全1話

文字数 3,648文字

 その少年と初めて出会ったのは、私が小学一年生の時でした。
 とある日曜日の昼下がり、当時おてんばだった私は母の化粧台を勝手に使い、絵本に出てくる王子様に憧れるいたいけな少女よろしく、化粧ごっこをして遊んでいました。
 ファンデーションを顔中に塗りたくり、口紅で唇を真っ赤にし、マスカラやアイシャドウで目の周りを真っ黒に染めたりして、絵本の中のお姫様と自分とを重ね合わせていたものです。
 ちょうど香水をいくつも振りまいていた頃、買い物から帰って来た母に見つかってしまい、「あなたにはまだ早すぎます」と、こっぴどく叱られ、その日は夕食無しの罰が与えられました。
 しょげかえりながら外に出て、あてどなくさ迷い歩きました。時間にして一時間ほどでしょうか。
 やがて公園を見つけて、ブランコで揺られていると、暮れなずむ丘のふもとから一人の少年が歩いてくるのが見えました。
 きっとよその学校の小学生なのでしょう。知らない少年でした。その顔に見覚えは無かったのです。
 年齢は私と同じくらい。白いシャツに紺色のズボンを履いていて、たしか、あごには特徴的なホクロがありました。右手には何か握られていましたが、ここからはよく見えません。
 少年はどんどん近づいてきました。
 私は気味の悪さを感じ、気づかない素振りでたなびく紅雲に目を向けていましたが、少年は目の前で立ち止まると、そのままじっと立ち尽くしてしまいます。恐る恐る少年に顔を向けると、彼は無言で右手を差し出しました。
 それは新聞紙にくるまれたサツマイモでした。
 柔らかな湯気が立ち、所々に焦げ目が付いているので、きっと焼き芋なのでしょう。
 私はいらないとそっぽを向きましたが、ちょうど空きっ腹が鳴り、顔が真っ赤になったのを憶えています。
 少年はその焼き芋を無理矢理私に押し付けると、そのまま走り去り、丘のふもとへ消えていきました。
 焼き芋は暖かかくとてもいい香りがしていました。
 一口かじりつくと口の中に甘さが広がり、その香ばしさも手伝って、気が付くと夢中で頬張っていました。
 やがて空腹が満たされ一息つくと、少年の面影を探して、もう一度丘のふもとに顔を向けましたが、辺りはもう灰色の闇が迫っていて、ただ下弦の月がぼんやりと輝いているだけでした。
 
 それから四年が経ち、五年生になった私はクラスの飼育係を任されていました。
 校庭の隅に小さな飼育小屋が建てられてあって、そこで他のクラスの飼育係と一緒にウサギの面倒を見ていました。
 ある日の放課後。
 いつものように独りで小屋を掃除し、餌を取るために小屋を出ようと扉に手を掛けた時でした。ウサギが足の間をすり抜け逃げ出しました。六匹のうちの一匹でした。
 一瞬、“脱兎のごとく”という言葉が頭に浮かびましたが、この場合は何ていうのかしらと首をひねり、慌ててそのウサギを追いかけましたが、結局その姿を捕えることは出来ませんでした。
 担任の先生に報告して、私は学校に残っていた生徒や教師たちと共に懸命に探しましたが、結局徒労に終わりました。
 泣きじゃくりながら通学路を家に向かって歩いていると、ひとりの少年が佇んでいるのが見えました。そのあごのホクロには見覚えがあります。

 あの時の焼き芋の少年でした。

 ですが同時に違和感を憶えました。あれから四年も経つのに印象は当時のままなのです。
 私は他人の空似かもしれないと思いました。もしくは自分の記憶違いなのだと。
 少年はウサギを大事そうに抱きかかえています。どう見ても逃げ出したウサギに違いない。
 少年は無表情のまま、ウサギを前に差し出します。私はそれを受け取り、丁寧に礼を言うと、少年は背を向け、そのまま走り去っていきました。
 私は彼の名前を聞かなかったことを後悔しながら、大急ぎで学校へと戻りました。

 その後も私に何かトラブルがあると、度々その謎の少年が現れてピンチを救ってくれました。

 例えば中学の頃。クラスメイトの給食費が盗まれ、私が疑われた時も、彼は犯人とその理由が掛かれたメモを渡し、無事容疑が晴れました。
 高校時代。初恋相手に失恋した時も、少年から貰った恋愛小説のおかげで、だいぶ心が癒されました。
 彼はずっと初めて出会ったあの頃のままでした。外見もその仕草も。結局名前は未だ訊けずじまいでした。

 それから月日は流れて、二十八歳になっていた私には、同じ会社で知り合った恋人がいました。三年間交際しましたが、そろそろ結婚も意識していたその恋人に、ある日、突然別れを切り出されました。
 彼の言い訳によると、他に付き合っていた女性がいて、「先日、その彼女の妊娠が発覚した。だから責任を取るために結婚するんだ」とほざきました。その相手とは、私と同じ職場で、とても仲の良い後輩でした。
 必死に土下座する彼に、思い切り平手打ちを喰らわせて家に帰りつくと、一晩中ベッドの中で泣き濡れました。
 二か月後。
 彼の結婚式の案内状がぬけぬけと届いたその日、あの少年が再び私の前に現れたのです。

 私は結婚式場の前でタクシーを降りると、眉間にシワを寄せながら、そのお城のような建物を見上げました。
『ここに私から彼を奪ったあの女がいる。そして数時間後には血まみれのあの女が横たわり、彼が私の元へ帰ってくる』
 そう心に描きながら。
 周りに人がいないのを確認すると、慎重にハンドバックを開き、中を覗き込む。案内状の横に並んだ短い棒状のものが目に入りました。
 それは案内状が届けられた日に少年がくれたナイフでした。
 私はハンドバッグをパチンと閉めると、式場の中へゆっくりと足を踏み出しました。薄ら笑いを浮かべたあの女の笑い声が、やがて悲鳴に変わるのを頭の中で何度も想像しながら。

 今、まさに式場の敷地内に建てられた小さなチャペルに、結婚行進曲のウェディングベルが高らかに鳴り響いています。大勢の人の祝福の笑顔と拍手の中、純白のウェディングドレス姿で極上の笑顔を浮かべる私と、その隣には凛々しく立っている彼がいました。ふたりが神父の前で指輪を交換し、誓いの接吻を終えた時、私はあの時の事を思い出していました……。

 結局あの時、私は結婚式の会場に入ることが出来ませんでした。
 あの女を殺したところで彼が戻ってくるとは到底思えなかったのです。
 刑務所の中で、日々老いていく私の姿を、あの少年が本当に望んだのか。そう思うと、どうしても足がすくみ、涙で瞳を滲ませながら式場を後にしました。
 今まで少年がくれた物には全部意味があったはず。もしこのナイフが人を傷つける為の物ではないとしたら……。
 ひょっとしてこれは自分自身への裁きなのではないのだろうか。
 これ以上生きていても幸福は訪れない私の最後の希望――。
 左の手首にナイフを当て、血みどろになりながら息絶える自分の姿を想像してみると、それも悪くないと思えたのです。ある意味、私にとって最高のプレゼントでした。

 すっと心が軽くなり、最後の晩餐を何にしようかしらと気楽に思い浮かべながらタクシー乗り場へと足を運んでいると、突然、後方から何かがぶつかったような激しい音が聞こえて来ました。
 振り返ると黒いスポーツカーが電信柱に衝突しているではありませんか。
 ボンネットは激しく歪み、そこからは黒煙が立ち昇っています。
 急いで運転席に駆け寄りドアを開けてみると、三十歳くらいの男性が額から血を流し、必死でシートベルトを外そうとしています。
 私もベルトのバックルを何度も外そうとしましたが、衝突のショックで変形したのか、まったく動きません。このままだとガソリンに引火して大爆発を起こすかもしれない。
 誰か助けを呼ぼうと周りを見廻しましたが、他に人の気配は一切無く、警察に連絡している時間さえありません。こうしている間にも炎が益々勢いを増してきています。
 どうしていいか分からず、あの時の私は、ただ必死でベルトを引っ張っているだけでした。
 その瞬間、ふとあのナイフの事を思い出します。
 ハンドバッグから急いで取り出し、さやを抜くと、夢中でベルトに刃を立てました……。

 彼は寸でのところで車から脱出し、道路脇に座り込むのと、それを待っていたかのように車から爆音が聞こえ、一瞬で炎に包まれました。
 私と彼は二人して、墨で真っ黒になった顔でお互いに向き合うと、「間一髪だったね」と、思わず抱き合いました。
 その時の彼こそが、今、私の目の前で優しく微笑んでいる王子様でした……。

 数年後。
 私たちの間に赤ちゃんが授かりました。あごの先にはあの名前の知れない少年と同じところにホクロがあり、何となく面影が重なったような気がしました……。
                                  ――完結――
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