恐れて愛すべきもの

文字数 12,240文字

 細い腕に収まったコンパスは、主人を失って動かない。それでも、新たな持ち主として受け継いだカミは、コンパスが視界に入る度に、セインのことを思い出さない日はなかった。
 しばらくは穏やかな日々が続いた。緊急の会議も開くべき議題もなく、罪人も死人の魂も珍しく暴動を起こすことがなかった。神々の一番の悩みの種であったあのアヴァタール殺しの岩石頭も、今ではすっかり鳴りを潜めている。しかし、これは嵐の前の静けさであると、カミだけが知っていた。
 セインがあいつに屠られてしまったあの日から、カミは太陽世界の窓から滅多に動くことがなくなった。そうして日々を食い潰してしまうと、岩石頭が告げた一九九九年、七の月まであと一週間に迫ってしまった。彼はきっと用意を周到に済ませたのちに、私の太陽世界を屠りに来るだろう。
 覚悟はできていた、はずだった。しかし――、窓の外を見ると、今日も人間たちが生まれ、活動の中に生き、死んでいる。小さな命たちが青い星のもとに咲き、刹那の年月を誇って散ってゆく。あと数日のうちに、カミの道連れになることも知らないで。
 ふと、カミはあの裁判の日に気に入って見ていた子供の寝室へと寄り道をした。その国ではあの日と同じ夜更け、だが子供は怯えるように目を見開いていた。傍らでは母親が、優しく宥めるように寝かしつけている。カミは小さな違和感を感じ始めていた。隣の部屋へ行くと、老夫婦が晩酌のあてにテレビを囲んでいる。その画面に映っていたのは、ある一冊の本を取り上げたトークショーの特別番組だった。色とりどりのテロップを凝視して、カミは信じられないという面持ちになった。

 ――ノストラダムスの大予言 来る恐怖の大王、一九九九年、空前のベストセラー!恐怖の大王、人類滅亡に備えて――

 ノストラダムス。確かに人類歴四〇〇年ほど前に、そのような名の預言者がいたような気もする。しかし、そもそも人間の予言というものはあまりあてにならない。だから文明や文化、占星術といったものが興隆し、それらが何かを予言するたびに、カミは娯楽としてそれを聞き流していた。その中でも最もたちの悪い部類の予言が当たるとは――、あいつの存在がすでに予言されていたとは、カミにも盲点だった。
 予言は当たり、人類だけでなく世界が滅びる。人類が「恐怖の大王」と呼ぶ岩石頭に、なす術もなく消滅してしまうのだ。刻一刻と迫る終末の日を前に、人間たちは恐れ、祈り、無力な備えをしようとする。人間たちよ、それでも抗おうとするのか。世界が終わるということは、おまえたちがどれだけ足掻こうと、その死には、消滅には何も遺すことができないということなのだ。
 カミは急に、頭部に、胸部に、腹部に、躰中に開いた穴が広がっていくのを感じた。しかし、どこを押さえれば良いのかわからない。この穴を開け始めたのは、紛れもなくセインの死であった。
 セインは父を庇って命を落とした。最期に私と同じく、人間が、命が愛おしくなったと言った。――私と同じ?私と同じく人間を、命を愛していると言うのなら、君はアヴァタールとして自分の世界にいる人間たちを、あの二人の宇宙飛行士を優先するべきではなかったか?当然、セインが命を落として光の粉になった瞬間に、セインの宇宙の星たちは爆発し、宇宙船は消え去った。セインの小さき宇宙は、神々(アヴァタール)が持つ世界のエネルギーの均衡を、僅かに整えたのみであった。それよりは、あのときにアストライオスか――、いや、私が屠られておけばエネルギーの問題も解決する。その方がより良いはずなのだ。それなのに、なぜ――。あの時に君を突き動かした衝動は、恐ろしいものを孕んでいるに違いない。
 カミはまた、コンパスに触れた。針が揺れて回って、やがてゆっくり静止する。針の一端、色が付いている方角には、本棚の整列があった。何かに呼ばれたような気がして、カミは重い腰を上げた。これも一つの衝動だった。あの瞬間にセインが抱いたものとは違う、ゆっくりと誘いくる衝動だ。けれども、セインのものと似ていることに、カミは気がついていなかった。
 その衝動に駆られて、一冊の本を手に取る。他の本と同じように、カミの手垢がつくほど読み尽くされた本だ。頁をぱらぱらと捲ると、二枚の紙がゆっくりと散るようにカミの足元に落ちてきた。屈んで拾い上げると、カミは目を伏せた。一枚はセインの世界にいた、若い宇宙飛行士の遺書。そしてもう一枚は、セインが最期にカミに掴ませた日記の切れ端。どちらも、カミの目に触れることなく敢えて忘れられていた手紙だった。
 カミは上手く息を吸うことができなくなっていた。躰中の穴から、正体不明の何かがせぐり上げて溢れてくる。それでも、コンパスの針はゆらゆらと揺れ始めていた。カミの中の衝動は、読んでください、と優しく諭す。コンパスを身につけている方の左腕、その指先が、折り畳まれた薄く重い紙を開いた。
 一枚目を捲ってすぐ、セインの拙い文字が目に飛び込んできた。文字の輪郭をなぞるように、カミの眼はゆっくり動いた。


 眠れない夜は、本や手紙を読むといい。
 いつしか、カミが教えてくれたことです。僕は毎晩、寝る前には本を読んでいます。でも、手紙は読んだことがなかった。送り合う相手が中々見つからなかったから。
 でも、僕は今日、初めて手紙というものを受け取りました。それはカミがくれたものだけど、カミが書いたものではなかった。僕の世界にやってきた、宇宙飛行士の若い方の人の手紙だといいます。
 僕は、手紙を読むのがこわかった。宇宙船は僕の宇宙を彷徨っているけれど、その行く宛は、僕らには未知である「死」というものに向かっています。それがわかっていながら、なぜ手紙を遺すことができたのだろう。そう思いました。二人の人間の死を簡単に認めたくなかった、とも言えるかもしれません。

 でも、手紙には確かに重みがありました。実際の質量の問題ではありません。遺書というものは死にゆく者の手紙であるから、僕には重くて開くことができなかった。それもあります。
 でも、死の手紙の重みには、その人の生も、命の重みも含まれている。長い夜の中で、僕はそういう考えに至りました。
 そうしてやっと、飛行士の遺書を読みました。飛行士の生を、その重みを、僕は知りたくなったのです。それで、わかったことがあります。
 彼は、生きていた証を遺したかった。しかも、その相手は誰でもよかった。そうして自分の命と、死に意味を与えた。手紙を読んで、飛行士たちの鼓動を聴いて、僕はそう思いました。

 神さまたちや僕たちは、簡単には命を落としません。でもあの岩石頭が現れると、アヴァタールたちは簡単に屠られていった。そうやって、僕らはただ知っているだけだった、「死」というものへの恐怖を覚えた。
 でも、僕らアヴァタールは、命を落としても他の世界のエネルギーになるだけです。そうやって世界の仕組みに淘汰されるだけ。
 だったら、僕は飛行士のように、自分の命に、死に意味を遺したくなった。


 たった一、二枚の紙切れを持つ手が震える。
 死に意味を遺すとは何だ?おまえは父から愛されていた。弔いに来る優しい神もいる。そして、私も愛していた。だから皆、こうやっておまえのために涙を流すのだ。
 セイン、君が自分の死を以て、遺した意味とは何だ?心の中でそう問いかける。どこからか、セインの心が聴こえたような気がして、カミは辺りを見回した。
 ――父やカミ、愛する者たちに生きていてほしい。
 ああ、私と君とは、そこが同じなのか。コンパスの針の揺れが静かに止まった。私も、愛する者たちに生きていてほしいに決まっている。たとえ、その者がいつか死を迎えることがあっても、そのときがくるまでは命を燃やしていてほしいのだ。けれども、セインにはそれが叶わなかった。しかし、それだけではない。セインはその死を以て、カミが自身の命を捨てる覚悟を粉々に打ち砕いていた。やはり、もう少しだけ生きていたい。セインが最期に愛してくれた人間が、私の世界には何億の命として生きている。それを守ってくれたのも、やはりセインだったのだ。
 カミは躰中に蔓延る蟠りが、確信に変わるのを実感した。愛しき人間たちよ。おまえたちの命は、簡単には消させない。私はおまえたちが受けた生も、平穏な日々も、迎えるであろう死も、総て守ってみせる。
 カミは二通の手紙を懐に仕舞うと、今いる場所の反対側、大陽世界の窓の方へと足を進めていった。

 道中で、カミはあの馴染みの女神と鉢合わせた。その手には数種類の花が握られていた。カミと並んで歩きながら、女神は無言のままのカミに何を言えば良いのか迷っていた。だが、先に口を開いたのはカミの方だった。
『いい香りのする花たちだな』
「こちら、セインにと思ったのですが。どんな花が良いか迷ってしまって」
 カミは迷わず、一輪だけあった赤いバラを選んで手に取った。
「バラ、ですか。弔問には華やかすぎる気もしますが」
『彼は明るい色の花が好きだった。特に、赤いバラには首ったけだったよ』
 セインの空色の瞳と白い身なりを思い出しながら、なるほど、意外にもバラのような美しい赤が映える方だと女神は納得した。だが、それは単なる想像に過ぎなかった。思えば、女神はセインのことをあまり知らなかった。女神も好きな花が多かったから、花のことで話せることもあっただろう。これまで、他多数の神々と同じく、神でも無力な人間でもない、怪異のような存在にも関わらずカミの厚意で天上に置かれている少年だという、ただそれだけの認識であった。けれども、彼と話してみたいと思ったのは、父親を守ったという高潔な最期を迎えてからのことだった。セインがいなくなった今になって、その最期の高潔さだけを見て交流したがるのは、あまりにも浅はかで狡いことだと女神は自省した。
 カミは、彼の高潔さをわかって気に入っていたのだろうか。きっとそうだが、それだけではない。カミはセインが赤いバラが好きだということを当たり前のように知っている。私たち以上にセインのことをよくわかっているが、まだまだ知らないこともあっただろう。それでも、カミはセインを、そして私たちのことも、人間のことも受け入れて愛してくれている。だからこそ、あの岩石頭が、カミの世界を消滅させようとしているのを黙ってみているだけではいられないはずだ。
 両者無言のまま、大陽世界の窓にたどり着いた。岩石頭にこの世界が狙われたあの日から、主人であるアストライオスは行方知れずになっていた。だが、窓の外の地球はいつも通りの速度で中心にある恒星――大陽の周りを回っている。カミは胸を撫で下ろした。
 それも束の間、目の前の地球の雲が、大陽に当たる面から晴れていくと、地球上の様子がはっきりと写し出された。それを見て、カミは息を呑んだ。普段はどこかに潜んであるはずの怪異たちが、まるで存在を知らしめるかのように蠢いているのがはっきりとわかった。雨を降らせる龍は自らの身を傷つけながら暴れ回り、地が盛り上がるとどす黒い蛇のような、魚のような生き物が飛び出して溢れる。人間たちは逃げ惑うも、川から溢れた雨水、揺れ動く地盤に足を取られて転げ回っていた。
 大陽を背にして、黒い小さな影が赤と青の光を揺らしながら浮かんでいる。やはり大陽世界にもノストラ某の予言はあったようだ。彼奴(あいつ)が怪異を操り、暴走させているのか。今度はカミの不安が的中した。
 一方で、女神は傍目から大陽世界第三惑星で起きている惨劇を観察していた。女神にとってはまさしく遠い世界の出来事だが、怪異に命を奪われていく人間たちの姿には目を背けたくなる。カミも同じようで、両者の横目が合うとカミは女神に問いかけた。
『して、女神よ。真に最後かもしれないから、聞いておきたいことがある。おまえは世界の寿命を知っているか?』
 寿命。生ある者がいつかは迎える、命の期限のことだとは聞いたことがある。
彼奴(あいつ)――、失礼、あの屠殺者が現れてから、アヴァタールたちは命を落とすようになりました。そのときが寿命ということではないのですか?」
『いや、それはいわゆる突発的なものだ。まだ推測に過ぎないが、私たちアヴァタール、いや、すべての神々もいつか寿命を迎え、そのもとに死が訪れるのではないかと私は考えている』
 女神の背筋に衝撃が走った。私たち神々は、ある時点まで老い、それからは老いることも死ぬこともない。けれども、アヴァタールとなった神だけは突然に出現した彼奴(あいつ)に襲われて命を落としてしまうことがある。それが流布している認識だ。だが、カミが言うにはアヴァタールだけでなくすべての神々がいずれ死を迎えるということだ。これが事実なら、天上の神々が抱く概念が一斉に揺らぐほどの実相だろう。
『神々が世界を創造し、生を共にする契約をした時点で、その命はいつか終わりを迎えることが最近になってわかってきたのだよ。一例のはなしをしよう。あるとき、世界のひとつが自然消滅した。心臓(コア)が爆発し、エネルギーを散らせた』
 私があの岩石頭を生み出す前のことだ、とカミは付け加えて、言葉を続けた。
『一方で、私の世界の人間は住む世界の終わりを算出した。自らが発見した法則と生み出した技術――()()というものでな』
 科学は無力な人間が生み出すことのできた、世界に対応する為の武器だ。魔術や予言といった、超自然的なものをも凌駕するほどの新しさと正しさを持つ武器。熱く語るカミだったが、女神にはあまり理解が及ばなかったようだった。
「そんな……存在の終わりを自ら証明するなんて、悲観的なのですね」
『彼らは死という概念とずっと隣り合わせてきた。そういう意味では、我々にはなかった覚悟があるのだ。物好きな連中だよ。それに、人間たちのその研究が私の憶測を裏付けることになった。私の世界の心臓(コア)は太陽という恒星。太陽は膨張し、世界の全てを飲み込み、あと五十億年ほどもすれば白く消滅する。そのときが、真に私が寿命を迎えるときだと思うのだ。あと五十億年だ。私の世界は半分は生き続けてきた。私は、寿命を待とうと思う。今まで通りに世界が自然の流されるままに任せて、そうして――共に消滅する』
 五十億年。途轍もない月日に聞こえるが、天上世界の永い歴史に比べると短い方だった。そして今でも、五十億年の期限まで一刻、一秒と迫っている。寿命とはそういうことなのだ。カミの寿命が来るまでに、当然私は生き続けることなどできないだろう。そう思うと、女神は急に怖くなった。これが死への恐怖というものなのか。
『彼をなんとかしなければ。彼に会ってくる。正義の女神よ、彼の判決を』
「貴方が決めてください。貴方が生み出した彼が、罪もないアヴァタールたちの命を奪った。そうして今、人間たちが傷つけられているのですよ」
 カミは深く頷いた。その顔はやはり微笑みを湛えている。ほんの一瞬だけ、目の前のあなたに()()顔に、ほんとうにあなたの面影が移ったような気がした。女神はやっと解放されたように、カミの凝視から視線を外した。
 そのとき。窓の外の宇宙、星々が無数に散りばめられた空間に、一筋の白い光が貫いた。光は凍った星屑を、不規則に整列する惑星を蹴散らした。そして世界の心臓へ、大陽へ突き刺す一矢であるかのように向かっていった。
『セイン――?』
 いや、遺憾ながらセインであるはずはない。よく見ると、白い光は僅かに橙色を帯びていた。暖かい色の流星は、よく見ると大陽ではなく地球に到達していった。そうして、雲を突き抜けてそのまま見えなくなった。この一瞬間に、カミは景色に釘付けになってしまっていた。
 これは天文学的確率が起こした奇跡であろうか?――いや、残念だがこの予想も外れるだろう。それでも、カミはコンパスを握りしめ、今一度瞳を閉じた。大陽世界は私のものではない。だから、私の力ではどうすることもできない。カミはそうやって大陽世界のことも憂いて、このアヴァタール不在の世界の窓に寄り道した。だが、あの一筋は世界を成り立たせる多くの奇跡の果てであると、カミは直感的にわかっていた。奇跡に縋ってみても良いだろうか。瞼の裏では、セインが微笑みかけていた。
『セイン。ありがとう』
 私は、生きなければ。


 ここは大陽世界。その宇宙空間に岩石頭、もとい若年の宇宙飛行士が宇宙服も身につけないまま佇んでいる。暗雲に覆われた青い星を目前に、手操るように両手の指先を軽く動かしていた。
「やっと許可が降りた」
 何かを感じ取って、眉がぴくりと動く。両目で異なる色の瞳に、光が宿っていった。飛行士は地球を、大陽世界の宇宙をあとにして、呼ばれた方に吸い込まれるように消え去っていった。

 場所は移り、カミの図書館の窓側の壁、ある真円の窓際にカミは立っていた。窓の外に見えるのは、ちょうど円の中心に据えられた赤い光。それを発している無機質な素材の宇宙船は、凍りついた真空を詰めたような宇宙空間を静かに漂っている。
 カミは無意識にも、赤い光に手を伸ばしてしまう。窓ガラスに指先が触れると、景色は一面の黒に暗転して銀色の文字の羅列、「Ua-9-196212」のワールドコードを並べ立てた。カミがまたコードをなぞるようにして触れると、今度は宇宙船の内部を写した景色に切り替わる。宇宙船内では、二人の飛行士たちが望遠鏡を覗きながら楽しげに会話をしていた。カミは窓に触れてしまわないように気を配りながら、壁にもたれて二人の様子をしばらく眺めていた。
 この窓の景色は、遠い世界の出来事だった。かつては、二人はまだ遠いどこかに存在していた。しかし、二人はもういない。その事実が、未だにカミの躰中に開いている見えない穴をさらに穿って行った。目の前の窓に見えるのは、カミがつくったジオラマにすぎない。つくりものに成り果てた二人の飛行士は、見知らぬ世界で経験したことをただ物語のように繰り返すだけ。そこに生はなく、それがカミにはたまらなかった。落ち着かせるように、コンパスを握りしめてただ赤い光の一点を見つめ続けた。
 ふと、図書館の一部が陽炎のように揺らいだのを横目に感じた。その方に視線をやると、窓の外にいるはずの飛行士の一人、年若い男が現れた。しかし、カミは真っ直ぐな視線を、窓の方から外すことはなかった。飛行士本人ではないことをカミは十二分にわかっていたのだ。飛行士は赤と青の瞳を揺らめかせて、カミを見下すように嗤った。
「お呼びでしょうか、最高神サマ。殺られる覚悟はできたのか?」
 煽られ罵られても、カミは窓の前から顔一つ動かさない。飛行士が観念して、カミに大股で近づいていった。あと一歩踏み出そうとしたその瞬間、カミは相手に向かって懐から鋭いものを取り出した。それは小さな宝石で装飾されたペパーナイフだった。
「なにをするんだ。やめろ」
 飛行士は本能的に避けると、取ってつけたようなホルスターの銃をカミに向け、引き金を引く。ペパーナイフは空を切り、それでもなお対象に斬りかかろうとする。だが、怯えるようにかがみ込んだ飛行士の歪んだ顔に、ひとまず鋒を納めるしかなかった。飛行士は安堵したように引き攣った嘲笑を取り戻していった。カミは後ろ手を組むと、努めて優しい声色で話しかけた。
『おまえが神々を屠るのは、命令だと言ったな。誰の命令だ?』
「とぼけるなよ。どうせお前だろ」
『私はそのような命令など、一言も発していない。いかなる理由があろうと、私が神を屠るはずがない』
 私の信条の一つだ。カミは断言した。飛行士は鼻で笑いながら、大声で喚いた。
「お前の声じゃないのかよ!」
『おまえが誰かの声を聞き、それに従ってアヴァタールたちを屠ったと言うのなら、それは幻惑だ。おまえは惑わされて、衝動的にアヴァタールたちを幾千と屠っているということになる』
 鼻にかけるような態度の飛行士だったが、段々と焦りと不信の色が顔に浮かんでくる。脳内には聞き慣れた声、低い唸りのような声が響いていた。――殺せ。斃せ。殺っちまえ。命を奪え。蹂躙せよ。世界を創造した神を。そのためにおまえは生まれたのだ――。力を振り絞る事あるごとに何度も反芻した声だ。それが幻だと?おれはそれに惑わされているだけだと?ああそうか、最高神サマは総て正しいもんな。おれは正しいおまえに命じられたと思って、今まで殺ってきたのに。そうだ、だって――、
「お前がおれをつくったくせに!」
『ああ。だから、アヴァタールを屠るという使命感があまりにも強かったのだろう。おまえはその使命に支配されてしまったのだ』
 飛行士の手から銃が滑り落ちた。暴発した弾がカミの方に真っ直ぐ飛び出したが、カミは受け止めるでも避けるでもなく、弾を片方の手で強く握った。熱と炎を帯びた銀色は掌を燃やし出したが、カミは表情ひとつ動かさない。そのまま酸素を失って黒い鉄屑に変わり果てると、燃え続ける手からはらはらと零れていった。指先から、掌からゆっくりと燃え広がり続ける炎に包まれても、カミは微動だにしなかった。眼と口とが大きく開いたまま塞がらない様子の飛行機は、熱を持ったままの銃を拾い上げると、またしても銃を突きつけた。その手の震えを隠すように、勇んで声を発した。
「なぁ、おれは失敗だったってことだな?おれを消して、どうせまた新しい仕組(やつ)みでもつくるんだろう?でもな、新しい体制でも、待ってるのはきっと破滅だろうよ」
 地団駄を踏む子供のように、銃を振りかざす。炎が肩から首筋まで到達すると、やっとカミは飛行士へと歩んでいった。弾丸だった鉄屑と見分けがつかないほどに焦げ落ちていく片手を眺めながら、もう片方を鋭利なペパーナイフに変化させる。武器を持っているはずの飛行士の方が、不安定な足で後退っていった。
「どうせお前も、死ぬのが恐いんだろう?俺を見た神どもみたいにさ、恐怖で顔を歪ませて見せろよ」
 カミは薄く閉じていた瞳をかっと見開くと、赤と青に爛々と揺れる彼の宝石を覗き込んだ。
 ――恐怖の大王よ、おまえにわたしはどう映る?
 しかしそこには、未だに不安定な影しか見ることができなかった。
 彼の目前には、初めは何も存在してなどいなかったのだ。
 ただ、他の者から見れば、彼が銃口を向けた先にはいつもカミが在った。神を屠るという唯一の、彼の存在意義ともいえる使命に対する執着が、視えない標的に照準を合わせていたのだった。だが今、最上の標的は彼の目前に現れていた。それなのに彼の手は狂い、震えていた。照準を上手く合わせることができない。――ちくしょう、なんで今になって、見えるようになった?
 両者の距離は、触れられるくらいに迫っていた。飛行士はついに金を引くこともなく、両目をぎゅっと閉じた。カミはまだ燃えている。炎は首から上を残して、反対側の肩に移っていった。飛行士は熱を受け、額には冷や汗が滲んだ。頭上に何かが振り翳される気配がした。だが、いつまで経っても痛みも何も感じない。
 意を決して目を開いた。飛行士の頭に翳されていたのは、カミの燃えた方の手だった。灰になってもまだ熱く、黒い塊や砂が雪のように額に降り注いでくる。今度はカミの方が目を柔らかく閉じていた。その隙をついて、飛行士は回り込んで背中を取ると、銃口を向けてペパーナイフを持つ腕の方に照準を合わせた。だが、カミがこちらを振り向いてしまった。その顔は穏やかに微笑んでいた。
『そうか……。やはりおまえも、恐いのだな』
「はぁ?なぜそうなる」
 突拍子もないカミの言葉に、またしても引き金にかけた指が狂う。カミも諦めずに、また飛行士の方に歩み寄っていく。今度は逃げないように、部屋の角の隅へと足を進めた。
『あぁ、わたしも恐いさ。おまえのことがな。我々の誰もがおまえを恐れている。おまえは我々を屠ることのできる圧倒的な力で、愛すべきものに溢れる世界たちの消滅を引き起こすのだからな』
 カミの口から言葉が溢れて止まらない。飛行士はついに壁に背中をぶつけた。
『おまえは千を超える世界を、神を屠ってきた。そうして、世界の主である神々と、世界に存在していたものたちに恐怖を知らしめたのだ。死と滅びは、恐怖を生む。おまえは千を超える死と滅びの当事者として、その最果てを目の当たりにしてきたのだろう?その恐怖は、我々が屠られるときに感じる恐れとは、比べ物になどならないだろうな』
「やめろ」
 彼の顔が歪む。それは恐怖の苦痛であろうか。なおもカミの諭すような声が、飛行士の耳から伝わって脳内に響いてくる。
『わたしが最も愛するものたち――青い星の人間たちが、おまえのことを「恐怖の大王」と呼ぶ所以が、やっとわかった。おまえは神々が、世界が感じる最上の恐怖を背負う者なのだ』
「やめろって、言ってるだろ」
 そうだ、こわくない。おれは神も、こいつでさえも斃せるんだ。飛行士は金を引いた。だがその瞬間、頭の中にはあらゆる場面が過った。
 派手な化粧を落として看護服に着替える女が、生命データが書かれたカルテを整理している。別の場面では、銀の箱の前に多くの死体が転がり、それをブルドーザーを乗り回して片付ける男。また場面が移り、久々の地球への帰還に望郷心が抑えられず、何度も望遠鏡を覗く初老の宇宙飛行士――。それぞれ、今までに殺してきた世界で生きていた人びとだ。ワールドコードを得た瞬間に、世界の記憶が否応なく流れ、消すことのできないものとしてずっと苛んできた。それだけではない。おれがアヴァタールどもの前に姿を現すと、決まってする表情がある。そう、恐怖の顔、顔、顔。当然、誰にも歓迎されたことがない。アヴァタールの笑顔など見たこともない。けれども――。セインというやつ。あいつだけが、消える間際に満足そうに笑っていた。でもそれは、おれに向けたものではない。カミだけを見たまま、カミの腕の中で果てていった。
 わからない。あいつの世界にいた人間の姿になってみても、なぜ笑ったのかわからない。どうしてあいつだけが、おれを前にして恐怖しなかった――?
 カミは黙って待っていた。半身はゆるやかな速度で燃えて黒灰を残していく。飛行士は苦悶に顔を歪めながら、言葉を反芻するように呟いた。
「おまえがおれを生み出した」
『そうだ』
「それなのに、下劣な神々(やつら)のことだけ気にかけて。そいつらのくだらない世界ばかり気に入って。挙句、神でもないやつに贔屓して、無駄に世界を与えた。おれがそいつらを殺して初めて、おまえはおれを見た。それでもやっぱり、おまえは死んだやつの方に未練がましくとらわれる!」
 今度は銃口を、カミの背の向こう側、窓の方に向ける。セインの世界のレプリカが映る窓だった。カミは制するように腕を上げた。しかし、飛行士の指は引き金を引くこともなかった。
「おかしいよ、おまえ。世界もアヴァタールたちも消えてほしくない、自らもやっぱり死をおそれる。じゃあなんで、おれを生み出した?」
 胸の奥に抱いたまま、ずっと隠して仕舞っていた疑問だった。おれは神を殺すために生まれた。それなのに、最上の標的の姿は見えない。忌まわしい声はずっと責め立ててくる。他のアヴァタールたちを斃せば、いつしか胸奥の蟠りも消え去っていた。疑問に思い、焦燥し、命を奪ってやる、その繰り返し。だが今になってやっと、標的は目の前にありありと出現してきた。ずっと待ち侘びていたのに、どうして――、
 なんて悲痛な疑問だ。しかし、もっとも人間らしい疑問に支配されてしまった飛行士の声に応えるべく、カミは少し離れたところからやっと口を開いた。
『他の神々と同じように、私には死というものがわからなかった。だが、他の者と違うのは、私は人間の存在を通して死への恐怖を知ったということだ。私は人間をもっと知るために、アストライオスの世界を模倣した。そうして生み出した世界がいつしか大きくなり、他の世界を圧迫した。私ひとつの命で多くのアヴァタールたちを救えるのなら、私は差し出す。そう思っていた。だからおまえを生み出した』
 私を屠らせるために、強い力を与えて。だがその力は、カミではなく他のアヴァタールたちを狙っていった。カミにはそれだけがずっと疑問だった。そうして今、やっとわかった。だからこそ。
 恐怖しか知り得ることのできなかったこの者に、教え与えるべきものがあったのだ。
 カミは黒灰の塊になった指先で、コンパスに触れた。その瞬間、腹部まで及んだ炎はたちまち消え去った。熱さが全身に、見えない穴に沁み渡るが、カミはそれさえも受け入れるように飛行士を真っ直ぐ見つめた。
『しかし、私は生かされてしまった。この天上世界で最も愛すべきものにな』
「意味がわからないって、言ってるだろ」
『じきにわかるだろう。それが嫌なら――はじめから、私ひとりを狙っていればよかったものを』
「見えなかったんだよ!だからどうして今になって――」
『私が生み出したおまえだ。おまえの中に愛すべきものが芽生えるのは時間の問題だった。されど、それで苦しむとは。辛い思いをさせたな』
 飛行士はもう拒まなかった。諦念の表情の中、瞳だけはカミの顔をぎこちなく見つめ返している。その色は血のように冷え切った赤と、ガラスのように鋭い青の宝石。その奥に、カミは灼かなひかりをやっと見出したような気がした。
『――おまえは幾千もの恐怖に当てられて、芽生え始めた愛おしさという感覚がわからないようだ。無理もない。ゆっくり休みなさい。おまえに愛すべき感情が再び生まれるまで、しばしの別れだ』
 尖ったペパーナイフの指先で繊細に胸の辺りを突く。鋭い痛みが飛行士の全身に走ったが、叫び声を上げることもなかった。飛行士の顔と隊服は仮面のように剥がれ落ち、岩石頭が現れる。しかし間もないうちに、両目の宝石から赤と青の二色に染まった光の粒が零れ落ちていくと、カミの腕を包んだ。カミは焼けこげた方の腕で懐から瓶を取り出すと、空中に散った粒をかき集めて蓋をする。
 冷たいガラス瓶を頬に寄せると、いたいけな心音がゆっくりと鳴り始める。側の窓の外では、玩具のような宇宙船が赤い光を静かに点滅させていた。
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