プレシャス・オパール
文字数 2,000文字
ふと気が付いた頃には、其処 は薄暗い木造建築で、黴臭く埃っぽい上に窓も無いという酷く歪 な構造をしている。正方形の狭い廊下の中央には下の階へと続くのであろう古ぼけた階段が設置されていて、壁沿いにはボロの扉が三つほど。その内の一つは二畳程度の狭い和室、もう一つが理科室のような佇まいの広い洋室であったが、何故か『使用禁止』のテープが巻かれた男性用の小便器がいくつか置かれていた。
「これはまだ普通の
そこは四畳半ほどの和室で、奥へと続くのであろう襖 が二箇所ほどあったが、どちらもぴったりと締め切られている。他人が入ってきても気にせず乱暴を続ける女性や、それを無視する案内役を見て、私はここを切り取られた異空間であるように感じていた。
どうして、この異様な光景を自分も含めて誰も止めないのか。どうして、私は乱暴されている青年に目を奪われているのか。理解しかねる状況を前に、私は『この青年を救いたい』と考えていた。
暫くすると同室の女性は満足したらしく、汚れた青年を足蹴にすると、案内役に向かって「せっかくだから新人君にも経験させてやりなよ」と、湿気でうねっている使い込まれたノートを差し出した。開かれたノートにはびっしりと予定表らしきものが書かれていて、女性は「私が予約していた残りの一週間は君に譲るからさ」と備え付けられていた細めのマジックで未知の名称に取り消し線を付け加えた。
案内役曰く、この部屋にいる青年には、基本的に『命を奪うこと以外は何をしてもいい』らしい。ただし、青年に優しくするような行為は罰則に科されるからお勧めしないとのことであった。しかし、そんな話は端 から興味などない。既に私は青年と共に、この異空間から脱出しようと決意していたからだ。
翌日、私は例の和室へと向かった。青年は先日の疲れが抜けていないのか、粗雑に置かれた煎餅布団の上で無気力に倒れ込んでいた。しかし、扉の内鍵が閉まる音には敏感らしく、はっと起き上がって部屋の隅へと這いずってゆく。そこに私は足音を立てずに近付いて、怯えて縮こまる青年を優しく抱き締めた。
「もういい、こんな悪夢は終わりにしてしまおう」――私が捻り出した精一杯の言葉と行動に、青年は驚いたように目を見開いた。
青年の首には赤と青のグラデーションを使って何かしらの計測を行う首輪型の機械が取り付けられているが、案内役の言っていたことが真実であれば、まだ希望を捨てる段階には来ていない。私が暮らす本来の世界に戻ってしまえば、こんな首輪など――よしんば、それが自爆装置の類 であったとしても――簡単に解体できてしまうからだ。
何を理由に着けられたか分からない首輪だが、どんな計測機器であれ、恐ろしく悪趣味なものであることには変わりない。メーターを青色から中央に座する黄色の位置へと動かした青年は、冷え切った身体から出ているとは思えないほど温かな涙をはらりはらりと零していた。
計画の決行には、少々ではあるが時間を要する。脱出に必要な最短経路を算出するまでは、青年を心ゆくまで休ませることにした。固く閉じられていた襖の先には必要最低限のものが置かれた給湯室やユニットバスに繋がっていたので特に困るようなこともなく、その間に青年も自らの欲求で身綺麗にしたりと、無口なりに努力する性格へと変化していった。
そして、予約の最終日から数えて前日となる深夜――ついに青年との脱出劇を遂行する時が来た。しかし、私の心配など無用だったかのように部屋の外は静まり返っていて、電灯もぱちぱちと明滅を繰り返している。それでも安心はできないと慎重に出口まで向かっていったものの、やはり誰一人として現れることはなかった。
そうして蹴破った扉から映し出された風景は、室内と比べて極度に明るく、また、南極にある氷河に類似していた。そこかしこでどっしりと構える氷河の一つにこの木造建築が建っていたということを、私はこの瞬間になってようやく認識したのである。
異様、異常、異相。真綿のように軽い青年を抱えて、私は恐怖に駆られながら氷河の上を走り続けた。走って走って、冒涜的な脅威から逃げ切ることを祈り続ける。最後は鈍重な歩みに強い光が纏 わり付 いて、引っ張られるように私は
結局、私は青年を救えたのであろうか――鮮明すぎる不思議で奇怪な夢の記憶に座ったままウウンと唸っていると、太腿の辺りに何かが当たって視線を向ける。
そこには手にした覚えのない、オパールをあしらったチョーカーが置かれていた。
其処
にいた。「これはまだ普通の
住居
さ。最後の一つはそれらと違って特別な部屋なんだ」と、いつの間にやら隣に立っていた案内役らしき人間がドアノブに手をかける。昔ながらの丸いドアノブが回されて開かれた扉の先には、さも当たり前のように乱暴を働く女性と、それを声も出さずに耐え忍ぶ美しい顔立ちの青年がいた。そこは四畳半ほどの和室で、奥へと続くのであろう
どうして、この異様な光景を自分も含めて誰も止めないのか。どうして、私は乱暴されている青年に目を奪われているのか。理解しかねる状況を前に、私は『この青年を救いたい』と考えていた。
暫くすると同室の女性は満足したらしく、汚れた青年を足蹴にすると、案内役に向かって「せっかくだから新人君にも経験させてやりなよ」と、湿気でうねっている使い込まれたノートを差し出した。開かれたノートにはびっしりと予定表らしきものが書かれていて、女性は「私が予約していた残りの一週間は君に譲るからさ」と備え付けられていた細めのマジックで未知の名称に取り消し線を付け加えた。
案内役曰く、この部屋にいる青年には、基本的に『命を奪うこと以外は何をしてもいい』らしい。ただし、青年に優しくするような行為は罰則に科されるからお勧めしないとのことであった。しかし、そんな話は
翌日、私は例の和室へと向かった。青年は先日の疲れが抜けていないのか、粗雑に置かれた煎餅布団の上で無気力に倒れ込んでいた。しかし、扉の内鍵が閉まる音には敏感らしく、はっと起き上がって部屋の隅へと這いずってゆく。そこに私は足音を立てずに近付いて、怯えて縮こまる青年を優しく抱き締めた。
「もういい、こんな悪夢は終わりにしてしまおう」――私が捻り出した精一杯の言葉と行動に、青年は驚いたように目を見開いた。
青年の首には赤と青のグラデーションを使って何かしらの計測を行う首輪型の機械が取り付けられているが、案内役の言っていたことが真実であれば、まだ希望を捨てる段階には来ていない。私が暮らす本来の世界に戻ってしまえば、こんな首輪など――よしんば、それが自爆装置の
何を理由に着けられたか分からない首輪だが、どんな計測機器であれ、恐ろしく悪趣味なものであることには変わりない。メーターを青色から中央に座する黄色の位置へと動かした青年は、冷え切った身体から出ているとは思えないほど温かな涙をはらりはらりと零していた。
計画の決行には、少々ではあるが時間を要する。脱出に必要な最短経路を算出するまでは、青年を心ゆくまで休ませることにした。固く閉じられていた襖の先には必要最低限のものが置かれた給湯室やユニットバスに繋がっていたので特に困るようなこともなく、その間に青年も自らの欲求で身綺麗にしたりと、無口なりに努力する性格へと変化していった。
そして、予約の最終日から数えて前日となる深夜――ついに青年との脱出劇を遂行する時が来た。しかし、私の心配など無用だったかのように部屋の外は静まり返っていて、電灯もぱちぱちと明滅を繰り返している。それでも安心はできないと慎重に出口まで向かっていったものの、やはり誰一人として現れることはなかった。
そうして蹴破った扉から映し出された風景は、室内と比べて極度に明るく、また、南極にある氷河に類似していた。そこかしこでどっしりと構える氷河の一つにこの木造建築が建っていたということを、私はこの瞬間になってようやく認識したのである。
異様、異常、異相。真綿のように軽い青年を抱えて、私は恐怖に駆られながら氷河の上を走り続けた。走って走って、冒涜的な脅威から逃げ切ることを祈り続ける。最後は鈍重な歩みに強い光が
現実
へと帰ってきたのであった。結局、私は青年を救えたのであろうか――鮮明すぎる不思議で奇怪な夢の記憶に座ったままウウンと唸っていると、太腿の辺りに何かが当たって視線を向ける。
そこには手にした覚えのない、オパールをあしらったチョーカーが置かれていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)