うたうたい、2
文字数 1,900文字
二
「何で知ってんの?」
カレーを二皿はさんで向こう側。熱さにおそるおそる口を近づける動きが止まる。
「ん?」
「あの歌」
ああ、とうなずくと、そっと口に運びなおす。でかい。いや、一口がでかい。熱いんだったら一口量を減らせよ。何「私猫舌なんで」ってかわいこぶってるんだよ。口の端から意地汚い食欲がはみ出てるんだよ。
「なんで?」
「いや、こっちが聞いてるんだけど」
「んー、いい歌だから?」
「答えになってない」
その口の端が汚い。僕はため息をついた。
相変わらず人の話を聞かない。いつだってお互い一方通行だ。自分のしたいようにする。そのために互いが存在するかのようだった。だからきっと、いくらでも代わりはきく。二人ともたまたまここに居合わせたに過ぎない。
「アンコール?」
「調子乗んないでくれる?」
笑った。あどけない笑顔は、やっぱり汚い。気付くと頭痛は遠のいていた。今は微かに余韻を感じるくらいだ。
食事を終えると勝手に下げた食器を洗い始める。水音。その合間からあの歌が聞こえた。聞きやすいようにわざと大きな声で歌っているようだった。
「・・・・・・歌詞あったんだ」
つぶやくと、向こうでうなずく姿が視界の端をかすめた。
鼻歌を歌う母の足元をお気に入りの絵本を抱えて行ったり来たりしていたあの頃。
テーブルに肘をつく。口元を手のひらで覆うと、部屋の隅を見やった。なるべく何も考えないようにする。ゆっくり息を吸って、吐いて。心を介さないように。間違っても琴線に触れないように。大きく息を吸う。
初めて知る歌詞。それは「あなたのいる幸せ」をまっすぐに歌った歌。
あの時、母はそんな歌を口ずさんでいたんだ。あの歌に、僕も父も包まれていたんだ。僕は護られていた。大きな父と優しい母に。だから今、ここにいるんだ。
能天気な歌声。僕は部屋の隅を見続ける。じっと波が過ぎ去るのを待つ。たった二人分の食器。片付けるにしてはずいぶん長い事、水の音がする気がした。
思えば自分のしたいようにしていたのは僕の方だった。自分の境遇を嘆いて、けれども弱みを見せないように虚勢を張って。人にぶつかっても謝ることもしなかった。自分だけが不幸だと思い込んでいた。自分の事しか見ていなかった。周りに生かされていること。許されてきたことにようやく気づき始める。
「見つけた」
隣町の公園。そのドーム状の遊具の中で丸くなっている姿を確認する。
冬も終わりがけ、梅の花が咲き誇る。ただ桜まで届かない気温は、外で過ごすにはまだ寒い。
「……」
「いけないんだ」
声をかけるが、あいつは中で体育座りをしたまま動こうとしない。この遊具自体、側面に二つ穴が空いているだけで、他に入口がない。空いている穴も子供サイズだ。まさか僕は通れない。よく入れたな。入ろうと思えたな。絶対無理だろ。
「ほら、帰るよ。よくもこんな寒い中……。体調崩したら君のせいだからね」
「……」
返事はない。
「おーい」
「……」
やっぱり返事はない。
仕方なくその場に座り込むと、曇天を見上げた。久しぶりに見た空は、灰色ながらも明るい光をお腹いっぱいにためこんでいるかのよう。大きく息を吸うと、静かに吐き出す。声は、そのついでに出たに過ぎない。
それは、いつか母が口ずさんでいた、こいつが歌っていた歌。
それは「あなたのいる幸せ」をまっすぐに歌った歌。
かくしきれない感情。雨はいつまでも続かない。寒さもいつまでも続かない。雲もいつまでもそこにいない。いずれは止んで、溶けて、光が滲み出す。そのことに気付くためには、何より
誰かが、必要だった。
誰か、自分を見てくれる人が。
いつだって指さして、自分の存在を認識し続けた人がいたから、僕は僕と向き合うことが出来た。自分を見失わずに済んだ。「それ」に代えはきかない。僕を見つけたのは他の誰でもない、こいつだった。
どうやら僕は、思っていたよりも不幸ではないみたいだ。
衣擦れの音がした。小さな穴から顔をのぞかせる、その目が潤んでいる。
「ほら帰るよ」
早くしないと置いていくと言うと、あわててやつはその小さい穴から出ようとした。ところが、
「あれ? あれ?」
「・・・・・・。……ウソでしょ?」
出られないという。だからどうやって入ったんだって。
ああでもないこうでもないと模索する僕たちは、傍から見ればとんでもないまぬけで、
「……抜けない」
バカみたいに笑った。
雲がゆっくりと動いていく。暖かな日差し。明るい光が僕たちを照らした。