第八章 立ち位置

文字数 7,727文字

第八章 立ち位置

とりあえず、できるところまで畳を拭いたけれど、完全に熔岩流を撤去するのはまず不可能だった。あまりにも拭いてしまうと、畳自体が破損してしまうので、作業はとりあえず中断した。多香子は恵子さんの提案に従い、食堂で懍たちが戻ってくるのを待つことにした。

二人とも何もいわなかった。というより言えなかった。冷蔵庫を開けて、原因を探さなきゃなんて言っていたが、食堂へ到着すると突然やる気をなくして、椅子に座り込んでしまった恵子さんだった。そうなってもしかたないかと思ったので、多香子は何も声をかけなかった。

「お茶飲むか。」

なんて、恵子さんが突然いいだすので、恵子さんもおかしくなったのかと、多香子が不安になったほぼ同時。

ガラッと玄関の戸が開く。

「帰ってきた。」

恵子さんがそう呟いたので、まず助かったんだなという事はわかった。多香子はすぐに椅子から立ち上がったが、

「だめだめ、気持ちはわかるけどさ、質問攻めにしたら水穂ちゃんに悪いから、まずは寝かせてあげることでしょ。」

と恵子さんに阻止されてしまった。確かに理論的に言ったらそのほうが安全だ。

「結果だったら、教えてくれるから、ここで待ってて。お茶でも飲んで、落ち着いてよ。」

恵子さんは、多香子を無理やり椅子に座らせて、自身は冷蔵庫を開けて、お茶を取り出し、グラスについで多香子の前においてくれた。

「ほら、一発やっちゃって。製鉄所ではお酒の持ち込みはできないから、お茶が唯一の安定剤よ。」

そうか。そういうルールがあるんだね。ムスリム集団ではないけれど、ある意味では理由もわかる気がする。百薬の長なんていう大間違いは、一体どこから持ってきた言葉なんだろうか。

多香子は、恵子さんが出してくれたお茶をがぶ飲みした。本当にやけ酒にそっくりだ。一応緑茶だが、多分玉露とかそういうものかな。冷茶であっても、香りの強いもので、酒よりもよっぽど心が落ち着く。

飲み干すとまたたっぷりついでくれた。後で淹れればいいだけの話だから、グイッとやってね、なんて言ってくれなかったら、もう一杯飲もうかなんて気は起こらない気がする。

真偽は不詳だが、玉露を飲んだのは本当に久しぶりだ。こんな高級品、飲むと罰が当たる気がして、とても手が出なかった。でも、一般的に発売されている物よりも、確かに本物は効果を発揮することは確かなようであった。

突然、食堂のドアが開いた。見ると、懍が顔の汗を拭きながらそこにいた。

「先生どうでした?一体何がいけなかったのかしら?あたし、気を付けているつもりなんですけど。味噌汁の具材ですか?」

「落ち着いてくださいよ、塔野澤さん。焦る気持ちはわかりますが、それは無意味なだけですから。」

と、いうことはつまり、恵子さんのほうが焦っていたのか。

「ごめんなさい。多香子ちゃんの世話することで何とか誤魔化そうと思ったけど、先生にはやっぱり敵いません。」

素直にこれを認めた。なんだ、自分はそのための道具か。要は自身が落ち着くための。

「で、水穂ちゃん大丈夫?」

「はい、そこははっきりしています。そうでなければ連れて帰ってきたりはしませんよ。」

「あ、よかったよかった。もうほんと、それだけ言ってくれれば八割くらいは解決できたようなものよね。あとは、原因物質が何だったかですけど、調べてもらえました?やっぱりあたしがいれた、味噌汁の具材が悪かったのかしら?」

「はっきり言いますが、具材ではありません。まあ、言ってみれば味付けをした味噌の劣化が原因です。おそらく恵子さんの事ですから、冷蔵庫にしっかりしまってくれたと思うけど、ここまでの暑さでは、味噌も耐えられなかったのでしょうね。」

つまり、暑さにより、味噌が劣化して成分が変化したということである。普通の人なら平気なんだろうが、水穂には酷であったのだろう。

「そうだったの!わかりました!これからはそこらへんに売っている味噌は買ってこないことにします!今回は責任とって、減給にでもしてください!」

「はい、そうしてください。でも、減給はしませんよ。塔野澤さんが、故意にそうしたわけではないんですから。二度と同じことをしないようにするには、どうするのかを考えるのが先決です。ですから、むやみに罰しても意味がありません。免職ということも一般的な企業ならあるかもしれませんが、この人手不足であり、代理人を探すほうが大変なんですから、そのままいてもらいます。」

ある意味これは、非常に厳しい罰なのかもしれなかった。免職となって、製鉄所を離れれば、恵子さんはある程度罪の意識を忘れることができた。でもそれをあえてさせないで、被害者の食事を作り続けろというのだから、本当に複雑な気持ちになるだろう。

「わかりました。ちょっとあたし、後で八丁味噌の工場とかあたってみます。とりあえず、今日は本当にすみません。」

最敬礼して謝罪する恵子さんであるが、

「僕に謝ってどうするんですか。対象者を間違えていますよ。彼が目を覚ましたら、改めて謝罪をしてください。」

と言われてしまった。しかし、それ以上は彼女を責めることはなかった。学会へ出す資料を書かないとと言って、すぐに戻っていってしまったのである。そういうところも、教育者としては優れていると言える。うじうじとそれを追求することもしないから。

「ねえ、多香子ちゃんタブレット持ってる?」

恵子さんも急に頭を切り替えられるのがすごいと思った。思わずびっくりしてしまう。

「あ、ごめんね。実はね、八丁味噌の工場を調べたいんだけど、あたしときたら、タブレットを壊したままにしていたのよ。もう、忙しくて、修理に出す暇もないのよ。」

「あ、ああ、、、。ごめんなさい。私は、携帯電話しかなくて。」

「そうか。それなら仕方ないわ。じゃあ、他の子に借りなきゃな。誰か利用者さんが帰ってきたら、ちょっと借りてみよう。」

仕方ないという言葉は出たが、持ってないなんて、今時へんねとかそういう言葉を口にすることはなかった。学校では、ほかの生徒が持っているものを持っていないというだけでも、いじめの発端になることも多いのに、そういう切り替えができるという事は、ある意味非常に優れていると思う。これは、青柳先生の教育方針だろうか。

「ほら、掃除再開しなきゃ。あたしももうしばらくしたら、お昼の支度よ。」

恵子さんはそういう事を言っている。本当に切り替えが早いな。でも、恵子さんくらいの重大な任務を背負っている人は、そうしなければいけないのかもしれなかった。ぼんやりしている多香子を尻目に、恵子さんは冷蔵庫を開けて、食材の点検を始め、もしかしたら全部買い替えなければならないかなんて言っている。中には午前中だけ学校に行っている利用者も少なくなく、帰ってきた彼女たちのお昼を作るのは、恵子さんの役目。本当に誰か、もう一人くらい人材が来てくれればいいのになと願わずにはいられない多香子だった。やがて、頭上から大音量で歌丸師匠の声が聞こえてきたので、多香子は退散した。多分そうしなければ、恵子さんも仕事ができないのだろう。

再び廊下の掃除に取り掛かるが、なんだか上の空で、掃除というよりかえって汚れを助長しているような仕事ぶりだった。時々製鉄をしていた男性利用者が、おばちゃん、今日の事はよくあるから、気にしないでいいからな、なんて声をかけてくれるが、気にしないでいいという言葉ほど実現するのに難しい言葉はないと思った。よく、娘が学校でひどいことを言われたと言っていた時、気にしなくていいと言っていたが、かえって娘を追い詰めていたことに改めて気が付く。

本当に、今日の仕事ぶりは、採点すればまさしく最悪だった。中庭の掃除をしたときも、四角い部屋を丸くという言葉がまさしく当てはまるほど、隅の方がゴミだらけだった。それを懍に目撃されてしまい、叱責を食らうかなと思ったが、意外にも懍は明日になったらしっかりと掃除してくださいよ、というだけであった。と、いう事は、今日はよほど重大な災害だったんだろう。多香子が道具を片付けて、恵子さんに挨拶しようと食堂へ行ったところ、まだ歌丸師匠の落語を流していなければいられないほど落ち込んでいた。よく見ると涙を流していた。そうなると、自分の想い人は、自分ではなく恵子さんに渡したほうが良いのかなと思った。

食堂から出て、水穂本人の部屋のふすまの前を通りかかる。声をかけてはいけないと、懍は厳しく言っていたが、どうしても我慢できなくて、ふすまに手をかけてしまった。勿論、声をかけるのではなく、確認だけさせてほしかったのだ。中を覗くと、うすぐらい部屋の中で、静かに眠っていた。幸い、あの布団を汚すことはしなかった。そこだけはまだよかったのかな、と思う。

しかし、この部屋は不思議なものがたくさんあった。こんなに狭い部屋なのに、なんでグランドピアノが設置されているんだろう。艶消しなので、娘が持っていたピアノよりはランクは下がるが、それでもグランドを持っているということは、生半可な気持ちではなかったという事だ。ピアノを習いたがる人は結構増えているが、持っていてもアップライトで十分だし、中には電気ピアノで満足してしまう人もいる。そんな中でグランドを持つということは、多分、中途半端なものではない。隣には、小さな本箱が設置されていて、A4サイズの楽譜が大量に入っているが、大体同じ作曲家が書いたものかということはわかった。勿論、多香子にキリル文字は全く読めないけど。しかし、娘が憧れていた、ショパンとかそういう作曲家のものはほとんどなく、そのキリル文字ばかりなのには驚きだ。キリル文字というとロシア語を表記するためにあるということはわかっていたから、つまりロシアもの、ラフマニノフとかそういうものが好きだったんだろうか、この人は。ちょっとばかり変わったところもあるんだなと思った。

遠くで利用者たちが、夕食を食べようぜ、なんて言っている声が聞こえてきた。もし、利用者と鉢合わせして、青柳先生に通報されたら大変だ。急いで静かにふすまを閉めて、懍に形式的な挨拶をし、製鉄所を出て行った。

とりあえず、バスにのって自宅まで戻ってきたが、明日も製鉄所に出勤できるか不安になるほど、疲れ果ててしまった。と、いうより悲しかった。不思議なもので、恋愛感情が入ってしまうと、物事はすべてややこしい方へ行ってしまう。あの時、食堂で自分の想い人を恵子さんに譲り渡したほうがいい、なんて思ったけど、一人になるとそれは嫌だという感情がわいてしまった。どう見たって、自分があの人を何とかできる状態ではないのだし、恵子さんのほうがよほどふさわしいじゃないかと思うのだが、なぜかそれは嫌だと私が言っている。

あの人を独り占めしたいという気持ちがどうしても消えない。その究極の行為をしたのが、いわゆる「お定さん」なんだろうけど、それに近い感情であった。こんな気持ちは初めてである。離婚したとは言え、一応旦那と呼ばれた人もいたんだからと思っても、抑えることはできなかった。

おかしいね。パパに対してこんな気持ちを持ったことも一度もなかったのに。それとも、ライバルもいなくて、無理やり結婚させられて嫌だという気持ちもあったからだろうか。今時見合い結婚なんて、珍しいと何回言われたことだろう。若いころはそれも嫌で嫌で仕方なかった。父は早く子供をなんて言っていたが、それもただの道具ですか、と言えたらどんなに楽だっただろう。まあ、もう連絡を取っていないので、パパがどうしているかなんて全く知らないけれど、少なくとも、パパに対してこういう気持ちを持ったことは全くなかった。これは確かだ。よく、恋愛をして結婚した友人から、「愛はなかった」とからかわれたことがあったけど、そういう事だったのかなと今では思える。

水穂さん、明日はどうしているかな、まだ、しばらく寝たままでいないといけないかな。できれば、もう一回モニターになって、大石寺に行ってみたかったが、それも実現することはなく、終わってしまうのかな。そういう事ばっかり頭に浮かんだ。

と、そこへドーンという音がして、ザーッと雨が降ってくる。最近の雷はごろごろという鈍い音ではなく、ミサイルが突然爆発するのと同じような音を立てることが多い。テレビでは異常な雷だというけれど、そんな事はどうでもいい。そして、必ずどこかに避難指示が出て大騒ぎになる。これから、日本はそういう国家になっていき、空襲警報と同じくらいの頻度で大雨警報が発令されるかもしれない。

「あたしは悪いことしちゃった。」

と、考え直す。

「あっちゃんごめん、パパの事、大事にしなきゃいけないよね。」

こういうタイミングで落ちる雷は、すべて娘が怒っているのだと解釈するようになっていた。

「でもさ、ママは新しい人生というか、そういう気持ちになったことも確かなのよ。それも、イケナイ事なのかな?」

その通りと言いたげに雷が落ちた。

確かにそうだった。娘が不登校になって、あまりにも気が落ち込んでしまったので、気晴らしに地元の合唱団にでも入ろうかなと思ったことがある。夫は無関心な人なので、何も言わなかった。まあ、何も言わなければ肯定と受け取って、いつも実行してしまっていた。父は馬鹿もの、そんな事をして何になるんだと怒鳴ったが、優しかった母が、多香子もつらいから行かせてあげよう、なんてかばってくれた。父と母のこの反応も、いつもの事だった。しかし、娘にそれを打ち明けると、娘は金切り声をあげて怒り出し、

「ママはひどい!朝子がさんざん音楽の事で学校の先生にひどいことを言われて傷ついたのに、自分は音楽にトライしようなんて!あたしと一緒に学校の先生に抗議してくれるんじゃなかったんだね!」

と怒鳴りつけたのである。

娘が豹変したのもその日からであった。そこから娘が自殺に至るまでは、時間はかからなかった。これはいつまでも消えない心の闇として残っている。娘にしてみれば、唯一の味方であると思っていた自分が、裏切って敵側に通じたのだという感情だったんだろう。でも、その時から始まった娘の家庭内暴力は、かなり強烈なものでもあって、男性であった夫はある程度止めることができたが、自分はとても抵抗できず、されるがままにするしかなかった。ひどい時には、殴られて骨折したこともあった。でも、福祉関係者とかそういう人たちは、大体娘の事をかばうだけで、自分の事については全く声をかけてくれることはなかった。怪我の事を心配してくれる人もおらず、返ってきた答えは「親が悪いのだ」しかない。いくら反省しても、娘は戻ってくれないし、自分は村八分にされるだけである。その矢先、父が娘を物置に閉じ込めるという昔ながらの体罰をした。それにこたえて娘は逝った。遺書を書く、筆記用具も何もなかったので、そういうものは一切なかったが、警察は自殺と判断した。凶器は物置にあった農薬で、迷いもなく一気にがぶ飲みされていた。警察が父に詰問すると、父は、ただ体罰として物置に入れただけで、殺すつもりはなかったと言っていたが、多香子は裏ではそのくらいの気持ちはあると思っている。司法解剖や鑑識の人たちのおかげで、娘が自ら農薬を飲んだことが判明したため、殺人にはならなかっただけだけど。

いずれにしても、その時、私は、娘の事を忘れて、自分の時間を作りたかったと思っていた。勿論それを大事にしようという文献もあるが、娘にとっては、大変な裏切りと取られてしまった。直接謝罪をすればよかったのだが、すぐに切り替えることができなかった。そのせいで、最悪の結果に陥ってしまった。今回も、もしかしたらそうだったかもしれない。パパを忘れて水穂さんに夢中になってしまったら、それこそ娘にとっては大変な衝撃だ。だから、阿鼻地獄の神様にお願いして、雷を落としてもらったのだろう。「私を忘れないで!」と。

ごめんごめん、あっちゃん。ママはこれからも気を付けるよ。

いつの間にか、雷は止んでいた。

さて、頭を切り替えて、明日また製鉄所に行って、今日青柳先生から言われた通りの事を、しっかり実行しなければ、と思い直したその時。

急に、めったにならない携帯電話が鳴り出す。

しかもそれは、杉三たちや、製鉄所の番号ではなく、全く違うものである。間違い電話かな?とも思ったが、もしかしたら変更になっただけかもしれないから、一応出てみることにした。

「もしもし、、、?」

「川野ですが。」

えっと思われる声だった。

「い、今更何よ。」

「今更じゃないよ。伝えないでどうするんだとおもったから、電話したんだよ。お父さんは、絶対に多香子には知らせるなというので、その通りにしていたけれど、今日遺品を整理していたら、そうもいかなくなったから。」

遺品。というとどういうことだと思ったが、その人物はさらに続ける。

「多香子には知らせるな、葬儀にも呼ばなくていいからってお父さんはそう言い続けていたので、その通りに実行はした。でも、老人ホームから遺品の引き取りを頼まれて、今日取りに行ってきたんだが、その中に、膨大なノートが入っていた。中はお父さんの字ではなく、お母さんの字でもない。それをなんでお父さんが持っていたのかわからないが、内容をみて愕然とした。これは君にも知らせるべきなんじゃないかって思ったから、電話したんだ。こんな天気で申し訳ないが、雨があがったら、近々取りに来てくれ。」

最大の雷が落ちた。

「じゃあなに?あたしは、事実上勘当?」

「違うよ。君が出て行ってから、お父さんは非常に後悔してね。亡くなるまでずっと落ち込んだまま生活していたんだ。そして、俺が死んでも、多香子は俺に対して恨みの気持ちしか持たないだろうから、そんな中で葬儀に出させるのもつらいから、無理して出させなくていいとさんざん言っていたんだよ。まあ、お父さんの意思なので、葬儀はその通りに実行させてもらったけれど、ノートが出てきてからはそうはいかない。そういう内容だったんだ。これをもしかしたら、教育委員会とかに持っていけば、朝子を自殺に追い込むことはなかったのかもしれないぞ。おい、聞いているのかい?」

衝撃で一向に頭が回転してくれなかったのだが、とにかく、あっちゃんが呼んでいる。そういう事だ!

「すぐ取りに行くから待ってて!」

「今日は大雨で大変かもしれないから、また別の日でもいいよ。さっきもすごい雷が鳴っていたから、電車も止まっているかもしれないし。」

パパはそう言う優しいところが何よりも長所なのだが、そんな事を考えている暇もない。すぐに電話を切って、部屋を飛び出していった。
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