第3話 道中

文字数 5,356文字

 午前10時。再出発から二時間余りが経過した。僕は今、最初の山にある蛇のように曲がりくねった坂道を、息を切らしながら、自転車を押して歩いている。

 再出発してから暫くは順調だった。道は平坦で起伏がないため、ペダルを漕いで風を切るのが心地良かったくらいだ。途中の公園で持ってきた菓子パンを食べて一息する余裕もあった。公園では小学生達がサッカーをして遊んでいる。この町にしてはグラウンドがあるそこそこ広い公園だったので、地元の子供からすれば外遊びのメジャースポットみたいな場所なのだ。
 僕は公園の端のベンチに座って食べていた。サッカーをしている子供が何人か僕の方を見たが、知り合いではないと気付くとサッカーに戻っていく。話しかけられるのではないかと内心ドキドキしていたが、すぐにサッカーに戻ったので安堵の溜息をついた。
 菓子パンを食べ終わり、お茶を口に含んだら出発の時間だ。勢いよく自転車を走らせ、颯爽と目的地へ向かう。山の麓に近づくにつれて木が立ち並ぶ林がちらほら見えるようになった。公道も山に近づくにつれて道幅が狭くなっていき、道も少々凸凹が目立つようになってきた。途中、道の窪みで転びそうになるも、体勢を保ちつつ進みづける。

 山の入り口に近づいてきた。木の枝が道を覆うアーチのようになっており、奥は所々木漏れ日が差し込んでいた。いよいよ此処からは山を越える坂道が続く道だ。僕はよしっ、と気合いを入れて加速し、山道に入った。
 が、いかんせん運動部でもない自分だった。5分ほど漕いだ所で自転車は失速し、ついにはペダルが回らなくなってしまった。仕方ないと自転車を降りて、どこまでも続く様な山道を歩いて行くことになった。山の中は陽が差し込むことが少なかったが、湿度が高いからなのか纏わりつくような暑さが体力を徐々に奪っていった。息は乱れ始めて、足は段々と重くなり、押している自転車に重みが加わるような感覚に襲われる。時折、真横を通り過ぎる車に注意を払いながら、一歩ずつ進んでいった。


 あれからどれくらい経ったのだろう。永遠に続くかのような道に段々と嫌気が差してきた。
 どれくらい進んだのかも、あとどれくらいあるのかもわからない道を歩き続けるのは、何かの罰かのように思えてきた。目の前の広がる同じ様な光景に飽き飽きしてきた。頭もふらふらしてきて、口の中も乾いてきた。

 蝉の声が耳障りになってきた。あぁ、うるさい。まるで笑い声のようだ。

 笑い声。あの笑い声を思い出す。笑い声が嫌になったのはあの時から。


 道の端にやや広い空間が見えた。車一台が停まれるような広さ。あぁ、やっと休める。既に足は棒のようになっており、シャツは汗で首回りが濡れきっていた。足は重りを引きずるような状態だったが、最後の力を振り絞ってその場所へ向かった。ようやく着いた時にはコンクリートでできた壁に倒れるように持たれかかった。自転車を停める気も無く、やや乱雑に横倒しにする。そのまま地面に座り込み、バッグから温くなったお茶を喉に流し込んだ。
 喉を潤すことに必死になり、あっという間にペットボトルが空になった。上を見上げる。四方八方に広がる枝が時計回りにグルグル回っていた。まだ暑さがまとわり付いて、気持ち悪さが抜けない。
 少しだけ休憩するつもりだったが、まだ足を動かす気力が湧いてこない。時折吹くそよ風が気力を少しずつ取り戻していく。
 鳥の鳴き声と蝉の声、枝の擦れる音が耳に直接入ってくる。頭の中は空っぽになっていた。

 午後1時。どれくらい座っていたのだろうか。三回は車が横切っていた気がする。息も大分整ってきた。腕と足はまだ重いが、動かしてもいいかな、と思うくらいには回復していた。相変わらず道の奥は坂道が続いているが、ずっと座っていても日が暮れてしまう。「よし」と一声あげて身体を奮い立たせた。膝が思うように伸びず、立ち上がりに時間がかかったが何とか出発まで漕ぎつけた。
 
 意外にも坂道はそう長くはなかった。10分ほど登った先に切り開かれた場所があり、そこから山々の景色が広がっていた。景色から吹き抜ける風が気持ち良くて、ずっと此処にいたいと思うくらいだった。さて、此処から先は下り坂なので、自転車に乗って下ろうかと思ったが、思いのほか急な下り坂だった。さすがに怖くなった僕は仕方なく自転車を降りて下ることにした。それでも登る時と比べたらいくらか楽な道だった。時々足がもつれて転びそうになるので焦らず歩くことにした。

 道の途中でも切り開かれた場所があり、そこから家がいくつか建っているのが見えた。やっと人がいる所に着いた、ホッとしたのも束の間、開かれた景色に僕は冷や汗をかきながら何度も集落を見渡した。コンビニのような店がどこにも無い。母から何もないと聞かされていたが、僕が想像していたよりも何倍も何もない場所だった。


 集落に着いてからの僕の足取りは重かった。見渡す限り住居が所々にあるだけで、店のような建物は一切見当たらなかった。心臓がバクバクする。工場のような建物はあっても、自販機すらも見当たらなかった。もうカバンの中には何も無く、喉の渇きはより一層僕を焦らせた。せめて自販機だけでも。容赦なく照りつける日差しの中、道の先に見覚えのある四角いものが見えた。暗い色が立ち並ぶ中に、目立つような赤が際立ってる。

 自販機だ。

 僕は嬉しくなって、急いでで自販機に向かった。ただの自販機をこれほど求めたことなんてそうそうないだろう。自販機の前に着いた時には「よかった〜」と心の声が漏れたくらいだ。自販機には見た事もない種類のジュースが並んでいたが、今の僕は選り好みしている余裕はなかった。小銭を自販機に入れて『りんご』と書かれたジュースのボタンを押す。ガシャコン、と音を立てて出てきたそれを間髪入れずに喉に流し込んだ。冷たい水分が身体中に広がっていく。こんな感覚は生まれて初めて味わったような気がした。
 ふと横を見ると立て看板があった。

 『惣菜屋 よこい』

 建物は古く、外見は昔ながらという風貌。自販機の横の大きく開かれた引き戸から、野菜、果物が陳列されていた。奥の看板には『みたらし団子 350円 お好み焼き 500円』と書かれている。レジが置いてある棚の向こうには戸口が空いているが、覗き込んでも誰もおらず、物音ひとつしない静けさだった。僕は恐る恐る店の中に入り、棚の前まで進む。気づいてくれるかもしれないと期待したが、5分ほど待っても一向に出てくる様子はなかった。声をかけなきゃいけない、そう思うと気が重くなった。僕は人に声をかけるのが苦手だ。知り合いのクラスメイトでさえも、近くまで寄って気づいてもらえるまで待っているほどだ。
 僕は胸の奥から言葉を引っ張り出した。

「…すみません...」

 声を張り上げるつもりで出た言葉は、自分の想像よりも小さな声だった。
 もう諦めようかと思った。でも、空腹のままこの先に行くのは、怖かった。

 もう一度だけ。もう一回だけ。大きく深呼吸をして息を整える。心臓は波打っていた。

「…あのっ!すみません!」

 今度は思った以上の声が出て、出した自分がドキドキしていた。不意に罪悪感に襲われる。
 
 しばらくすると、棚の向こうから人の物音が聞こえる。やがて階段を降りる音が向こう側から聞こえてきた。

 「はーい」

 戸口から出てきたのは、40歳くらいのおばさんだった。背筋は伸びているが、皺が入り始めた顔と後ろにまとめた白髪の混じった髪が年齢を際立たせた。
 顔つきは少々きつく、最初に見て不機嫌なのではと思ったくらいだ。白いシャツとゆるゆるになったズボンが、家でくつろいでいた事を物語っている。

「どしたの?お使い?」

「いえ、えっと…」

 そこから言葉が出てこない。そういえば両親以外の大人と話すのは、いつ振りだろうか。学校の先生とも出来れば話すのは避けたかったし、お正月に親戚同士で集まっても、話しかけられたら返事するくらいだった。ましてや店員に話しかける事自体、親に頼り切りになっていたから尚更だった。
 上手く言葉が出てこない。頭の中は真っ白になっていた。おばさんは目の前のこちらをじっと見ながら、お互いに沈黙が続く。

「…どれか食べたいのかい?どれがいいか指差してみな」

 そう言って、おばさんが助け舟を用意してくれた。真っ白だった思考に、どれにするかという考えができた。「これで…」僕はみたらし団子の文字を指さした。
 棚から乗り上げて覗き込んだおばさんは「みたらしだね。はいよ」と言って奥の方に行ってしまった。

 程なくして奥の部屋から物音が聞こえるようになった。冷蔵庫を開ける音、扉を閉める音、コンロを付ける音、いくつもの響く音が人がいる安心感を与えてくれた。変な話だけど、今の今までもう何日も人と会っていないような感覚に陥っていたのだ。やがて奥から醤油の焦げた香ばしい香りが漂ってきた。匂いにつられて腹の虫も、早くよこせと囃し立ててるようだった。

 おばさんがプラスチックの容器に三本のみたらし団子を入れて戻ってきた。手慣れた手つきで容器を輪ゴムで止めて、さっとビニール袋に入れる。一連の動作が終わった頃には「はい、どうぞ」と言って僕に渡してくれた。“ありがとう“という言葉が出るに出られなかった僕は、会釈をしてみたらし団子を受け取った。「350円ね」というおばさんの言葉に僕は黙って財布から小銭を渡した。人と話をするのはやっぱり落ち着かない。僕はそそくさと店を後にした。店を出る直前、後ろから声が聞こえる。

 「もうすぐ日が暮れるから、暗くならない内に帰るんだよ」

 僕はその言葉を耳に入れながらも、自転車に乗ってその場を後にした。

 気付けば辺りは既に夕暮れになっていた。先程までの蒸し暑さはどこかへ行ってしまい、見晴らしのいい空はオレンジ色と水色が混じり合った色をしている。空に浮かぶ雲は濃いオレンジ色を塗り潰したような色合いになっていた。僕はしばらく、この綺麗な景色を眺めていた。
 
 “暗くならないうちに帰るんだよ“

 おばさんの言葉が頭の中で何度も繰り返して、その度に僕の胸はチクリと痛んだ。
 僕は反対の方向に進む。ただ今は自転車を漕ぐ気分にはなれなかった。あんなにお腹が空いていたのに、目の前のみたらし団子に手を付ける気分にもなれなかった。しばらく歩いて周りの家が無くなり始めた頃に、僕はみたらし団子に手を伸ばした。買った時よりも冷めていたが、それでも暖かさは残っていた。一口食べた団子の美味しさは、まるで生まれて初めて食べたかのような衝撃だった。あまりにも美味しくて、僕は三本もあったみたらし団子をあっという間に食べきってしまった。ささやかな満腹感から力が抜けそうになっていたが、周りの景色がそれを許さなかった。
 太陽は山に隠れて、日の光だけが空を照らし、綺麗な緑色をしていた山々は影で黒く塗り潰されていった。道の先が徐々に暗くなり、僕は自転車のライトを付けた。真っ直ぐに伸びる明かりだけを頼りに僕は山の入り口に向かう。目の前にそびえ立つ山と、木々に囲まれた入口が、僕には怪物の口のように見えた。






 山の公道を歩き始める頃には空にはオレンジ色が無くなっており、山の中から見上げる景色は僅かな明かりを持った夜空と木の葉のような輪郭を持った黒い影だけが残っていた。目の前の景色も、まるで絵画が黒く塗りつぶされるように徐々に色をなくしていく。黒く変わりゆく景色に、僕は、だんだん怖くなっていった。昼間坂道を登った息切れとは、明らかに違う。 
 血の気が引くような、 そんな、 吐いた息が冷たくなる。
 





 とうとう夜になった。  周りを見ても、何も見えない。黒だけの世界。  音が消えて、何もなくなる。 ライトに照らされた部分だけが、目の前の道を形作っている。

 心臓の音が、  ドクドク聞こえる。   はぁはぁと、  吐いた息が、  氷のように、  冷たくなる。   なんども足を、 止めたくなる。


 でも止めたら、  明かりが消えちゃうから。  ただ消えないように、  歩く。  
 


 足が震える。   辺りは何も見えないのに、   いつも周りに   何かがいるような気がする。




 怖い。   怖い。 



 こんなに怖いのは、    初めてだった。



 こんなことなら、   家にいればよかった。  



 だって、  もう、  もう、









        『ガサッ』


  
 「うわぁあ!!」


 暗闇の中から『何か』が目の前を横切り、僕は悲鳴をあげて倒れてしまった。
 
 尻餅をついたことで、自転車の明かりが消え、完全な暗闇が僕を囲い込んだ。

 何も見えない。目を開けているはずなのに、目を瞑っているような。

 もう僕は、立つことも出来なくなった。恐怖のあまり、足に力が入らないのだ。


  「うっ・・・うぅ・・・ひっ・・・・」

 
 もう無理だった。涙が溢れて止まらなかった。せめて声を押し殺して蹲るしか、出来なかった。

 どうすればよかったんだろう。あのままいても、学校が始まっても、怖い思いをするのなら、僕は、どうすればよかったのだろう。
 


 僕はもう、そこに蹲るしかなかった。
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登場人物紹介

主人公:

読書が好きな引っ込み思案な性格。

中学1年生

"ケンちゃん":

主人公と同じく物静かで本が好き。

途中から運動部に入部した。

お爺さん:

海辺に住む穏やかな老人。愛犬のレインと一緒に住んでいる。

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