第6話 答え合わせ

文字数 13,222文字

 リードに繋がれた犬が僕に近づいてくる。慣れていない僕は思わず後退りをした。

「大丈夫、君に興味があるだけだ。大人しい犬だよ」

 お爺さんは優しい声を掛けてくれた。固まった僕の顔を覗き込みながら鼻を鳴らしてこちらを見ている。ベージュ色の毛並みが朝日に照らされて輝いて見えた。垂れた耳に、大きな体。確か、ゴールデンレトリバーというんだっけ。黒く潤んだ瞳でじっと僕の目を見つめると、徐に横に座り込んだ。警戒していたのが馬鹿みたいに、飛びかかる様子もなくお座りをしたままじっと海を眺めている。

「ほらね、私も彼ももう歳だから。やんちゃする元気もないよ」

 微笑みかけてくれたお爺さんは随分穏やかな印象だった。茶色のYシャツにゆったりとしたベージュのズボン。口周りには短く白い髭を生やしており、体格は普通の大人と変わらず背筋がきちんと伸びていた。僕のお父さんも大人しい人だったが、お爺さんのそれは、まるで自然そのもののようにずっと昔からそこにいたような。警戒心をまるで感じさせないような雰囲気が彼にはあった。

「隣に座ってもいいかな?」

 僕は頷くと犬を挟んで、よっこいしょ、とゆっくりと座り込んだ。犬はそれを合図に伏せ始めた。お互いに海を眺めながら沈黙が続く。疲れ切っていた僕は話題を考える余裕も無かったが、お爺さんが纏う雰囲気が、それすらも許してくれそうな気がした。愛犬の体を優しく摩りながら、お爺さんは切り出した。

「君は、この辺りの子かい?」

「・・・いいえ」

「年はいくつだい?」

「・・・・・十三です」

 お爺さんの雰囲気が変わったような気がした。横目で見たお爺さんの顔は、怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもない。真剣に僕を見つめる眼差しに僕は再び海の景色に逃げた。夜が明けて間も無いこの時間に、十三歳の子供が一人で海岸に座っている。その状況だけで普通じゃないことを察したのだろう。

「君もレインを撫でてくれるかな?」

「・・・レイン?」

「この子の名前だ。体を摩ってくれると、とても喜ぶ」

 レインは依然伏せているが、それでも躊躇はあった。生き物は何をするか分からない、犬も例外では無かった、人間も。ぎこちない手でレインの体にそっと触れる。繊維が太い毛並みの下に、生き物特有の生温かさが感じられた。その温もりは、僕の手を通して安らぎを与えてくれる。毛並みに沿って摩ってやれば、尻尾を左右に振ってくれる。喜んでくれている、そんな気がした。可愛らしい、とも思った。

「どうして、レインって名前なんですか」摩りながら自然と言葉が出たことに自分でも微かに驚いていた。

「この子を引き取った日がたまたま雨の日でね。それだけで決めてしまったのだよ。我ながら安直な理由だと思ったが、今はもう、すっかり馴染んでしまったよ。かっこ悪かったかな」

「いいえ」僕はそれでも、この犬にぴったりだと思っていた。「いい名前だと思います」

 ありがとう、とお爺さんは微笑んでくれた。

「君は思った通り、優しい子だ。だからこそ、君が今ここにいるのが不思議でならない」

 お爺さんの言うことももっともだった。返す言葉もない。

「何かあって、ここに来たのかい」

 僕は頷くしか無かった。

「私で良ければ話し相手になってくれないだろうか。もちろん、君が良ければだが」

 さざ波の音が、僕らを包み込んだ。

「・・・僕も・・」

「うん?」

「・・・僕も誰かに聞いて欲しいと思っていました」

 これは、紛れもない本心だった。ずっと誰かに話したかった。親にも話せなかった自分のことを、会ったばかりのこの人は聞いてくれると思った。お爺さんは「よいしょ」と一言、ゆっくりと立ち上がった。やはり年齢なのか、立ち上がるときに眉間に僅かながら皺が寄っていた。

「この近くに私の家があるんだ。そこで話すとしよう」

 僕も釣られて立ち上がった。隣のレインも立ち上がる。「君の服も洗った方が良さそうだ」お爺さんがにっこりと笑う。自分の服を見れば泥や砂埃が至るところについており、飛び出してからずっと着ていたシャツは汗の匂いが染み込んでいた。




 お爺さんの家は小さなログハウスのようなものだった。林を背にして、浜辺と土の地面の境にぽつんと建っている。家のすぐ横にはこじんまりとした犬小屋があり、そこがレインの城だった。扉を開ければ家の中は僕の家とは別世界だった。白い木目の箪笥、映画でしか見たことない重厚な暖炉、色鮮やかな絨毯の中心には小さな丸いテーブル。そこに膝掛けのついた柔らかそうな椅子が二つ、直角に向かい合って佇んでいた。箪笥の上には写真が立て掛けてある。古い写真だ。幸せな笑みを浮かべた夫婦と小さな男の子、そして男の子に抱えられた小さな子犬が写っている。お爺さんとレインだろうか。

「ちょっと待ってなさい」お爺さんは部屋の扉の奥に行ってしまい、どうしたらいいか分からない僕は立ち尽くす。家の中は実にシンプルな装いだった。海が見える窓の下にはキッチンがあり、すぐ隣には冷蔵庫と陶器でできた食器が入った段ボールほどの大きさの棚が壁に取り付けられている。
 しばらくしてお爺さんが戻ってきた。手には厚手のタオルとサイズが合いそうなシャツとズボンが畳まれてある。

「息子のお下がりだがちょうどいいと思ってね。どうだろうか」
 服を手に取って自分の体に合わせてみる。大き過ぎず、小さ過ぎず、まさにぴったりだった。「大丈夫です」と答えると目元に皺を寄せてにっこりと笑った。お爺さんに案内された浴室はまさに一人用といった狭い浴室だった。壁に取り付けられたシャワーと小さな桶と椅子。しかし、床や壁、浴槽は木目の板で作られており、香ばしい木の匂いが室内に広がっていた。木で出来たお風呂なんて初めてだから、入る時に少しドキドキしていた。思えばこの気持ちは、家を出てすぐに見た夜空の時と似ている。つい二日前のことなのに、もう遠い昔のような気がした。

 テーブルには氷の入った麦茶、パンとレタスが添えられた目玉焼きが置かれていた。シャワー上がりの熱った体に冷えた麦茶は贅沢品だ。お爺さんに目を向ける。「いいんですか?」お爺さんは黙って頷いていた。昨日の夕方から何も食べていない僕にとって、目の前の朝食はまさにご馳走だった。
 ホカホカのパンにバターを塗って、口一杯に頬張る。目玉焼きとレタスは一瞬で食べ切ってしまった。胃袋に食べ物があることがこんなにも幸せだったとは。

 食事を終えたテーブルには飲みかけの麦茶とお爺さんのコーヒーが残っていた。互いにソファに座り、リビングには沈黙が漂っている。誰かと黙って座っているのに、その沈黙があまり苦痛では無かった。“待ってくれている“、それが感覚で分かったからだ。
「ご飯はどうだったかね」
 お爺さんがコーヒーを一口啜りながら尋ねる。
「美味しかったです、本当に」
「ははは、いい食べっぷりだったからね」
 お爺さんの皺を寄せた笑顔に、自然と僕も笑みが溢れる。

 コップに入った麦茶に目をやる。僕はまだ迷っていた。今でも思い出すだけで吐き気を催すような気分に晒される。
 でも、僕一人では何も分からなかった。分からないままで良いことなど何も無かったじゃないか。我慢してもだめ、逃げてもだめ、なら。
 コップの麦茶を口に含み、僕は意を決した。

「あの・・・」
「ん?」
「・・・僕には友達がいたんです」
 うん、とだけ返事をしてお爺さんは静かになった。
「学校で出来た、初めての友達です。僕も、彼も、その・・・人との関わりが苦手でした。僕は、学校で一人でいるのが嫌だったから、彼と一緒にいました。彼も・・・その・・・同じだった、と思います。あんまり喋ったりはしなかったけど・・・一緒に本を読んだり、学校から帰ったり、ゲームしたり、してくれました」
 お爺さんがうん、と頷くと「そうか」と優しく返事をしてくれた。
「とても、良い友達だね」
 はい、と返事をした。自分で話してみて、本当に彼は優しい人だったと思う。だからこそ、あの時のことが不思議でならなかった。

「でも、突然部活に入るって言い出したんです。運動部です。体を動かすのは僕と同じで苦手だったのに。そしたら・・・」
 僕の言葉はそこで詰まる。そこから先を思い出して、辛くなった。
 お爺さんが僕の顔を覗き込んでいるのを目の端で見えた。「そしたら?」優しく促してくれるのは分かっていても、言葉が出てこない。いや、出したくない、が正しいかもしれない。
 お爺さんが続ける。「大丈夫」僕はお爺さんに顔を向けた。「ゆっくりで良い。大丈夫」
 そこからお爺さんはまた静かに待ってくれた。僕は麦茶を一口飲み、落ち着かせる。口の中で緩やかに歯を食いしばった。
「・・・僕と会わなくなったんです。部活の人と・・・一緒に・・・帰るように、なったんです」
「うん」
「でも、僕も、一緒に、帰りたくて。彼に・・・い、言ったんです。・・・こ、今度・・・・あそ、遊ぼうって・・・そ、そしたら、ぶ、部活の、と、友達と・・・遊ぶ・・・って・・・ごめん・・・って」
 口にするだけで、泣きたくなった。あの時の僕は、本当に、悲しかったんだと。一人になったと分かってしまうのが、怖かったのだと。言葉にした瞬間、それが現実だったんだと、理解した。
「どうして、なんで・・・嫌いになったんですか?・・・僕のこと、あ、飽きたんですか?」
 自分でも何を言ってるのか分からない。お爺さんに聞いても仕方ないのに、本心から漏れ出した言葉は止まることはなかった。
「うむ」
 お爺さんは顎髭を指でさすりながら、深く椅子に座り、考えているようだった。
「そのお友達は、一緒にやろうって誘わなかったのかい?」
 記憶を巡って見たがその言葉は無かった。僕は首を横に振る。
「おそらくだが、彼は変わりたかったんじゃないかな」
「変わりたかった?」
「うん、話を聞くと、彼と君はとてもよく似ているようだ。君が今の引っ込み思案な性格に困っているように、彼もまた自分の性格に悩んでいたんだろう。だからこそ自分の苦手な分野に挑戦しようと思ったんだ。それはとても、勇気のいることだよ。君に部活に入ることを告白した時、本当は彼も君と一緒にやりたかったんじゃないかな」
「でも・・・」
 なら、どうして。
「それなら、話してくれればよかったのに」
「その通りだ。だからこそ、お互いに深く干渉しない関係が仇になってしまたんだ。恐らく、彼も君と同じことを思っていたのだろう。たとえお互いに会う時間が減ってしまっても、変わらず接してくれるのだと。でも、新しい友達との時間に追われてしまい、お互いの性格からお互いに言うに言い出せなくなってしまい、本当に、離れてしまったんだ」
 まるで体ごと落ちるような感覚に襲われた。お爺さんの言葉は、優しくて、残酷なように聞こえた。
「・・・もう」
 とうとう、目から涙が溢れた。
「もう、会えないんですか」
 お爺さんは首を横に振る。
「分からない。だが、本当に会えないかどうかは、君次第だ」
「・・・僕?」
「そうだよ。君が勇気を出して彼に会いに行くんだ。どんな方法でも良い。その時、彼は変わっているのかもしれない、でも、本当は彼も君に会いたいのかもしれない。もう一度、友達になりたいと。そう、思っているのかもしれない。でもそれは、実際に会って、話をしない限りは分からないことなんだ」
「・・・お爺さんも、怖かったりしたんですか」
 コーヒーを一口飲んで、お爺さんは言った。
「あったよ、だからこそ後悔していることが山ほどある」
 言葉にしたお爺さんの顔は、口元は笑っていても、目は寂しさを物語っていた。
 

 しばらく静寂が続いていた。
 窓の外は完全に陽が出ており、沈黙に満ちた部屋に斜光が入る。さざ波の音が微かに部屋に入り込んでいた。
 僕の頭の中で“ケンちゃん“のことを考えていた。あれから1年近く経っている。まだ思い出すのも苦しいけれど、不思議と考えは落ち着いていた。“会いに行けば良い“。至極単純なことだ。でも、その考えに至るまでに僕は臆病すぎた。思えば両親も“ケンちゃん“と遊ばなくなってから言ってたっけ。「最近、あの子家に来ないけど会ってないの?」今考えればそれは、“会いに行ったら?“というメッセージだったのだろう。僕は両親の言葉を、どれほど聞き流していたんだろうと後悔した。たくさんのヒントがあった。でもそれを僕は拾おうともしなかったのだ。
 コップのお茶は既に干上がっていた。空のコップを覗いているとお爺さんが立ち上がる。
「おかわりはいるかい?」
 僕は「いただきます」と返事をして、視線を再びコップに戻した。お茶の準備をしながらお爺さんは訪ねた。
「家はどのあたりだい?折角だから家まで送ってあげよう」

 その言葉に心臓がドクンと高鳴る。喉は一瞬で乾き、手が冷たくなった。

「大丈夫かい?」

 お爺さんの言葉に顔を上げる。お爺さんの表情は心配をしている人のそれだった。余程自分の顔色が優れていないことが想像できた。

「・・・いやだ」

 声は自然と震えていた。

「帰りたくない」

 お爺さんは再び椅子に深く腰掛けた。

「まだ、話していないことがあるね」

 僕はただ頷くしか無かった。

「構わないよ。話したくなったら、いつでも言いなさい」

 変わらない優しい声に、僕は一瞬だけ安堵した。


 お爺さんはそれ以降、話題に出すことは無かった。本当に僕が話し出すまで待っていてくれているのだろう。お爺さんの一日は実にシンプルなものだった。家の掃除と洗濯を手早く済ませた後は、昼ご飯を作り、食事の後はレインとの散歩に出かける。このまま座っていても落ち着かないので、僕も散歩に同行することにした。
 砂浜の海岸沿いに歩いた先には歩道が整えられた道が林の中にあり、木漏れ日の中を僕とお爺さんとレインで歩いた。お爺さんの話では、この道はよく行く散歩コースらしい。道中、お爺さんは色々な話をしてくれた。
 お爺さんは元々この地域の生まれだった。成人して都会に働きに出てから、当時奥さんになる人と出会って結婚し、一人息子を授かったのだという。子供が成人してからは、地元に戻って奥さんと静かに過ごうと約束していたのだが、やがて結婚生活が上手くいかなくなり、子供が成人する前に離婚してしまった。離婚してからは一度も奥さんと子供に会わず、今の家に引っ越して何年も経った頃に息子さんが訪ねてきたのだという。その時にお爺さんの奥さんが亡くなったこと、仕事が忙しくて面倒が見れないからと愛犬のレインを託されただけで、それからもう十年以上会っていないようだった。
 話してくれたお爺さんは「いやぁ、変な意地は張るものじゃないね」と笑っていたが、多分、僕と同じ後悔をずっと抱いていたのだろう。

 家に戻ってからお爺さんは家の本棚から本を取り出し、老眼鏡をかけて読書を始めた。ずっと気になっていたが、お爺さんはかなりの読書家のようで、リビングには天井まで届きそうなほどの高さの本棚が置かれていて、そこには隙間なく本が並んでいた。僕もお爺さんに習い、数あるタイトルを見渡した。その中の一冊に僕の目は止まる。
 “銀河鉄道の夜“
「お爺さん、読んでみても良いですか?」
 お爺さんが眼鏡を下げてこちらを向く。
「いいとも。その本は私も大好きなんだ」
 にっこりと笑った後に、お爺さんは本に視線を戻した。
 思えばこの本が、僕の初めて読んだ小説だった。図書館で見つけて読んでみたが、当時小学生だった僕には書いてある内容はさっぱり分からなかった。でも、その文章から滲み出る幻想的な世界は分からないながらも妙に引き込まれていったのを覚えている。それからいくつもの本を読み漁るようになり、僕は本の虫になった。何年か振りに読む“銀河鉄道の夜“は、相変わらず難しい。言葉の意味や習っていない漢字が沢山使われていてさっぱりだ。でも、以前よりなんとなくだが想像できる場面が増えていた。曖昧だったものが鮮明になり、僕はちょっとだけ嬉しくなった。
 
 日は傾き始め、夕方を迎えようとしていた。僕はとある一文に目が止まる。
 “ほんとうの幸(さいわい)“
 それは、ずっと気になっている言葉だった。幸せってなんなんだろう。僕にとっての幸せとは?優しい両親がいて、それだけでは幸せでは無かったのだろうか。“ケンちゃん“と一緒にいることが幸せだったのだろうか。学校で友達が出来て、感情のままに笑って、毎日を過ごすことが、幸せなのだろうか。“あの人たち“のように、誰かが泣いているのを見て笑うのが、“あの人たち“の幸せなんだろうか。考えは巡り、ページを開く手は止まっていた。知りたくなった。あれがなんなのか、“幸せ“とはなんなのか。お爺さんなら知っているんじゃないかと。
「お爺さん・・・」
 か細くなった声にも、お爺さんは顔を向けてくれた。
「聞いても良いですか?」
「なんだい?」
「お爺さんが考える幸せって、何なんですか?」
 銀河鉄道の夜に目を向けたお爺さんはあぁ、と僕の聞きたいことがすぐにわかったようだった。
「そうだね・・・私は今の生活に幸せを感じている、かな」
「今、ですか」
「うん、世の中には色んな幸せがある。裕福であることに幸せを感じる人、大好きな人と一緒にいるだけで幸せな人、自分自身を鍛えて高みを目指すことに幸せを感じる人、たくさんある。私はレインと二人で、静かに穏やかに暮らすこと。決して無理はせず、自分を追い詰めない。自分のできる範囲で暮らすことが、私の幸せだよ」
 そう語ったお爺さんの目は玩具で楽しそうに遊ぶ子供の目と同じだった。心から今の生活を気に入っているのだろう。
「でも、今この瞬間が一番幸せなのかもしれないね」
 へ?と自分でも間の抜けた声が漏れてしまった。
「恥ずかしい話だが、今の生活が幸せでも、やはり心のどこかで寂しいという気持ちはあるんだよ。誰かと話たい、そんな時がね。そんな時に海で君と出会った。一緒にご飯を食べて、一緒に散歩をして、一緒に本を読む。こうして誰かと一緒に時間を過ごすことが無かったから、私は、すごく嬉しいんだ」
 はにかみながらお爺さんが話すものだから、僕も恥ずかしくなって顔を背けてしまった。
「この本に出てくるジョヴァンニも、学校でいじめられている境遇の中で親友のカムパネルラと銀河鉄道の中で“幸せ“について語り合うところが私は好きだよ」
 いじめ、あの時の光景が頭を過った。
「ザネリがジョヴァンニをからかっていじめて、ザネリは幸せだったのでしょうか」
「かもしれないね。でも、他人を不幸して得た幸せなどあってはならないと、私は思うよ」
 やっぱりそうだった、あれは間違っていたことなんだ。心に沁みた僅かな安堵感が、僕の背中を押した。息を呑んで、声を出した。

「・・・僕は学校で、ずぶ濡れにされて、自分のものを盗られたクラスメイトを見ました」
 お爺さんの雰囲気がガラリと変わるのを感じた。
「やっていたのは・・・僕が中学生になって初めての友達でした。明るくて、何も出来ない僕を励ましてくれました。そんな彼らがやっていたことを・・・僕は信じることが出来ませんでした。やられていたのは、僕と同じで大人しい人です。悪いことをせず、授業も静かに聞いている人でした。だから・・・だから分からないんです。何も悪いことをしていない彼が、どうして泣くほどの思いをしているのか。あの時楽しんでいた彼らが、分からなくて・・・怖いんです」
 お爺さんは静かに、老眼鏡を机に置いた。
「自分も・・・ああなるんじゃないかって思うと・・・怖くて、たまりません。夏休みがあ、明けたら・・・あの人たちと・・・会ってしまう」
 自分の息がどんどん冷たくなる。手は震えて、視界はぼやけてはっきりしない。
「僕は」
 言おう。
「・・・僕は」
 言わなければ、もう終わらないんだ。
「僕は、あんな目に遭いたくない・・・一人になるのも・・・もう、嫌です」
 初めて晒した本音だった。ずっと、ずっと、隠してきた、本音だった。絞り出した声の先に、お爺さんは答えた。

「君が見たものは、当たり前のことだ」

 当たり前?ますます混乱した。お爺さんの言葉に疑問だけが残る。
「当たり前って・・・どういうことですか」
「学校だけじゃない。大人になった世界でも、君が見たものは当たり前のように起きている。だが、それは決して、許されていい当たり前ではないんだ」
 お爺さんは続ける。僕の目をしっかり見つめて。
「君がここまで来た理由がやっとわかったよ。それは、とても恐ろしくて、怖いことだ。でも、いつかは向き合わなければならないことでもあるんだ。逃げた所で、それは変わらない」
 僕はその言葉に、胸がザワザワした。
「じゃあ、誰に頼れば良いんですか」
「先生でも、両親でも、誰でもいい。でも、最後は君自身がどうにかしなければならないんだよ」
「お爺さんが、なんとかしてくれないんですか!?」
 僕の声が荒立っていた。
「私にはどうにも出来ないよ。学校にいつも付いて行けるわけじゃない。君が彼らとの繋がりを断つことをはっきり言わなければ、終わらないことだ」
「それは・・・」
 頭の中が沸騰するような感覚が止まらず、沸き上がってくる。
「それはお爺さんが大人だから出来るんです!僕は怖いんです!学校では“あの人たち“しかいなくて、他のみんなは誰も話しかけてくれない!だってそれは、僕がつまらない人間だからなんです。皆みたいに楽しいことができるわけじゃない、流行りに乗っかれるような人でもない、本ばかり読んでるつまらない人間だから!でも、だったらどうすれば良いんですか!一人でいるのも苦しくて、誰かと繋がるのも苦しくて、もう、どうしたら良いのか分からないんです!」

 息が乱れて、体はずっと強張っている。溢れ出す涙を、両手で抑えるしかなかった。こんなに怒ったのは生まれて初めてだった。お爺さんの顔を、僕はまともに見ることができなかった。
 お爺さんは優しく僕の背中を摩って「すまなかった」と、そう言ってくれた。

 気付けば、窓の外は明るさを失いつつあった。午後6時、夕暮れ時である。気持ちが落ち着くまで随分時間がかかったようだった。それまでお爺さんはそっとしてくれていた。キッチンからは香辛料の香ばしい匂いが漂っていた。お爺さんは何も言わずに夕食を作ってくれていた。その後ろ姿は、遠い昔のように思える母の姿に似ていた。
「落ち着いたかい?」
 視線に気づいたお爺さんが振り返る。既に料理はほとんど出来上がっているようで、手洗いを済ませて隣にゆっくりと座った。匂いからカレーのようだ。
 お爺さんに酷いことを言ってしまった。そんな後悔で顔をあげることもままならない。恐る恐るお爺さんの方に向くと変わらない優しい笑顔を僕に向けてくれていた。その表情に、僕は心から安心できた。だからこそ、謝ることができたんだ。
「ごめんなさい、怒ってしまって」
 ははははっ、とお爺さんは笑って返した。
「なに、あれくらい平気さ。大人になって良いことは大抵のことは平気になれることだからね」
 なんてことない、と言わんばかりの嘘偽りのない言葉に僕は感心してしまった。大人ってすごいんだな。
 少し間を開けて、お爺さんは言った。
「あれからずっと考えていたんだ。君のためにできることを」
 僕はお爺さんの言葉に意識を向けた。その内容は意外なものだった。
「私と、友達にならないかい?」

 あまりの内容に理解が追いつかなかった。友達とは、歳の近い人となるものだと思っていたからだ。ましてや年が随分離れた人と友達になるなんて聞いたこともない。頭に浮かんだ素直な疑問を、お爺さんにぶつけた。
「お爺さんと僕は、大人と子供ですよ。それって、良いんですか」
「良いとも。そもそも、大人と子供が友達になってはいけないということもないからね」
 確かに、悪い訳ではない。お爺さんの考え方に僕はまたしても感心してしまった。
「私は、君の今の境遇をなんとかすることはできない。でも、支えになることはできる。私も、君と友達になりたいと思っていたんだ」
 嬉しかった。やっと止まった涙がまた溢れそうになるくらい。友達になりたい、その言葉だけで、僕の中に住み着いていた黒いものが溶け出していくようだった。
「僕なんかで、本当に良いんですか」
「もちろん。私は、君が気に入ったよ。こんなに優しくて強い人はそうはいない。どんな時でも良い。辛かった時でも、嬉しかった時でも、寂しかった時でも。いつでも、会いに来てくれ。それだけで、私は嬉しい。もう老い先短い人生だが、私はずっと、此処にいるから」
 “此処にいる“、その言葉が、どんなプレゼントより、どんな素敵な出来事より、変わらずに受け入れてくれる人がいることが何よりも嬉しかった。きっと、ずっと欲しかったものだったんだ。誰かとの、確かな繋がりが。それが思いもよらない形で繋がることが出来た。それは、本当に幸運なことだ。
 世界は、冷たいだけじゃない。傷つけるだけじゃない。お爺さんの存在が、それを証明してくれた。その事実だけで、僕は本当に救われたんだ。
 もう目から溢れる涙を止める気になれなかった。大声で泣いて、お爺さんに縋りついた。小さな子供のように、自分の年相応など気にせず泣きじゃくった。そんな僕をお爺さんは優しく背中を摩ってくれた。お爺さんの手の感触が、まるで洗い流してくれるように。
「さぁ、家へ帰ろう」
 僕は頷いた。



 午後二時。電車に乗るのは久しぶりだった。車窓からは新緑が抜けて、紅葉の木々が山一面に広がっている。窓の隙間からは肌寒くなった澄んだ空気が漏れ出し、その匂いが秋の季節を感じさせてくれた。次々と流れる景色。それを僕と“ケンちゃん“で眺めていた。
「もうすっかり秋だね。そういえば僕、電車でどこかに出かけるの初めてかも」
「僕もだよ」
 “ケンちゃん“と交わす他愛無い会話がとても心地良かった。意地悪も無い、皮肉もない、だけど誰も傷付けない彼の言葉は、安心感があった。

 あの日、僕はお爺さんの知り合いの車に乗せてもらい、家に帰ることになった。事前にお爺さんが連絡した時に母は何度も泣き腫らした声でお爺さんにお礼を言っていたらしい。自転車で二日かけて行った道のりが車では二時間もかからずに到着したものだから、僕の苦労は何だったのかと、他人事のように拍子抜けしたことを覚えている。家に着いたのは午後九時。久しぶりに見た僕の家は、まるで何ヶ月ぶりに見るような懐かしさを感じた。インターホンとともに両親が駆けつけて僕を抱きしめてくれた。二人とも大人だというのに周りの目も気にせず泣いていた。良かった、良かった、無事で本当に良かった、と。その姿を見て、僕は猛烈な罪悪感に襲われた。自分には、こんなにも僕を思ってくれる親がいるのに、今まで気にも止めなかった。父と母は、僕がこの世からいなくなってしまうのかもしれない恐怖と戦っていたんだとわかった時、「ごめんなさい」と自然と言葉が出ていた。
 後から知ったことだが、お爺さんが僕も招き入れたことは世間では非常にまずいことだったらしい。両親はお爺さんに深々とお礼をした後、捜索願いを出していた警察には“息子は自分で帰ってきた“というふうに話すことしたそうだ。当たり前だが、家に着いてまず始まったのが、両親からのお説教だった。
 そして今日、僕は週末に“ケンちゃん“と二人でお爺さんに会いに行く。両親からは袋一杯のお菓子や食器類、母と父が綴ったお礼の手紙が入った紙袋を渡された。思えば、この日が来るまで、今までなかったくらいに本当にいろんな事があった。
 まず、僕には夏休みまでにやるべきことがあった。“ケンちゃん“にもう一度、会いに行くこと。決心がついて動き出すまで何度も躊躇った。もし会いたくなかったら、もう友達だと思っていなかったら。頭の中に巡る不安が何度も何度も過った。でもその度に、お爺さんの言葉を思い出した。
『君が勇気を出して会いに行くんだ。会わなければ分からない』
 お爺さんが待っていてくれる。いつか“ケンちゃん“とお爺さんに会いに行きたい。夏休み最終日。僕は重い腰を上げて“ケンちゃん“の家に向かった。足取りは未だに重い。何なら近づくにつれて血の気が引いていく。家に着いた時、僕は息を整えて、自分に喝を入れた。「いくぞ、いくぞ」幾分か泣きそうな声だったが、それでもインターホンを鳴らせるほどの勇気が湧いてこれた。
「はい・・・」
 最初に出たのは、意外にも“ケンちゃん“だった。心臓がドクンと跳ね上がったが、不思議なことに言葉は自然と出ていた。
「ケンちゃん、僕だよ」
 インターホンがガチャリと音がなり、一瞬ダメかと思ったが玄関から“ケンちゃん“が勢いよく出てきた。久しぶりに見た友達の姿に僕は驚愕した。背は以前よりするりと伸びており、顔つきには幼さが向けつつあった。僕と同じ細身の体も、半袖から伸びる腕は細いながらも確かな筋肉がついていた。最初に見た時は別人かと思ったが、「あ、久しぶり」とか細い声で返事をする彼の姿に、僕は確かに“ケンちゃん“の面影を感じた。
 あぁ、変わってなかった。いつもの友達の姿に先程までの不安が嘘みたいに吹き飛んでいた。彼の家で、僕と“ケンちゃん“は沢山話をした。卒業してからのこと、最近のこと、今読んでいる本のことも。相変わらずぎこちない会話だったけど、そのぎこちなさが何だか面白くなって途中でお互いに笑い出していた。
 “ケンちゃん“は部活に入って頑張ってはみたものの、部活のメンバーとの良好な関係は長くは続かなかったようだ。元々運動が苦手だったこともある彼は、練習を重ねても良い結果は出せず、最初は応援していた部活のメンバーも次第に彼を見限るようになり、終いには部活を辞めるように嫌がらせをするようになったという。結局、部活はやめてしまい、部活動の中でしか友達を作れなかった彼にとって学校は孤独な環境になってしまっていた。夏休み中、学校が始まることでずっと悩んでいたところに僕が訪ねてきて、彼もとても嬉しかったと話していた。その話を聞いて僕は笑ってしまった。
「え?なんで笑うの?」と驚く彼に、 
「だって、僕も同じだったから」と答えるとお互いに笑い合っていた。本当に、僕と彼は似たもの同士だと、つくづく思った。

 さて、夏休みも終わり、僕には最後の問題が残っていた。“あの人たち“との関係である。僕は夏休みの間、ずっと悩んでいた。先生に話そうか、両親に相談するか、それとも面と向かって啖呵を切るべきか。何を考えても納得する解決だとは思えず、悪いイメージだけが最後に頭の中に残ってしまう。結局僕は“あの人たち“が怖いのだ。それだけはどう考えても拭いされなかった。悩みに悩んだ末、僕が出した結論は、“あの人たち“から逃げることだった。教室にいる間は極力視界に入らないようにして、関わらないように努める。自由時間になれば一目散に教室から逃げ出して、とにかく会わないようにした。最初は僕に話しかけていた彼らだったが、恐怖心に任せて逃げ続けることで三週間もしないうちに僕への関心は無くなったようだ。いじめの標的にされるのではと危惧していたが、九月の終わりに彼らがいじめをしていたことが先生たちにバレてしまい、生徒指導で大目玉を食らったとクラスメイトが話しているのを聞いた。何日か出校停止になっており、戻ってきた時にはすれ違っても、まるで僕のことを見えていないような感じだった。そんなわけで、僕の問題は何事もなく解決してしまったのだ。

 今までの恐怖や不安は何だったのかと今となっては思うが、それもこれもお爺さんに出会えたからだと思う。あの時確かに、僕は逃げ出した。そして、お爺さんと出会い、友達になったことで僕は幸せを掴もうと前に進むことができた。でも、今でも偶に考える。あの時お爺さんと出会わなければ、あのまま当てもなく逃げ続けていたら、そう考えると背筋が冷たくなる。

 車内に次の停車駅のアナウンスが流れる。もうすぐお爺さんに会える。話したいことがいっぱいあるんだ。今までのこと、“ケンちゃん“のこと、今読んでる本のこと、小説を書き始めたこと、これからのこと。
「でもまさか、“ソウくん“の友達がお爺さんってびっくりしたよ」
「何で?」
「だって、大人と友達になるって、変じゃない?」
 彼の疑問に思わず笑みが溢れてしまう。
「良いじゃない。だって、大人と子供が友達になっちゃいけないルールなんて、ないんだから」
 彼は数秒考えたのち、「確かに」と笑った。

 電車は駅に止まり、ドアが開く。潮の香りがした。
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登場人物紹介

主人公:

読書が好きな引っ込み思案な性格。

中学1年生

"ケンちゃん":

主人公と同じく物静かで本が好き。

途中から運動部に入部した。

お爺さん:

海辺に住む穏やかな老人。愛犬のレインと一緒に住んでいる。

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