第3話

文字数 1,760文字

 中学に入りたてのころ、おれは豪華客船に乗り遅れる夢をよく見た。豪華客船なんて、現実には乗ったことなんてないんだけど。
 夢の中でおれはどこかの寂れた観光地の波止場にいる。空は紅茶色に濃い紫が沈澱している。もう夕暮れも深く、周りの木々は黒々としか見えない。人影のない暗くなっていく寂しい港から、窓の灯りを散りばめた黒い大きな豪華客船が出航していく。おれは乗船チケットを握りしめて走っている。手に届かないところに船が出ていくのを焦りながら目で追う。波止場に止まっている小さな手漕ぎボートに飛び乗って漕ぎだす。
 あの大きな船に乗らなくては!
 そうひたすらもがく夢だ。

 ゆめはとは、中学1年生の時に初めて出会った。
背の低かったおれより背がすらりと高く、運動も勉強も良くできた。大きな意志の強い目をしていた。おれが張り合えたのは運動能力くらいだった。
 ゆめはは、俺のあこがれだった。
 あこがれの女子ではなく、あこがれの人だ。
 向こうはうるさいサルの成瀬としか思っていなかったが。

 そのころの担任は、大谷という英語の女の先生だった。すれ違うと、おばあちゃんが使う服の防虫剤の匂いがした。
 大谷は五十代くらい。ふくよかで良く言えばおおらか、悪く言えばボケた先生だった。生徒に配るプリントの渡し忘れはしょっちゅう、回収物も忘れることも信じられないくらい多かった。あまり生徒を強く叱ることもできなかった。

 入学して2か月ほどたったクラスで、大谷の授業中に菓子を食べながらヒソヒソ話しながら漫画読んでいる男らがいた。大谷はその佐久間らに気づいても弱くしか注意できず、そいつらには華麗にスルーされているありさまだった。
さすがにそいつらにはおれも引いた。周りでも、迷惑そうにしてるやつもいた。みんな見ぬふりをしていた。クラスで影響力強いやつらだったからみんな、下手に機嫌を損ねさせたくない。おれもそいつらとは仲良いし見守っているだけだった。先生が注意すべきことだし。

 がた、と席を立った女子がいた。ゆめはだった。机と机の間を歩くスリッパがわずかに立てる音がした。佐久間の隣に立ち、凛とした声で言い放った。
「ねえ、あんたらうるさいって。授業聞こえないから困る。それ、学校が終わった後に食べな」
「…お…前の声の方がうるせーし」
 ゆめはの予想外の行動に、大きなガタイに似合わず佐久間はひるんだ。みんな一瞬にしてひやりとした緊張感の中に投げ込まれた。クラスはしんと静まり返った。佐久間とゆめはから出ている張り詰めた糸のようなものに皆がつながって引っ張られている感じがした。

 ゆめははふうっと息を吐いて、机の上のじゃがりこを一本つまんで食べた。
「もう、佐久間、やめときなよ。食い意地張りすぎ」
 ゆめはが呆れたように軽い声で言うと、数人の声を抑えた笑い声がした。ゆめはの声は凛としていたが、佐久間を拒まない声色だった。
 佐久間たちはクラスを見渡した後、さっと片づけて何事もなかったかのように静かに授業に戻った。

 おれはなんとなく後ろめたさを感じていた。
 ゆめはをめちゃくちゃかっこいいと思うと同時に、疎ましかった。変に目立ってかっこ悪くて、でも佐久間にでもスパンと言いたいことを言えるゆめははかっこよかった。
 でも、それって、おれのポジションじゃね?
 ゆめははクラスのどんな層にも平等にしゃべる。おれも幼いころからスクールカースト規格外ポジションで、カーストなんて気にしてませんって顔をしてきた。陽キャにも陰キャにも接するようにしてきた。おれは天真爛漫で言いたいことを言うようにと思われているが、そうじゃない。
 おれは純真で天衣無縫な人間を装っている腹黒いやつだ。
 ニセモノだ。
 天衣無縫でもなければ、ほんとはここにいるべき人間じゃないのにと、どこか思っている。入試もたぶんぎりぎりで合格している。ひょっとしたら親父の何かの力で入学できたのかもしれない。
 ゆめはは、ここにいることを望まれる人だ。強くてかっこよくて、頭もよければ運動神経もいい。

 ゆめはがいると、空気が変わる。清浄になる。いい雰囲気になる。
 ゆめはの輝く目の表情や笑顔を向けられると、好きになってほしくなってしまう。
 良い気持ちをもってほしくなってしまう。話をしたくなってしまう。

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