第8話

文字数 821文字

「純平くん、この話を知ってるかな。バスにまつわる伝説だよ。桜が満開のよく晴れた日の十四時過ぎに、大泉学園駅から朝霞駅行きのバスに乗るんだ。座席は一番後ろの真ん中だ。出発するとね、一番後ろの席から運転手正面の大きな窓から満開の桜が映画を観ているようにガラスいっぱいに映る。当然走っているわけだから流れる映像として目に飛び込んでくる。ある時は花が風で揺れて動き、またある時は花びらが舞い上がり桜吹雪の映画のようになる。道が空いているから信号は青のまま。お客さんを乗せることもなく、降ろすこともなく二十分くらい、桜と自分だけの夢のような時間を体験できるんだよ。まさに条件がすべて揃ったときに体験できるミラクルなんだよ。残念ながら今まで私は体験したことがないんだ。この先、運が良ければそんな時間を体験できるときがくるかもしれないな」とそんな話をしてくれた。
 僕は桜田さんの話にいつの間にか引き込まれていた。
「さぁ、バスの発車時間だ。行くよ」と言われ現実の世界に引き戻された感じだった。

 僕はそのとき、漠然とバスの運転手になりたいーーそう思った。

 タクシーの運転手だったお父さんに相談したらなんて言うだろう……反対するかな。お母さんは、反対するだろうな。そんなことを漠然と考えつつ、しばらくは決心がつかずにいた。そんなモヤモヤした気持ちが嫌で、六年生の卒業アルバムに書き残すことにした。そこに残すことによって、この先、決心がつくような気がしたのだ。

 友達は野球選手になりたいとかサッカー選手になりたいとか、誰もが憧れる夢を記していた。僕はバスの運転手になりたいと、ちょっぴり現実的なことを書いてしまった自分を恥ずかしく思った。そのアルバムをお母さんは見たはずなのに、僕は何も言われなかった。
 敢えて話すこともないーーどんな職業に就こうと僕の人生だ。
(お母さんのことは、ちゃんと守るから安心してーー)
 お父さんの遺影には毎日、そう伝え、手を合わせていた。
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