨てに来るところであり、火葬場もあったのです。水は幽霊にもつきものです。タクシーの運転手が橋のたもとで女の人を乗せ、しばらく走ってからバックミラーを見ると後部座席には誰も居ない、おやっと思い車を止めて確かめるとシートの上に水溜りだけが残されていた、というあれですよ。
 住めば都とはよく言ったものでしょう。いわゆる『家』でなくても船やキャンピングカーに暮らす人も居るし、洞窟や地下壕、木の幹にくりぬかれた穴といった自然の隠れ家もある。変わったところでは樽の中で暮らしたギリシャの哲学者ディオゲネスなんていうのもご存知ではないですか。しかし橋の上に暮らすという発想は日本にはないのです。そうそう、この本を見てください、
 と男は壁に作りつけられた本棚のほうへ向かった。白木の棚が何段にもわたって壁一面を埋め尽くしていてびっしりと本がつまっている。彼が取り出して渡してくれた本は建築学の叢書らしく、『橋・橋梁』というタイトルである。開いて指し示されたところにはこんなことが書いてある。

 人間はさまざまなところに住んできましたが、橋の上にも家を建てて暮らしていました。これを家橋といいます。
 中世ヨーロッパでは橋の上に建物を作るのはごく当たり前のことでした。礼拝堂であったり、城門であったり戦闘のための見張り台であったりさらには住宅や商店であったりしました。こうした家橋のいくつかは現在も残っています。例えばドイツのバート・クロイツナッハにあるナーヘ橋は十三世紀に作られた家橋です。橋詰には教会が建ち橋上には三軒の店舗が残っています。記録に拠ればこの三軒ももとは教会関係者の住まいだったようです。

 添えられている写真を見ると橋を支える橋脚の上に確かに家が建っている。橋の上に家を建てたというより、三軒の家を橋がつないでいるといった風情である。こうなると貧乏人が風雨を避けて仕方なしに「橋の下」に暮らす、というのとは意味が異なってくる。あきらかに意図を持って家を建てているのだ。それもただそこに住みたいという普通の目的のためだけではない。
 そうなのです、
 と男は顎髭をしごきながら次のページを指し示した。そこにはフィレンツェの有名なポンテ・ヴェッキオの透視図が描かれていた。
 橋は交通の要所なわけだから当然、毎日大勢の人間が通ります。そこに目をつけ最初に建物を作ったのは商人たちだったわけです。日本ではなんでこういう橋がないのかという疑問が湧いてきませんか? 神社の境内や庭園などに屋根のついた橋がないことはないですが、そこで商いをしたり住み着いたりという発想は現れませんでした。緩やかで大きな河川は少なく急流にかかる木の橋は家を建てるには危険だったからかもしれませんね。ヨーロッパの川は流れているかどうか分からないくらい緩やかで、しかもそこに架けられているのは石造りの頑丈な橋です。このフィレンツェのポンテ・ヴェッキオは千三百四十五年、日本でいうなら鎌倉時代に造られて今も健在です。世界中から観光客が押し寄せるメディチ家の古都は町自体が博物館のようなもので、「古い-橋」という名のこの橋を渡ろうとするならば金銀細工の無数のみやげ物店に目を奪われないようにご注意、ですな。ほとんどは価値のないガラクタを高い値で売りつけられますよ。そして怪しげな商人たちのまくし立てる勧誘の言葉を振り切るのが大変です。作られた当初は肉屋が並ぶアーケード街でした。その上に空中廊下を作らせたのがコジモ一世です。暗殺を恐れた彼が居城のヴェッキオ宮殿から毎週礼拝に赴くピッティ宮殿までの安全な通路を確保することが目的だったのです。建設したヴァザーリの名にちなんでヴァザーリの回廊と呼ばれています。そのあと手狭になった橋は木の張り出し部をつけて幅を拡張され、店が更に川の上にはみ出るような形で作られています。今も見ることが出来ますね。第二次世界大戦の時にはアルノ川にかかるすべての橋を敗走中のナチス・ドイツが無残にも爆破したのですが、ポンテ・ヴェッキオだけは直前にケッセルリンク元帥の命令で直接的な破壊を免れました。しかし橋につながる空中回廊部分は敵の進入を防ぐため全て破壊され永遠に失われたのです。
 歴史に残る家橋といえばやはりロンドン橋ですよ。今は普通の平たい橋ですがこれは十九世紀のものでそれ以前の古い橋は五階建て以上の高さがあり百三十一軒、七百人もの人が住み着いていたという記録もあります。一階は店で二階より上は住居、最上階が寝室で通路の両側の建物が上の方でつながりトンネル状になっていたらしいです。ゴミや汚物は直接川へ落ちるようになっていて衛生状態の良くない中世ではこれは当たり前でした。それにここに店を構えるのは一種のステイタスでもあったのです。橋自体が一つの街、コミューンだったのですね。どうです? 驚かれましたか。こうして見ると橋に住むことがそれほど奇異なことでもないのがわかっていただけたのではないでしょうか。
 ところであなたが探しているその奥さんも橋に住みたがっているのではないですか?
 そう問われてびっくりした。そんなはずはない。しかし絶対そうではないという保証もない。返答に窮していると髭の男と女は顔を見合わせてなにやら肯いている。そして妻を探すのなら橋に新しく入った人が集まる場所へ案内すると言い出した。女は再び懐中電灯のスイッチを入れる。私は髭の男に礼を述べ、握手を交わすと入ってきたときとは違うドアを示されて外へ出た。コーヒーと暖かいストーブの傍らがやや名残惜しくもあったがそんなことを言っている場合でもない。ドアの外は細い廊下になっていてしばらく行くと玄関扉があり、外はどうやらトンネルのような先ほどの通路の天上部分に接続しているようだった。女の照らし出す光の輪が小さく絞られていてあたりの様子はおぼろげにしか見えないのだが左側に廻らされた鉄製の手すりの下に深く暗い穴がありかび臭い匂いが立ち昇っていた。先のほうには明るいところがありネオンサインのようにちかちか点滅している。
 あそこです、
 女は指差しながら呟く。GRANGEというアルファベットが読める。店名のようだった。微かに音楽が聞こえてくる。通路は店の上でカーヴしていて石造りの壁に大きな看板が張り出していた。女が看板の横にあるガラス扉を押し開くとジャズの演奏が聞こえてきて、フルートがアドリブっぽい旋律を奏でているのが耳に入る。目の前に大きな明るい空間が開け、下のフロアでは大勢の人がたむろしていてテーブルで食事をしたり、カウンターで酒を飲んだり、ソファ席で談笑したりと思い思いに寛いでいる。店内を見下ろしている私の足元に小さなステージがあってそこに生バンドが入っていた。何組かのカップルが物憂げに踊っている。どこかに妻の顔がないかと目を凝らしてみたが余りに大勢の人がいてすぐにはとても見つけられない。女も足を止めて誰かを探しているようだった。そして彼女の視線が止まったほうを見るとそちらからも矢のような鋭い視線がこちらへ飛んできたのを感じた。ホールの上から侵入してきょろきょろしている私たちに誰も気づいてすらいないのにその男だけは白い顔をこっちにはっきりと向けているようだった。青い壁紙を巡らしたボックス席の中で、何人かの男女が腰をおろしている、その中の一人だ。女は私の顔を見るとついて来い、というように先に進み、店の奥にある螺旋階段を伝わって混雑した店内に下りる。男はボックス席にふんぞり返って待ち受けていた。丁度照明が当たるところに座っているせいもあるかもしれないがやけに白い顔に見える。額が広く秀でていて賢そうではあるが薄い唇には冷酷そうな表情を浮かべ、目元は暗く影っていながら瞳は緑っぽく輝いていて爬虫類を思わせた。服装は一分の隙もなく上品なねずみ色の三つ揃いで固めている。好感の持てるタイプではない。
 久しぶりだね、そいつは新しい彼氏かな?
 尊大な態度で女に憎まれ口を叩くが、慣れているのか、女はひるむこともなく私が妻を捜して迷い込んできたことを伝えた。そして妻の特徴を説明するように、と指示する。左の眉毛を軽く上げて話を聞いていた男はポケットから鰐皮の巨大なシステム手帳を取り出すと名刺を取り出した。明朝体の特徴のない活字で

 矢印屋

 と書かれている。それを合図に女は、ではわたしは、と身を引き、案内の礼を言う間もなくいそいそと立ち去った。突然、怪しい男と取り残されて不安だったが彼は再びソファに腰をおろすと、暢気に酒など飲みだしてあなたもどうですか、と自分が飲んでいた瓶ビールを目の前に置かれたグラスに注ごうとする。結構です、と断ると、この店は気に入ったかい、GRANGEというのはねえ、オーストラリアの超高級ワインの名前からとったらしいのだがもともとは豪農の屋敷という意味でここの雰囲気にぴったりだろう、ビールが嫌ならワインやウイスキー、カクテルとかなんでもあるよ、とメニューを差し出す。そして、おっと、その前にスマホを貰っておこうかな、と手を差し出した。知っているだろう、ここでは携帯電話は禁止なのさ。なぜかだって? あんた嘆きの壁を知っているだろう。エルサレムにあるユダヤ人の聖地だよ。あそこでは電話詣がまかり通っている。なにせニューヨークのペントハウスに居ようが、パリのホテル・リッツに居ようがエルサレムの親戚か友人に頼んで壁の前に行ってもらい電話一本で直接神聖なお祈りが出来るって言うわけ。みんな壁にこつんと頭をくっつけてお祈りしているだろう、それと同時に手にもった携帯電話もこちこちと壁に当てるわけさ。そのうちメッカとかバチカンでも電話詣でが流行るだろうな。もちろん靖国神社や西本願寺も同じさ。腹が立つのだよ。そんなこと許してはいかんと思うだろう、だから先にここでは禁止したのだ! わかるよな!
 急に興奮しだした男の剣幕に仕方なくポケットからスマホを取り出し差し出した。
 そうだ、それでいいのだ、
 と打って変わって優しい調子の男の声にボックス内のほかの客も身を乗り出してこちらをのぞきこんでくる。彼らの目には明らかに羨望の色があるのに気がついた。店の照明にキラリと輝いたスマホは日頃見慣れているはずなのにまったく異なった優美な機械のように思えて思わず一旦差し出した手を引っ込めそうになったが、男はひったくるようにして奪うと通りかがった黒服のボーイに素早く渡した。ボーイが盆の上にスマホを載せて足早に立ち去ると客たちの間から微かなため息が漏れていた。理由もわからないまま何か取り返しのつかないことをしてしまったような喪失を感じていた。矢印屋と名乗る男は、
 奥さんを探しているなんて中々上手だね、
 などとわけのわからないことを言い出す。
 とぼけても俺の目は誤魔化せないよ。本当は橋の上で暮らしたいのだろう。最初はみんな照れがあって正直に言い出せない。まあいいさ。でももう潮時だ。この道のベテランが言っているのだから大丈夫だよ。本当は逃げ込んできたのだろう。何から逃げているのか言う必要はない。ただそれを認めればいいのさ。人それぞれ事情がある。詮索したがる輩も居る。俺はそれが嫌いだ。ルール違反だよ、そんなのは。黙って認める、それでいい、橋の上で暮らすとはそういうことだ。
 男の食い入るような視線にたじろぎながらも、矢印屋っていうのは何ですか? と辛うじて質問を返した。
 文字通り矢印を商売とする人間のことだよ。
 彼はそう言いながら突然ポケットから三十センチくらいの筒のようなものを取り出した。何をするのかと思いきや、たあっ、という絶叫と共に椅子の上に躍り上がり自分の座っている後ろの壁にその筒を叩きつけるように動かす。すると長さ一メートルはあるかと思う黒々とした矢印がそこに出現した。筒に見えたのはインクを噴出すスプレーのような道具だった。
 これでわかっただろう、こうやって世の中の方向付けをするのが俺の仕事なのだ。経験あるだろう、ああしようかこうしようか悩んで結論が出せない、そんなときみんながどっちに進むべきなのか俺が指し示す。簡単なことだ。自分で決めようとするからわらなくなる、俺が決めれば一発で即OKだ。あんたのことだってそうだよ、いつまでも自分に言い訳していないでさっぱりする、それが一番だ。
 そう言われて、頭がますます混乱していた。誤解されているということは間違いない。しかしそのことをこの男に説明するべきかどうかは別問題だ。酔っているのかもしれないし頭がおかしいのかもしれない。変な矢印など吹きかけられたら厄介だ。機嫌を損ねたらトラブルになりそうでもある。やはり適当にあしらって退散したほうが良さそうだ。どうしたらうまくこの席を離れられるか、と考えていると、
 あんたも随分、勿体つけた人だねえ。きっと大学教授とかそんな仕事をしているのだろう、前も教授だと自称する人が来て最後まで橋の上に住みたいということを認めないで、これはあくまでも調査です、などと抜かしてうろついていたねえ。その結果、どうなったか見たいかなあ?
 男は次第に嬉しそうな表情になって、残忍な微笑を漂わせ始めていた。そして内緒だよ、と言うように私の肩を小さく叩くと席を立ち、ついて来るように合図する。混雑するフロアを人込みを掻き分けながら歩いていくと、バーカウンターの横に店の正面玄関があって白い上っ張りの若者が緊張した面持ちで立っていたが、矢印屋がドアの前に立つと深々とお辞儀をしてさっとドアを開けた。表から冷たい空気が流れ込んでくる。そこは私が侵入した通路の延長なのか狭い通りで両側にはずらりと商店が建てこんでいる。深夜のためかほとんどが営業していない。上の方は闇に沈んでいたがオレンジ色の街燈が並んでいて店の前は明るかった。石畳の道でヨーロッパの古い街のような佇まいだが驚いたことには道路の真ん中は一見して廃車とわかる車に占拠されている。窓が破れたり錆びついたりしてもう決して動くことはないと思われる自動車が数珠繋ぎになっており道路としての役割は果たしていなかった。幾つかの窓には誰かが居るらしい明かりも見えていたが全体に寂れた風情で歩道に通行人の姿はなかった。このまま逃亡してもどちらにいったら良いのかまったく見当がつかなかった。
 もうすぐ、来るよ
 矢印屋は街の果てのぼんやりとした薄闇の方を指し示した。しばらくするとそちらから音もなく何かがやってくる。遠目には白い物体にしか見えない。寒さを我慢して待っているとわさわさと群れて歩道をこちらに向かっている。矢印屋は肯きながら、そう、あれさ、と吐き捨てるように言う。人間にしては異様な外観だった。白い物体としか言いようもない縦長の棒のようなものがもそもそと這うようにして動いている。それも一つや二つではなく数十匹の群れだ。
 人間ですか?
 あれが教授さ、
 と軽蔑の色をにじませて矢印屋は言う。よく見てみると白い物体は子供がおばけごっこをするときのように人間がシーツを被ってよちよち歩きしているかとも思われた。それにしてもぎこちなく惨めな姿だ。
 矢印と反対の事をしたばちが当たったのさ。折角人が親切で言ってやったのに無視するとああいうことになる。ムーミンに出てくるニョロニョロみたいだろう。別に害はしないさ。近くに行ってよく見てご覧。あいつらは時折こんな風にして橋の上を行ったり来たりしているのだ。まったく無意味な生き方だよ。そう、無意味、かつ無害。だがそれは愚かさの結果なのさ。自分が愚かだということにも気がついていない。物乞いなどしないから大丈夫だよ、
 彼のそんな言葉に反して白いお化けたちは次第に近づいて来た。一人でも不気味だが何十人のシーツお化けである。ぞっとして思わず店のドアのほうへ数歩後戻りしてしまった。矢印屋はそんな私を見て笑っていたがじりじりと迫ってくるお化けたちに自分も危険を感じたのか身構えた。その瞬間、一匹のお化けが飛んできて抱きつかれた。どんという衝撃を受け悲鳴をあげながら歩道へ転がる。何が起こったのかわからなかったが、矢印屋の豪快な笑い声が聞こえる。転んだわりには痛みがない、と気がつくと丁度そのお化けが私の下敷きになってクッションの役割を果たしているのだった。慌てて立ち上がると白い布地で包まれたその生き物はそのままぐったりと倒れていた。矢印屋のほうも笑っている場合ではなかった。後ろから同じように抱きつかれ倒れそうになった。余裕たっぷりに懐から先ほどのスプレーを取り出すと試しに宙に二、三回噴射してから、肩越しに背中に張り付いているお化けの顔に吹き付けた。白い布地が真っ黒に染まりお化けはくたっとその場にくずおれてしまった。
 まずいな、
 そう矢印屋が呟くのが聞こえた。見ればお化けたちが次々と彼のほうへ進路を変えている。彼は矢継ぎ早に幾つもの矢印を路上や店の壁に吹き付けて描き出す。もう私のことなど目に入っていない感じだった。逃げ道を探していると目の前に捨てられているワゴン車のスライドドアがわずかに開いているのが目に入った。これは、と押してみると開いたのでその隙間から滑り込むように車内に入る。中はゴミだらけで居心地が良いとはいえないが白い生き物たちはそのワゴンの前を素通りしてついに矢印屋に殺到した。ブシューッ、というスプレーの音が聞こえていたがお化けたちの数は半端ではなくすぐに彼の姿は見えなくなってしまう。そしてもぞもぞ動く白い群れは次第にこんもりと盛り上がりその中に矢印屋は飲み込まれてしまった。
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登場人物紹介

会社員の私。都内に勤務。苗字にも名前にも「あ」はつかない。帰宅しない妻を探しに都内に戻ろうとして多摩川にかかる橋に侵入する。

妻。名前に「あ」がつく。都内に勤務しているが帰宅しない。

矢印屋。橋で商売をしているようだが正体不明。

詩人。依頼すると当人にあった詩を背中に書き入れてくれる。

女。蕎麦を食べに行こうと誘ってくる。橋は株式会社ドットの所有物だと説明する。

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