第1話

文字数 1,998文字

 部活が終わると家に帰る途中で自転車を停める。
 平日の夜、私は家と学校の間にある喫茶店でアルバイトをしている。ランチの時間は嵐のように混むこともあるみたいだけど、夜はゆったりとした喫茶店。店内に流れる流行歌、小さなテレビでは野球放送。
 私はここでコーヒーのおいしさを知った。砂糖を入れると酸味を感じるようになり、ブラックで飲むようになった。アイスコーヒーは濃い目に作る。紅茶の葉をお鍋のお湯とホットミルクで温めて濾す特別なミルクティー。生クリームが乗ったココア……。マスターの作る料理もとてもおいしい。ハンバーグや白身魚のフライ、ピラフにカレーにパスタ、サンドイッチ、その中でも私のお気に入りはドライカレー。

 やさしい音のドアベルが鳴り、入って来たお客さまを見ると三井先輩だった。三井先輩、私は水泳部に入部した時から密かに憧れている。お冷とおしぼりを出しながら「いらっしゃいませ。先輩、どうしたんですか?」と思わず聞いてしまう。
「田中がここでバイト始めたって聞いたから来てみたくて」
 な……なにそれ……。めちゃくちゃ思わせぶりなんですけど。
「ありがとうございます。ご注文何になさいますか?」
「ホットコーヒーをお願いします」
 私たちのやり取りを見てマスターが「さっちゃん、休憩取っていいよ。一緒にコーヒー飲んでおいでよ」と言ってくれた。
 マスターのご厚意に甘えて2つのホットコーヒーをお盆に乗せ「私もご一緒していいですか?」と先輩に尋ねた。「え? いいの?」と、先輩はマスターの方を見ながら私に聞いた。「マスターが休憩取っていいよって言ってくださって」そう言うと先輩はマスターにペコリと頭を下げた。マスターはニコニコ微笑んでいた。
 先輩はカバーのかかった本を読んでいる。なんの小説だろうと思って聞いてみると「これ」と中身を見せてくれた。そこには私が見たことない元気な女の子たちの漫画があった。「面白いんだよ。田中も読んでみる?」「あ……、取りあえずいいです」私がブラックのままコーヒーを口に運ぼうとすると、先輩は砂糖とフレッシュをたっぷり入れている。
 なんだかイメージと違うぞ……。
 先輩は泳ぎも速くて、クールで、とにかくかっこいい。
 ギャップ萌えと言うよりこれは……。
 私はちょっと複雑な気持ちになった。

「雰囲気のいい喫茶店だな」
「そうなんです。なんだかほっとすると言うか。料理もおいしいんですよ」
「そうなんだ。じゃあ今度はメシを食いに来るよ」
「私は月、水、金に入ってます」
「OK」
「じゃあ私はそろそろ戻りますね。先輩はゆっくりしていってくださいね」
 自分のコーヒーカップをお盆に乗せて下げ、シンクで洗った。
 なんだか不思議な感じ。先輩ってどういう人なんだろう。今までは私が勝手にイメージを作り上げていただけなんだな。
 私はペーパーナフキンを折りながら、甘いコーヒーを飲んで漫画を読む先輩を眺めた。

 それから私は先輩と話をするようになり、少しずつ先輩のことがわかってきた。先輩は漫画やアニメが大好きなこと。大好きな声優さんがいること。甘いものが大好きなこと(一応自分なりに制限はしている)。水泳が得意なのは球技があまりにも下手すぎてなにか自分にもできるスポーツはないか考えた結果、小さいころから習っていたスイミングは人に比べて劣るということがなかったのでとにかくこれをがんばろうと思ったのだそうだ。

 意外というか思ってたのとちがうというか……。でも泳いでる先輩は相変わらずかっこいい。

 私は先輩に言ってみた。
「今度、私がアルバイトじゃない日に一緒にあの喫茶店に行きませんか?」「いいね」「先輩ともっと話したいです」「俺も田中の話聞きたいよ」「先輩の好きな漫画貸してください。読んでみたいです」「OK。おすすめ持って行くよ。田中は小説が好きなんだろ? 俺にもおすすめ教えてよ」「はい! 持って行きます」

 私の憧れはこれからどんなふうに形を変えていくのだろう。

 初めて一緒にご飯を食べに行った日、先輩が選んだメニューはドライカレーだった。
「私、ドライカレーが1番のお気に入りなんです」「そうか」「でも今日はちがうの食べようかな……」「食べたいの食べろよ」私は和風ハンバーグセットにした。2番目のお気に入りだから。テーブルに運ばれてきた和風ハンバーグセットを見て先輩は「うまそう! 今度はそれにしよ!」と言った。食べ物の好みは似ているかもしれない。

 ちがうところと似たところ。いろんな発見ができることが楽しくなってきた。先輩の食後の飲み物にはココアを勧めてみよう。私はロイヤルミルクティーにしてみようかな。
 おいしそうにドライカレーを頬張る先輩を見ながら私はそんなことを考えた。

 そして数年後、先輩がwebで小説を書き始め、私はガチのアニメオタになるなんて、その時の私には想像もつかない未来なのだった。
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