後記一 そして星になる

文字数 2,615文字

 空中に軽く浮かぶ大小様々な塊が、纏った霧のようなものを蠢かせている。浅黒い肌、山羊のような角、尖った尻尾の先を持ったいわゆる悪魔たちが、それを檻に詰めて白い羽の天使たちに受け渡す。天使は「未審判」の判を押すと、顔色一つ変えずに馬車に積んでいった。
 ここは冥界。彷徨う魂が最初に行き着く場所だ。あてもなく浮かぶ魂を冥界の悪魔たちが捕らえて、天上世界に審判を委託する。それを指示するのは、冥界の神であるハデスだ。ハデスは色をつけた長い爪を振り翳しながら、飛び出しそうなほど大きい眼と尖った鼻を細部まで効かせている。仕事に手を抜くような悪魔などいれば、読んで文字の如く雷を落とすのだった。
 一瞬、全ての悪魔と天使たちの手が一斉に止まった。ハデスは待ちわびた怒号を降らせようとしたが、喉の奥で止めた。
 皆の視線の先には、カミがいた。ハデスの目前にも、正義の女神の姿で歩み寄ってくる。女神本人のよりもさらに冷たい色を湛えた瞳に見つめられて、ハデスは飛び上がる心地がした。
「よぉ、カミ様。珍しいこともあるもんだ、お前直々に来るとは。アストライアちゃんは元気か?」
『ああ、スピカなら最近、髪を切った』
「まじかよぉ。なぁ、お前も髪を短くしてくれよ。俺もアストライアちゃんの短いのが見てぇよ」
『おまえはアンタレス然り、長い方が好みだと思っていたが。――いや、どうでもいいだろう。約束の品を』
 ハデスは顔面から溢れそうな満面の笑みで手を揉んだ。こんな上司の顔を見るのは初めてだと、その場にいた悪魔たちの誰もが――天使でさえも思った。彼らをハデスが一瞬だけ睨みつけると、そそくさと仕事に戻っていく。そのまま、二柱の偉大な神は奥の方へと進んでいった。

 鎖と錠が複数かけられた扉の前にハデスが指を出すと、厳重な絡繰は次々に紐解かれていった。「出荷時期未定」と書かれた表札をカミはちらと見ると、ハデスの背についていく。
 ひんやりとした空気が二者の間を包んだ。両者を挟む棚には、小さな瓶がいくつも陳列されている。カミは瓶の札を一部分だけ確認した。そこに書かれていたのは、アヴァタールたちのワールドコードだった。コードに続けて、さらに長く書かれているものもあった。
「ここに仕舞うのは、アヴァタールたちのばっかだよ。アヴァタールと、そいつらの世界で生まれた生物の魂だ」
 ふと、何かに呼ばれたような気がした。ハデスの説明を横に、カミはある棚の前で止まった。棚には瓶が三つ、そのうち縦に細長い二つを手に取る。どちらも似たような色と形をしていたが、「Ua-9-196212-1」の方が「Ua-9-196212-2」よりも僅かに鼓動が速い。カミはゆっくりと棚に置き直した。では、もう一つの丸い瓶は――。恐る恐る、カミは手を伸ばした。
「あぁ、それだよ。探すの大変だったんだからな。あいつは神でも人間でもなかったからだろうな。旅してるみたいに彷徨ってたよ」
 ハデスの言葉は、もはや耳に入らなかった。カミは瓶を震える両手で包むと、その表面のガラスを優しく撫でた。瓶の中の魂は、雨上がりの夏の空のような爽やかな色を見せて煌めいている。これが誰のものであったかなど、札を見なくても明らかだった。カミがその名前を小さく呟く。魂を包む霧の一粒が赤く点滅し始めた。
 突然、瓶がカミの手中から消えた。ハデスが取り上げていたのだった。乱雑に振るたび、カミは声を上げた。
「たとえカミ様であろうと、ただではあげませんよ。お前、珍しい魂をもっているな。お前の手で作り上げたやつ。カミの折り紙つきだ、高く売れるぞ」
『いや。だれがおまえになど』
 次の瞬間には、今度はハデスの手から瓶がなくなった。カミは懐から、赤と青の色を持った魂の瓶を取り出すと、もう片方に持っている空色の魂とを見比べて目を細めた。女神の嬉しそうな顔を見たハデスは、新しい交換条件を考えなければならなくなった。
「うんうん、さすがに駄目かあ。うーん……うん?」
 何かがカミとハデスの間を通り過ぎ、またしても瓶が消えた。しかし、今度は二つの瓶だけではなかった。二者がいた室中の全ての瓶が消え去っていた。カミは空になった両手を茫然としたまま開けたり閉じたりしている。
「あいつ、やべぇな。さすが星神(トリックスター)サマだ」
 ハデスが目線を向けている方を見ると、そこには長らく行方知れずだったアストライオスがいた。
 彼は隠しきれない笑みを浮かべて、カミを見つめている。周りには千を超える瓶が浮かび、その一つ一つの蓋は開けられ、割られているのもあった。中に入っていた魂は、冥界の空を超えて飛び去っていった。
『アストライオス!』
 カミの怒号が、空を貫いた。ハデスの雷鳴の比にならないくらいの怒りであった。ハデスは耳を塞ぎ、仕事に勤しんでいた悪魔も天使たちもその場から消え入るように逃げ仰せていく。カミは地を蹴ると、空の方へ飛び出していった。
 アストライオスの胸に抱えられている二つの瓶を、カミは見ていた。それにめがけて鋭いペパーナイフを突き立てる。だが、その身を軽く浮かせるアストライオスは、空中で舞うように体勢を変えると、カミの燃え焦げている方の半身を蹴り上げた。僅かに崩れたカミの体勢、しかし尚も向かっていく。それを突いて、今度はアストライオスがカミの胸元に手を伸ばした。服ごと引きちぎって、現れたのは一本の鍵だった。大陽世界に通じる鍵を、アストライオスは一瞬躊躇いながらも口に入れた。やめろ、とカミが言うまでもなく、喉の奥へと飲み込まれてしまった。
 アストライオスは空色の瓶をじっと見つめると、コートのポケットに仕舞った。そしてなおも容赦なく、もう片方の瓶を見ていることしかできないカミに見せつけると、どこからか拾い上げた冥界の石を叩きつけた。しかし何度叩いても、瓶には傷一つつかない。今度はカミが笑う方だった。
『そいつの魂には、呪いをかけておいた。私にしか解けないものだ』
 アストライオスは近づいてくるカミを睨みつけると、空中に円を描いた。冥界の空に、不自然な色の穴が開く。そこへ、瓶を遠くへ放るように投げ入れてしまった。カミは果敢に門を潜ろうとしたが、小さすぎて入れない。そこに気を取られて、アストライオスはその場から光速で去っていった。
 あとに残されたカミもハデスも、自身の大切なものを彗星の如く奪われて、茫然自失の顔を浮かべるしかなかったのだった。
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