幸福論

文字数 2,294文字

「それ」は孵化した時、初めて彼を目にした。
確かに「それ」は「目が合った」と思ったのだ。



「え…?」

その男は、戸惑いながら、ゆっくりと目を瞬ばたかせた。
次に何度も素早く瞬きを繰り返した。

「え…!?」

先程より、驚きを含んだ声でもう一度そう言った。
確認するように、ゆっくりとまた瞼を閉じて、開いた。

「何て事だ……っ!!」

男は信じられないようにあたりを見渡す。
その表情は、戸惑いと恐怖と、何より歓喜に満ちていた。

「見えるっ!!これが世界か……っ!!」

男は大声で叫び、その場に踞った。
そして人目も憚らず、嗚咽を漏らして泣いた。
最も、この洞窟には人などいないのだけれども。

「それ」は、自分の見ているものが何なのかわからなかった。
わからなかったので、じっとそれを見続けた。

男がふと、その視線に気づいたのか、泣き晴らした顔を上げた。

「お前か……?」

男はゆっくりと「それ」に近づいた。
禍々しい卵の殻を破り、生まれたばかりに見える「それ」は、じっと男を見ていた。
魔物だろうか?
初めて見る男にはわからない。
だが、魔物であろうと何であろうと、男には関係なかった。

「お前が私の目を見えるようにしてくれたのか?」

「それ」はとても驚いた。
何故なら確かに「目が合った」と思ったからだ。
なのに男は言った。
お前が目を見えるようにしてくれたのか、と。
どういう事だろう?
「それ」は理解できなかった。
生まれたばかりだが、自分の持つ性質は本能的に理解していた。

孵化し、1番初めに目が合ったものに、数々の災厄を与える。

だと言うのに、男は目が見えるようになったと言う。
つまり、「それ」が目が合ったと思った時、男の目は見えていなかったのだ。
そして自分と目が合った事で、見えなかった目が見えるようになったと言うのだ。

ますますわからない。
数々の災厄を与えるはずなのに、男は目が見えるようになった。
それは災厄ではなく、幸福なはずだ。
見えていない相手と「目が合った」と勘違いしたせいで、誤作動が起きてしまったようだ。

男は「それ」に手を伸ばした。
「それ」は不思議と、それを嫌だとも思わなかったし、攻撃しようとも思えなかった。
男が生まれたばかりの「それ」を手に乗せた。
「それ」はやはり不思議そうに男を見上げるだけだった。

それから、男と「それ」は行動を共にした。
男は「それ」を肩に乗せ、初めて見る世界に、形に、色に、躍動に、目を輝かせた。
それまでは、音と感触と匂いが全てだった世界が、一変した。
目に写る全てが真新しく、刺激的だった。
何かを見るたび、男は「それ」に話しかけた。
「それ」は黙って男の声に耳を傾けた。
同じものを見、男の声を聞く。
男が何をどう感じ、どれだけ興奮したのかを聞いていた。

いつしか「それ」は、男といることが、男の話を聞くことが、好ましいと思うようになっていた。
何故なら「それ」は、男の感情を食べていたからだ。
本来なら、災厄に見舞われて不幸になり、荒んでいく感情を餌にするはずが、「それ」は男の豊かな感動を食べて育ったのだ。

男が新しく見えた世界になれ、通常の生活では感動する事が出来なくなり、もっともっと新しいものが見たいと言う欲求を押さえられなくなった頃、「それ」はかなり大きくなっていた。
もう男の肩には乗らないし、連れて歩くことも難しい大きさになっていた。

家に置いておく事も出来なくなった時、男は「それ」を生まれた洞窟に連れて行った。
「それ」は大きく成長した為、男と離れていても、男の様子を見ていられる力をつけていた。

そして見守った。
男がもっと新しいものが見たいと、貪欲になっていく様を。

男は度々、洞窟を訪れては「それ」に話した。
何を見て、何を感じたのかを。

好奇心に負けて、男が新たに見たのは、どす黒い人の欲だった。
人をなじり、奪い、貶めるその様を見た。
はじめは嫌悪し、目など見えないままの方が幸せだったと言った。
だが、それでも見ることを男はやめられなかった。
やがてそれを受け入れ、染まり、人をなじり、奪い、貶め始めた。
そして自身もなじられ、奪われ、虐げられた。
その頃の男は、あの目を輝かせて世界を見ていた面影もなくなり、頬がこけ、目の下が暗くたるみ、なのに笑っていた。

「それ」はそんな男を嫌悪した。
嫌悪したが、同時に慈しんだ。
何故だかはわからない。
「それ」は男がどうなろうとも、見守り、寄り添い続けた。

荒く荒んだ、男の感情を食べた。
本来、食べるはずだったそれは、あまり美味しいとは思えなかった。
それでも食べた。
男と同じものを見て、何をどう感じたのか、共有する為に食べ続けた。

そして、男が洞窟にやって来た。
目は虚ろで、痩せ細り、泡を噴いていた。
「それ」は男に寄り添った。
だが、男はもう、言葉を話さなかった。

幾晩も何の音もさせない男に寄り添い、男がもう二度と起き上がらない事を「それ」悟った。
そして「それ」は、男を食べた。

何の感情もなくなった男を、「それ」は食べた。
美味しいとも不味いとも感じなかった。

ただ、同じものを見て共有し続けたように、「それ」は男を自分と共有させた。
それはとても幸福で、そして不幸だった。

もう、男はいない。
共有するものはもう、何一つ残されていなかった。

その幸福と不幸を長々と味わった後、「それ」は卵を産んだ。
そして卵を見つめながら息絶えた。

願わくば、この卵から生まれる「それ」は、はじめに「目が合った」と思ったものの目が、どうか見えていますように……。



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(コラボレーション部門作品。「災厄の卵」(こうづあきら様作品:pixivイラスト)からオマージュさせて頂きました。)
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