第2話

文字数 3,090文字

 あるとき、志火(しび)の暮らしていた街が焼かれた。
 今、志火の住む大野の里とは遠く離れた、都にほど近い街だ。
 その街で志火は、足半ではなく、足袋を履き、床の上で暮らしていた。動きまわるのには難のある、袖の長い衣をまとい、日々学生(がくしょう)歌詠(うたよ)みを教えていた。時には宮に赴いて、庭に咲き乱れる花々を愛でつつ、やんごとなき人々の前で歌を()むこともあった。それが彼の仕事だった。
 歌集に名を連ね、時には選者となることさえあり、大国楼煌(ラオファン)への使者が携える添え歌を詠んだ時には、志火の歌に感銘を受けたという、楼煌の学士より【哥小(かしょう)】という名を贈られたこともあった。
 街は都に近いこともあって華やかで、きらびやかな星肆(ほしくら)や寺院も多く、一年を通して花の絶えることはないというほどだった。
 それが、一日で灰になった。
 人々が逃げ惑う中、建物はこれほどに容易く、美しく燃えるのかと、志火は呆然とそれを眺めていた。
 街を灰にしたのは、見たこともないような髪色の渡り者だった。枯れた藁のような色や、栗の実色など、奇妙な髪色をした人々が押し寄せ、街を緋色に染めて、灰にした。
 彼らは南の大陸から海を渡ってきた人々で、彼らとの間で祖父母の時代から戦があったのは知っていたが、まさか己の住む街まで届くことなどないと、志火はどこかで漫然と信じていたのだった。
 彼らは町中の生き残った人々を捕らえて、しばらく粗末な小屋に押し込めた後、みんなばらばらに各地へ送られたようだった。妻と二人の子と離ればなれにならずに済んだのは、本当に幸いなことだった。
 各地へ送られた人々がどうなったか知るよしもなかったが、志火を含めた二十人ほどが、清明(さやけ)に送られた。都からは歩いて百四十日。道すがら五人ほどが病と飢えで命を落とした。
 清明(さやけ)とは、この日哥の国の西の端にあり、名の由来は「(さや)けき明け」。この国で最も清々しく美しい日の出が見えると謳われる「(すが)淡海(あわうみ)」という湖があるのだ。歌詠みの間では、冬の歌によく使う地名だった。訪れたことは一度もなかったが、志火はいくつもの清明の歌を詠んでいた。
 しかし、実際の清の淡海は、清々しくも美しくもなかった。志火がたどり着いた時には、日哥西部のほとんどが渡り者に占領されており、湖も大部分が埋め立てられて、生乾きの泥からは、まるで磯のような饐えた臭いが漂っていた。これから田畑を拓くのだという。
 そして志火たちはそこから少し南に進んだ、清明の中の「大野」という土地を拓いて農人(たひと)となることを強要された。「大野」とは、広く開けた土地にもつけられる地名だが、多くは、石や砂の多い荒れ地が田畑に利用されることもなく、広く空いているのを指す。志火の連れてこられた「大野」も、農地には向かない荒れた「大野」だった。
 耕せば耕すほど石の出る畑。水はどんどんしみこんで、土はすぐに乾いた。もちろんこんな所で稲は育たない。渡り者の持ってきた稲に似た植物も、この荒れ地ではうまく育たなかった。
 結局は(きび)(ひえ)など、志火がこれまで嫌って食べなかった雑穀と、渡り者が持ち込んだ奇妙な黍(里ではテサキビと呼んでいる)を作り、どうにもならない草地では馬の放牧などをして、何とか生活している。それでも渡り者は志火ら日哥の民に、テサキビや馬草や牛の餌などを供出させて苦しめた。
 様々な場所で捕らえられたらしい日哥の民が、次々と大野に送られてきたが、毎年冬には半分ほどが飢えや病、あるいは逃亡しようとして失敗して命を落とし、里人はそれほど多くはなってゆかなかった。
 都の方が今どうなっているのか、そういう話は少しも志火らの耳には届かなかった。都は、日哥はどうなってしまったのか。定期的に馬をもってゆくことを思えば、まだ戦は続いているのだろう。
 まだ、誰かが焼け出されている。殺されている。農人にされている。それを思うと、志火は言いしれぬ怒りに苛まれたが、彼を最も絶望させたのは、言葉を奪われたことだった。
 渡り者は彼らに、日哥の言葉を書き記すことを一切禁じたのだった。そして、見せしめのように、書物や文字の書かれた物が火にくべられた。そして、十日に一度は里のはずれにある小屋に集められて、渡り者の言葉を習うことも強要されていた。
 彼らの言葉は日哥にはない発音が多く、どこか間延びした言葉で、どこで単語が区切られているのかすら、日哥の者にはさっぱりわからないような有様だった。言葉がわからないのは渡り者の者にとっても同じで、その内に、どこかで捕まったらしい山人の若者が、言葉の師としてやって来るようになった。山人はどの言葉でも話すことができる民だからだ。
 志火は言葉を生業にしていた分、他の者よりは早くに渡り者の言葉を習得し、子らもわりと早くに会話ができるようにはなったが、妻は未だにうまく発音することができないでいた。当然だった。言葉を操るには、できるだけ早く始めることと、長年の蓄積が重要なのだ。
 年かさの者の中では、早く渡り者の言葉を覚えた志火は、何かの助けにならないかと、文字を教えてもらえるように願い出た。師の山人は快く渡り者に掛け合ってくれ、許可が下りると、志火はすぐに渡り者の文字を覚えてしまった。と言うのも、渡り者にはごく単純な文字が五十一文字しか存在しないのだった。
 これは志火には衝撃だった。日哥には、一生かかって学んでも覚えきれないほどの文字があるのだ。日哥にはひとつの名にひとつの文字がある。しかし、渡り者の文字には「あ」という音に「あ」という文字があるだけなのだった。つまり、彼らは音の連なりだけを書き表しているのだ。なんとまだるっこしい文章だろうか。そして、語彙の少なさにも志火は驚いた。例えば「山」を表すのに「木の生えた高い場所」というような言い回しをする。とても面白い言葉だった。こんな単純な言葉では、歌は詠めまい。日哥の歌には、並ぶ文字の美しさを競う詠み方もあるのだ。
 すぐに文字も覚えてしまった志火は、自然と荷札等の文字を書く仕事をさせられるようになった。もちろん日哥の文字を書くことは許されなかったが、畑を耕すのではなく、文字を書いていられれば、志火は少し心が明るくなったのだった。それで、つい、油断した。
 ある日、仕事をあらかたやり終えて、少しぼんやりしていた志火は、日哥の文字は書けなくとも、渡り者の文字で日哥の言葉を書き表せないかという気持ちが起こった。渡り者の文字は音の連なり。日哥の言葉をそのまま連ねればよいではないか。
 そして、つい、それを手近にあった書き損じの竹簡に記してしまったのだった。
 クサマクラ ウミトモイハヌカ アワノウミ……
 渡り者の文字に姿を変えた日哥の言葉。
 面白みのない文字だが、これはこれで可愛げがあった。それを見て、ふと志火が笑んだ時、運悪く、荷運びの役人がやってきたのだった。そして志火の書いた竹簡を見て、役人は志火を殴り飛ばした。志火はその後も酷く殴られ、半日ほど牢に放り込まれることとなった。妻が必死に頼み込んで牢から出してもらい、どうにかそのまま家に戻ることを許されたが、二度と文字書きに呼ばれることはなかった。そうして、文字は志火の目の前から姿を消してしまったのだった。
 それから、畑を耕し、テサキビの種を蒔き、苦手な縄をなって、二十数年の年月が経った。縄をなうのは一向に上手くならなかったが、農人としての仕事には、それなりに慣れることができた。子どもたちも巣立ち、妻とひっそりとここでこのまま死ぬまで生きるのだ。歌も詠まず、一文字も書くことなく、土と共に。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み