「心配」は優しさか?

文字数 984文字

 時々、一人暮らしの母に電話をする。特に話すこともないが、声を聞くだけで元気かどうかわかるし、母は極度の心配性なので、私の近況を伝えることで母を安心させることができる。母は子どもを心配することが母親の務めだと思っているのではないだろうか。口を開く度に「心配だ」と言っている。そのくせ、私の仕事のことも、何をしているのかわかっていない。そして、わかろうとしない。一体何を心配しているのだろうか。「心配すること」が優しさだと考えている人は多い。しかし、本当にそうなのだろうか。心配され続けてきた私からすると、逆に「信頼できない」「興味がない」と言われているような気分になる。
 人は心配されると、力が発揮できなくなる。実験してみるとわかりやすい。二人の人が向き合い、一人が腕を肩の高さまで上げる。もう一人が手でその腕を押し下げようとし、腕を挙げている人は腕が下がらないように抵抗する。試しに、腕を下げようとする人は、相手に対して「大丈夫かな?」と心配の想いを持ってやってみると、相手の力が抜けて、いとも簡単に腕が下がってしまう。人は心配されると、本来の力を発揮できなくなってしまい、逆に信頼されると力を発揮できるようになるのだ。
 子どものころ、私は治療法のない特発性血小板減少性紫斑病になった。治癒が難しい病気の診断を受けると、きっと当人やその家族、そして医師も「治ること」を信頼しなくなる。もし身体に気持ちがあるなら、身体にとっては、信頼してくれる人がいない世界に映るのではないか。それはとても悲しいことだ。たった一人でも本気で信頼して受け入れてくれる人がいれば、本来の力を発揮できるようになるのではないか。外から無理やり治そうと意図するのをやめ、興味を持って寄り添い、人の力を完全に信頼してボディワークをしていると、それがよくわかる。信頼には人を変える力がある。
 私の母は一体何が心配なのだろうか? あることないこと、いろいろ考えすぎているようにも見える。結局のところ、私のことが「わからない」から心配してしまうのではないか。もしかすると、母自身が私に受け入れられていないと感じているのかもしれない。結婚して自分が家族に受け入れられることで、それがわかった。とはいえ、私は家族への信頼が過ぎて、妻には「甘え」に映るらしい。たまには妻に「大丈夫?」と 電話をしてみようか。
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