第1話
文字数 1,316文字
雪か──
思って、こんな陽気に雪など降るはずもないと、かすむ目をこらす。と、また、はらりとそれは雪のように舞った。
「こんな所にも、梅が育つのか」
志火 は思わずつぶやいて、その木の元へ歩み寄った。
薄暗い森の中で、白い梅の花が、人知れず、はらり、はらりと、花びらを散らせていた。
梅が咲くには、まだ少し早い。まして、花が散るなどとは。
風もないのにと見上げて、なるほどと笑む。高い枝で、数羽の小鳥が花の間を渡り渡り、花の蜜を吸っていた。小さくてよく見えないが、目白 と鵯 であるらしかった。
この冬は特によく冷えた。ここ数日は、ようやく息をつけるような暖かさが戻ったが、池や川が凍り付くような朝も多くあった。それでもこの梅はもう花を咲かせたのだ。林の中にあるために、日の光を求めて枝を伸ばした梅は、人が愛でるには花が高すぎる。庭にあるべき梅とは、違っていた。人が植えたものではないのだ。
ちち、と小鳥の鳴く声の他には音もなく、ただ花びらが、枯れた草の上に、土の上に降り積もってゆく。
かすかに、花の香りがした。懐かしい香りだ。かつて、この香りに包まれていたことがある。
己の内から言葉があふれて、それが形を結びそうになり、志火は、はっと我に返った。
肩に食い込む籠の重みと、あちこち継ぎのある衣、古びた足半 (踵 の部分がない草鞋 )を履き土にまみれた足が、志火を今へと引き戻した。見上げていた首が、かすかにきしんだ。
もう、どれだけ言葉をつむごうとも、それを読む者は誰もいないのだ。
心に、もう一度思い染 めて息をつき、志火はふたたび梅の花を見上げた。やはり、はらり、はらりと、花びらが舞っていた。
早く戻らねばとは思ったが、離れがたく、歩みかけてまた梅をふり返る。志火はしばらくそのまま梅を眺めていたが、やがて心を梅の元に残したまま家路についた。
戻ってやるべきことは山のようにある。
どうにかゆずってもらえた芋を妻にわたし、苦労して見つけた岩茸を洗って干し、明日差し出すための牛の餌をこしらえて、炉の灰を掃除して、納屋から炭を出し、時間があるようなら、そろそろ足半を編まねばならない。と思って、志火はちらりと自分の足元を見やった。ぼろぼろの足半は、緒 が切れかけている。
志火はどうにも縄をなうのが不得手で、幾つ作ろうとも志火の足半はどれも不格好だった。と言うか、何をやらせても、志火には農人 の仕事が満足にはできなかった。まさか野に出て土をおこすのが仕事になろうとは、夢にも思わずに生きてきたのだ。腕も足も細く、少し働くとすぐに疲れを出してしまう。もっと腕っ節の強い男と一緒になれば良かったと、妻にも折に触れては文句を言われるのだった。
妻も一緒になった頃は美しい女だったが、白髪が増えると共に髪も乱れがちになり、粗末な衣からのぞく、枯れたような腕が哀れだった。彼女もまた、ここへ来るまでは畑仕事はおろか、家事らしい家事もしたことがなかったのだ。
この間熱を出していた孫の様子も、見に行ってやらねばならない。娘の嫁ぎ先も貧しく、子の一人を病で亡くし、一人は里子に出し、何とか手元に残した息子なのだ。
この里の暮らしは誰にとってもつらかった。
思って、こんな陽気に雪など降るはずもないと、かすむ目をこらす。と、また、はらりとそれは雪のように舞った。
「こんな所にも、梅が育つのか」
薄暗い森の中で、白い梅の花が、人知れず、はらり、はらりと、花びらを散らせていた。
梅が咲くには、まだ少し早い。まして、花が散るなどとは。
風もないのにと見上げて、なるほどと笑む。高い枝で、数羽の小鳥が花の間を渡り渡り、花の蜜を吸っていた。小さくてよく見えないが、
この冬は特によく冷えた。ここ数日は、ようやく息をつけるような暖かさが戻ったが、池や川が凍り付くような朝も多くあった。それでもこの梅はもう花を咲かせたのだ。林の中にあるために、日の光を求めて枝を伸ばした梅は、人が愛でるには花が高すぎる。庭にあるべき梅とは、違っていた。人が植えたものではないのだ。
ちち、と小鳥の鳴く声の他には音もなく、ただ花びらが、枯れた草の上に、土の上に降り積もってゆく。
かすかに、花の香りがした。懐かしい香りだ。かつて、この香りに包まれていたことがある。
己の内から言葉があふれて、それが形を結びそうになり、志火は、はっと我に返った。
肩に食い込む籠の重みと、あちこち継ぎのある衣、古びた
もう、どれだけ言葉をつむごうとも、それを読む者は誰もいないのだ。
心に、もう一度思い
早く戻らねばとは思ったが、離れがたく、歩みかけてまた梅をふり返る。志火はしばらくそのまま梅を眺めていたが、やがて心を梅の元に残したまま家路についた。
戻ってやるべきことは山のようにある。
どうにかゆずってもらえた芋を妻にわたし、苦労して見つけた岩茸を洗って干し、明日差し出すための牛の餌をこしらえて、炉の灰を掃除して、納屋から炭を出し、時間があるようなら、そろそろ足半を編まねばならない。と思って、志火はちらりと自分の足元を見やった。ぼろぼろの足半は、
志火はどうにも縄をなうのが不得手で、幾つ作ろうとも志火の足半はどれも不格好だった。と言うか、何をやらせても、志火には
妻も一緒になった頃は美しい女だったが、白髪が増えると共に髪も乱れがちになり、粗末な衣からのぞく、枯れたような腕が哀れだった。彼女もまた、ここへ来るまでは畑仕事はおろか、家事らしい家事もしたことがなかったのだ。
この間熱を出していた孫の様子も、見に行ってやらねばならない。娘の嫁ぎ先も貧しく、子の一人を病で亡くし、一人は里子に出し、何とか手元に残した息子なのだ。
この里の暮らしは誰にとってもつらかった。