第3話
文字数 1,717文字
志火が家に戻ると、妻の姿がなかった。かすかに話し声が聞こえるので、隣の奥方と話しに行っているのだろう。最近生まれた奥方の孫の話でも聞きに。
やれやれと志火は戸口に籠を降ろし、泥まみれになった足を洗おうと、奥の水瓶から水を柄杓 にひとすくいして、ふと、手を止める。
土間の土の上に滴った雫と、先ほど見た白い梅の花びらが重なった。
しゃがみ込むと、柄杓の水に指先を浸し、土の上に指を滑らせた。手が、ふるえた。
【梅が枝の】
不格好な文字だったが、志火はかきむしるように腹を押さえ、低くうめいた後、腰を上げた。
適当な石を拾って、土間の一画を掘ると、小さな木の器が姿を見せ、志火はそれをふるえる手で土の中から取り出した。そろそろと息を吸って、蓋を開ける。中には、手のひらに載るほどの、小さな黒い塊が入っていた。元々は、雲のような形をしていたようだったが、片方が少し欠けていた。
志火はそれを両手で包むと、祈るように胸の前でにぎりしめた。
「師 ──」
家の裏へ回ると、壁際で半分土に埋もれていた、奇妙な形をした焼き物と、細く割った竹の束をつかんで納屋へ入る。
焼き物の土を落とし、水で洗うと、灰色の肌が姿を現す。円形の皿のようだったが、周囲に溝があり、四分の一ほどが割れて失われていた。それは荷札書きの合間に手に入れた硯 だった。
志火は、硯の割れた部分が傾かないように石を敷き、祈るように、硯に雫を落とした。そして、ずっとにぎりしめていた、真っ黒な雲形の墨を、何度か息を深く吸って、硯に滑らせた。
──哥小よ、この墨をお前に託そう。これは都の職人の作った良い品だが、まだ若い。お前が今の私と同じような歳になる頃には、きっと深い色合いの、それは良い墨になっているだろう。だから、それまでにお前は多くを学び、多くの歌を詠み、この墨が熟す頃には歌集を編みなさい。そして決して歌詠みの途絶えることのないように、今度はお前が、才ある者に若い墨を託すのだよ
梅の香に満ちた、師の家の庭での出来事だった。
志火はあの戦の中で財産の全てを失ったが、この墨だけは守ろうと、戦禍の中でも、ずっと帯に挟んで隠し、守り抜いてきたのだった。
辺りに墨の香りがたち、志火は胸から小指の先まで広がった痛みに、奥歯を噛んで耐えた。
汚れが染みついて黒ずんだ指、土の詰まった爪、欠けてしまった粗末な硯。学ぶことも、詠むことも、教えることも叶わず、若い墨を手に入れることもできはしない。手元にあるのは、不器用な自分が作った、不揃いな竹簡。筆すら手に入れられず、渡り者の筆を真似て葦 を削って作った間に合わせの品だ。そしてこの竹簡を綴るのは、縄をなうのがことさらに下手な、己がなう綴り紐。
これを見たら、師はきっと嘆くだろう。こんな物が歌集かと。そして、渡り者に見つかればただでは済むまい。
「それでも、私は歌集を編もう」
優劣などどうでも良い。あの街で、宮で、梅の庭で詠んだ歌が、まだ私の中には残っている。師の歌が、歌詠みの友人と贈り合った歌が、教え子の、つたなくもみずみずしい歌が。我々が何を愛でて、言葉でどのように戯れてきたか。望まれることはなくても、読まれることはなくとも、全てを記そう。私が書かねば失われてしまう歌を。今日、私は白い梅を見たのだ。人知れず咲く白梅を。読む者がなくとも、きっと誰かが読むだろう。きっと、誰かが受け取るだろう。私が白梅を見たように。日哥が失われ、日哥の言葉が、文字が失われても。私が今日見た、白い梅のことを。白い花びらが、はらはらと散っていたあの様を。歌詠みの私が、ここに詠むのだから。
志火は、彼の予想したとおりに、貧しい農人として一生を終えた。
書き記した歌集も、しばらくは守られていたが、それを読むことのできない者たちの手によって、方々へ散逸し、失われていった。
しかし二百年ほど後のこと。ごみのように置かれた歌集の一部を、とある言語学者が手にすることとなる。
彼は後に【サリー文書】と呼ばれる大百科事典を編纂することになるのだが、その中の日哥の歌の文化についての条には、志火の記した歌集の、当時まで残存したものの全てが、そのまま記載されている。
やれやれと志火は戸口に籠を降ろし、泥まみれになった足を洗おうと、奥の水瓶から水を
土間の土の上に滴った雫と、先ほど見た白い梅の花びらが重なった。
しゃがみ込むと、柄杓の水に指先を浸し、土の上に指を滑らせた。手が、ふるえた。
【梅が枝の】
不格好な文字だったが、志火はかきむしるように腹を押さえ、低くうめいた後、腰を上げた。
適当な石を拾って、土間の一画を掘ると、小さな木の器が姿を見せ、志火はそれをふるえる手で土の中から取り出した。そろそろと息を吸って、蓋を開ける。中には、手のひらに載るほどの、小さな黒い塊が入っていた。元々は、雲のような形をしていたようだったが、片方が少し欠けていた。
志火はそれを両手で包むと、祈るように胸の前でにぎりしめた。
「
家の裏へ回ると、壁際で半分土に埋もれていた、奇妙な形をした焼き物と、細く割った竹の束をつかんで納屋へ入る。
焼き物の土を落とし、水で洗うと、灰色の肌が姿を現す。円形の皿のようだったが、周囲に溝があり、四分の一ほどが割れて失われていた。それは荷札書きの合間に手に入れた
志火は、硯の割れた部分が傾かないように石を敷き、祈るように、硯に雫を落とした。そして、ずっとにぎりしめていた、真っ黒な雲形の墨を、何度か息を深く吸って、硯に滑らせた。
──哥小よ、この墨をお前に託そう。これは都の職人の作った良い品だが、まだ若い。お前が今の私と同じような歳になる頃には、きっと深い色合いの、それは良い墨になっているだろう。だから、それまでにお前は多くを学び、多くの歌を詠み、この墨が熟す頃には歌集を編みなさい。そして決して歌詠みの途絶えることのないように、今度はお前が、才ある者に若い墨を託すのだよ
梅の香に満ちた、師の家の庭での出来事だった。
志火はあの戦の中で財産の全てを失ったが、この墨だけは守ろうと、戦禍の中でも、ずっと帯に挟んで隠し、守り抜いてきたのだった。
辺りに墨の香りがたち、志火は胸から小指の先まで広がった痛みに、奥歯を噛んで耐えた。
汚れが染みついて黒ずんだ指、土の詰まった爪、欠けてしまった粗末な硯。学ぶことも、詠むことも、教えることも叶わず、若い墨を手に入れることもできはしない。手元にあるのは、不器用な自分が作った、不揃いな竹簡。筆すら手に入れられず、渡り者の筆を真似て
これを見たら、師はきっと嘆くだろう。こんな物が歌集かと。そして、渡り者に見つかればただでは済むまい。
「それでも、私は歌集を編もう」
優劣などどうでも良い。あの街で、宮で、梅の庭で詠んだ歌が、まだ私の中には残っている。師の歌が、歌詠みの友人と贈り合った歌が、教え子の、つたなくもみずみずしい歌が。我々が何を愛でて、言葉でどのように戯れてきたか。望まれることはなくても、読まれることはなくとも、全てを記そう。私が書かねば失われてしまう歌を。今日、私は白い梅を見たのだ。人知れず咲く白梅を。読む者がなくとも、きっと誰かが読むだろう。きっと、誰かが受け取るだろう。私が白梅を見たように。日哥が失われ、日哥の言葉が、文字が失われても。私が今日見た、白い梅のことを。白い花びらが、はらはらと散っていたあの様を。歌詠みの私が、ここに詠むのだから。
志火は、彼の予想したとおりに、貧しい農人として一生を終えた。
書き記した歌集も、しばらくは守られていたが、それを読むことのできない者たちの手によって、方々へ散逸し、失われていった。
しかし二百年ほど後のこと。ごみのように置かれた歌集の一部を、とある言語学者が手にすることとなる。
彼は後に【サリー文書】と呼ばれる大百科事典を編纂することになるのだが、その中の日哥の歌の文化についての条には、志火の記した歌集の、当時まで残存したものの全てが、そのまま記載されている。