恋わずらいもほどほどに

文字数 2,354文字

 退屈が(きわ)まったアスタロト猊下(げいか)は、万魔殿(パンデモニウム)の中にあるアスモデウス(こう)の部屋で、とりとめもないお話に花を()かせておりました。

「はあ……」

「どうしたんだい、アスモデウス? さっきからため息ばかりついて。ひょっとしてあれか? 性懲(しょうこ)りもなくまた、人間の(むすめ)に恋でもしたのかね?」

 金色(こんじき)玉座(ぎょくざ)に座るアスモデウス公は、組んだ手の中に顔を(かく)してしまわれました。

 拷問台(ごうもんだい)を改造したテェブルが、腕の重みでギシギシと(きし)んでおります。

「いや、アスタロトよ、実はそうなのだ。だからわたしは、このようにずっとわずらっているのだよ」

「君は確か、ああ、そうだ。サラとかいう娘に一途(いちず)だったのではなかったのかね? 心の(うわ)つきは、ほめられたものではないぞ?」

 猊下はハヤブサの(つめ)であごをカリカリとかきながらおっしゃいました。

「サラか、サラはとうの昔に死んだ。人間の寿命とは短いものだからな。まったく、いまいましい超越者(ちょうえつしゃ)め、なぜ人間に寿命などという概念(がいねん)を与えたのか。あれは勇猛(ゆうもう)獅子(しし)をも、役立たずの駄馬(だば)に変えてしまう、おそるべき技だ」

 アスモデウス公がテェブルに(こぶし)を置くと、そこにビシリと亀裂(きれつ)が入りました。

 しかし猊下はいっこうに()(かい)しておりません。

老獪(ろうかい)にして不遜(ふそん)なのだよ、いと(たか)(もの)はな。自分のやらかしたミスを必死で隠そうと、そんなくだらないものを作ったまでなのだ。だからアスモデウスよ、その(わな)にはまってしまっては、君のほうがやつの道化(どうけ)になってしまうぞ?」

 両眼(りょうめ)爛々(らんらん)とさせるアスモデウス公を横目(よこめ)に、猊下は爪に(ほどこ)した細工(さいく)(かがみ)にして、さきほどいただいたフーガスのカスが歯にくっついていないかを確認しております。

「わかっている、わかっているのだ、アスタロトよ。だが、はあ……まったく、おそろしいことがあるものだ……」

 アスモデウス公はまた顔を()せてしまわれました。

 そのうなだれるオールバックの分け目を見つめ、猊下も聞こえないようにため息をつかれたのです。

「君のそんな腑抜(ふぬ)けたツラなど見たくはないな。破壊公(はかいこう)(ふた)()で天の軍勢(ぐんぜい)(ふる)えあがらせた君が。そのように(なさ)けなくては、わが軍のこけんにかかわるぞ。威厳(いげん)(たも)ちたまえ、威厳を」

「そうは言ってもな、はあ……」

 腕の中に頭をうずめるアスモデウス公をちらりとのぞき込んで、猊下はずいぶんあきれた顔をなさいました。

 組んだ手の上にあごを乗せ、退屈しのぎに部屋の(すみ)をながめております。

「ああ、まったく。あそこで間抜けなダンスを(おど)っている花嫁の(むくろ)にでも(なぐさ)めてもらえばよかろう?」

「あれがサラだ」

「はあ?」

「おそろしい情念(じょうねん)だ、恋というものはな」

「……」

 アスモデウス公はお顔を両腕にうずめたまま、動かなくなってしまわれました。

 猊下はあごが落っこちてしまいそうなくらい、長い長いあくびをなさっています。

「はーあ。われわれ七君主(サタン)の中でも、君はわたしと並んでまともな部類だとばかり思っていたがな」

「言ってくれるな、アスタロトよ。すべては恋の成せる魔の術式(じゅつしき)なのだ……!」

 アスモデウス公はシィソォのようにお顔を腕にぬぐっております。

「ふぁ~あ。くだらん、実にくだらん」

「まあまあ、猊下。アスモデウス公は七つの大罪(たいざい)のうち、情欲(じょうよく)(つかさど)られているお方。その研究にご熱心なのでしょう」

「ダミエル、君はやさしいね。こんなへたれのことをかばってさ」

「へたれか、そうかもしれん。だが、こればかりはな、はあ……」

 アスモデウス公は上げかけたお顔を、また腕の中にしまわれてしまいました。

「アスモデウス公はかつて、あちらのサラさんに近づく堕落(だらく)した男どもを、その夢の中で()め殺してしまわれたと聞きおよんでおります。まさに求道者(きゅうどうしゃ)。七つの大罪は超越者をほふり去るための重要な鍵でございますれば、その研究に没頭(ぼっとう)する公の存在こそ、わが軍の(かがみ)でございます」

「ああ、ダミエル、わかってくれるかい? 正直わたしは、自分のおこないが間違っているのではないかと、懐疑(かいぎ)してやまなかったのだよ。求道者か、ふむ。君のよりそう心に(はげ)まされたよ。ありがとう、ダミエル」

「もったいないお言葉でございます、アスモデウス公」

「ふん、わたしにはミイラ取りがミイラになっているだけにしか見えんがね」

「ダミエルと違って君は冷たいね、アスタロト。君の心には愛がない。もっと愛を勉強したまえ」

「はあっ、何を抜かすかと思えば! やれ恋だの愛だのと、実にくだらないな、アスモデウス!」

「まあまあ猊下、そのような心づもりでは、その、もてませんよ?」

「サルガタナス、貴様まで……」

「ひぃっ、猊下、言葉がすぎました! (ひら)に、平に、ご容赦(ようしゃ)を!」

「まったくどいつもこいつも。くだらん、帰る!」

「ああ、猊下! お待ちください」

 猊下はお体にくくりつけてある装飾品をガチャガチャと鳴らしながら、足早(あしばや)廊下(ろうか)を歩いております。

 サルガタナス伯爵(はくしゃく)はついていくのにもやっとのご様子です。

「ああ、不愉快だ。何が恋だ、何が愛だ。そんなものは、ハエのクソにも(おと)る」

「猊下は恐怖公(きょうふこう)の二つ名でおそれられるお方。お気持ちお察しいたします」

 カシャンと、猊下は足を止められました。

「どういう意味だ、サルガタナス?」

「ひぃっ! これは重ねて失礼を!」

 猊下は(パンサァ)のまなざしを伯爵に送りましたが、しばらくするとまた歩きはじめました。

「は~あ。恋だとか愛だとか、そんな塵芥(ゴミ)に等しいものもわたしが知らんと思っているあたりが、まったく、バカどもめ……」

「は、どういうことでございますか、猊下?」

「なんでもない。そして、どうでもいい」

「はあ……」

 回廊(かいろう)闊歩(かっぽ)する猊下を、僕たちはがんばって追いつづけました。

 廊下の窓から見える()(そそ)流星(りゅうせい)は、どうやらその答えを知っているではないかと、僕はせっせと歩きながら、ぼんやりと考えていたのでございます。
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