第4章 オノマトペの用法

文字数 3,778文字

4 オノマトペの用法
 『一つのメルヘン』では主格につく助詞も効果的です、「蝶」に対してのみ「が」が用いられ、他はすべて「は」です。「が」が未知情報、「は」は既知情報に関して使われます。例を挙げて説明しましょう。

 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。

 おじいさんとおばあさんが初出の際には「が」、二度目の言及では「は」が用いられています。未知情報に対しては前者、既知情報には後者が使い分けられるからです。

 そう考えると、『一つのメルヘン』の心象風景において、蝶を除くすべてが詩人にとって既知情報だと理解できます。これは初めて目にしたわけではなく、前から知っていた世界です。けれども、蝶には二度目の言及でも「が」がつけられています。それはつねに詩人には新たな存在だと意識されているのです。

 他に助詞では、「に」が多く使われています。これは、冒頭で言及した通り、運動よりも場所を強調します。詩内部の運動は拡散ではなく、集中という傾向が認められます。閉じられた世界を印象づけるのです。これは他動詞の用法からも裏づけられます。自動詞でも意味が通る場合でも、「陽」が「音を立ててもゐる」や「一つの蝶」が「影を落としてゐる」のように、他動詞が使われています。主客の関係が明確で、運動の拡散が見られないのです。

 次にオノマトペの検討に入りましょう。これは『一つのメルヘン』の中でも最も印象深いものです。

 人は、本来、勝手に造語することができません。言葉は他者と意味や用法が共有されていなければ、理解されないからです。突然、ある人が冷蔵庫を「キットケ」と呼んだとしても、他の人は何のことやらわかりません。けれども、オノマトペは例外です。オノマトペは気分や雰囲気を表わす機能があります。日本語は、ハングルほどではありませんが、この語彙が豊富です。ムードを指し示す語ですから、他者の共感を得られれば、新たなオノマトペの創造は誰にでも可能なのです。

 この達人が宮沢賢治でしょう。彼の作品は独創的なオノマトペに覆われています。それが示す対象や世界は独特なものであることを印象づけるのです。

 『一つのメルヘン』の中也は、賢治と違い、独自のオノマトペをつくることはしません。「さらさら」を効果的に使っています。これは、日本文学史において、最も伝統あるオノマトペです。『万葉集』巻一四の三三七三の東歌に「さらさら」が登場します。

 多摩川にさらす手作りさらさらになにそこの児のここだ悲しき

 多摩川にさらす手作りの布のさらさらとして手触り、いまさらながらこの娘はどうしてこうも愛おしいのだろうというのがこの歌の一般的理解です。

 『一つのメルヘン』でも「さらさら」が川をめぐる情景で使われています。ただ、それは非常に高度な用法です。「さらさら」が節の進行につれ、転調しています。一節では光を指す視覚表現、二節は音ですので聴覚表現です。三節には登場しません。蝶がきっかけとして次の大きな転調を用意しています。四節の「さらさら」は水を指し示しています。それは視覚や聴覚に加えて、触覚表現まで同時に表わしているのです。

 確かに、「さらさら」には視覚・聴覚・触覚表現があります。けれども、それは通常一つの記号として用いられます。ところが、中也はこれを転調させ、最後には三重の記号として使ってみせるのです。

 中也の手法を異名同音的転調と呼ぶことができます。オノマトペは転調という技法に非常に威力を発揮します。転調にも、これとは別にさまざまな手法があります。「ころころ」と「ごろごろ」のように、近接するオノマトペを使う転調もあるのです。深みのある『一つのメルヘン』の転調と違い、詩の推進力として働きます。

 中也は、「さらさら」という伝統的なオノマトペを用いることにより、この心象風景が決して現実から遠いわけではないと読者に感じさせます。そこはここかもしれないどこかです。見逃しているだけで、実際にはすぐ間近にある可能性も否定できません。自分お主観をたどると見えてくるかもしれません。他方、賢治は独自のオノマトペを考案することで、その世界の独特さを醸し出しています。そこはここではないどこかです。「かぷかぷ」笑う「クラムボン」がいます。それは主観的には認識できない固有の秩序を持つ幻想の世界なのです。中也と賢治とでは、前者の方が後者よりも世界の主観性が強いことがわかります。

 中也は、オノマトペの効果を熟知していたことは明らかです。『サーカス』(一九二九)では、『一つのメルヘン』と違い、独自のオノマトペを編み出しています。

サーカス小屋は高い梁
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒に手を垂れて
  汚れた木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
  安値いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯
  咽喉が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外は真ッ暗 暗の暗
夜は劫々と更けまする
落下傘奴のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 このオノマトペは空中ブランコの動きを指しています。サーカスは閉じられた非日常的な世界です。それを表わすには、やはり普段使われているオノマトペでは不十分です。今まで聞いたこともないオノマトペがサーカスの気分を物語るのです。

 正直、日本語のオノマトペを印欧語やセム語に翻訳するのは、幼稚ないしインフォーマルとされていますので、骨が折れます。けれども、その対象を指し示す適切な単語や言い回しがないからと言って、それを認知できないのではありません。英語の”pink”や”grey”の和訳は「桃色」や「灰色」です。「赤」や「青」のようにその色を直接示す語彙が日本語にはありません。しかし、それらを他の色と区別できます。また、「悔しい」や「かわいい」にぴったりと合う英単語はなかなか浮かびません。でも、英語話者がその感情を持っていないわけでもありません。

 一・四節で「さらさら」がリフレインされています。これは前述した主景の強調に寄与しています。始点も終点もなく続いている世界と読者に印象づけられるのです。

 中也はリフレインを多用する詩人です。作品によってはそれを感情の高ぶりに使っています。全作品の中で最もリフレインが多い詩の一つである『別離』(一九三四)のの1を引用してみましょう。

さよなら、さよなら!
   いろいろお世話になりました
   いろいろお世話になりましたねえ
   いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
   こんなに良いお天気の日に
   お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
   こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
   僕、午睡の夢から覚めてみると
   みなさん家を空けておいでだつた
   あの時を妙に思い出します

さよなら、さよなら!
   そして明日の今頃は
   長の年月見馴れてる
   故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
   あなたはそんなにパラソルを振る
   僕にはあんまり眩しいのです

   あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 「さよなら」という別れの挨拶なのに、何度も繰り返されることで、昂揚感があります。けれども、だからこそ、それがこらえきれない悲しさや寂しさを湧き立たせるのです。

 中也の詩に音楽を感じるとしても、思いすごしではありません。生前、諸井三郎が彼の詩に曲をつけていたことは知られています。しかし、それだけではありません。ミュージシャンたちが彼の詩を実際にトリビュートしているのです。高橋幸宏はこの『別離』をモチーフに『SAYONARA/サヨナラ.』を発表しています。これは幸宏の代表曲の一つです。また、武田鉄矢の海援隊のヒット曲に『思えば遠くへ来たもんだ』がありますが、この歌詞には以下の中也の『頑是ない歌』(一九三六)からの引用が多々見られます。

思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いずこ

雲の間に月はいて
それな汽笛を耳にすると
竦然として身をすくめ
月はその時空にいた

それから何年経ったことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追いかなしくなっていた
あの頃の俺はいまいずこ

今では女房子供持ち
思えば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであろうけど

生きてゆくのであろうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこいしゅうては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質
と思えばなんだか我ながら
いたわしいよなものですよ

考えてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやってはゆくのでしょう

考えてみれば簡単だ
畢竟意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさえすればよいのだと

思うけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いずこ

 詩と歌詞は違いますから、再構成されていますが、かなり原文が生かされています。なお、『思えば遠くへ来たもんだ』は同名の映画やTVドラマも製作されています。映画版では、武田鉄也主演の他、植木等やあべ静江、乙羽信子等も共演しています。
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