第7話 審判の日

文字数 2,699文字

 一年半ほど、こんな風にのらりくらりと離婚を交わしていたある日、突然、いつもと違う部屋に連れて行かれた。
 プレートには簡易法廷と書いてあるが、中に入ればいつもの会議机のある調停室と同じだ。
 ただし、今日、私の目の前に座っているのは、30代後半と思しき家庭裁判所の裁判官だった。ちなみに男性。
 その向こうにいつもの調停員が男女二人、調査官が一人、書記官が一人の計5人。机のこちら側には、私がひとりだ。つまり5対1という図式になる。
 いつもと違う雰囲気に、さすがの私も緊張で震えた。
 私が着席すると裁判官が言った。

「ただいまから、離婚調停についての協議に入ります。婚姻生活費に関しては、もう少し調停をしてから審判が降ります」
「はい……」

 これまでの流れが裁判官の口から話され確認を取られた。せっかちな人のようで、イライラとした早口だ。

「金銭面に関しては、具体的な金額がご主人からからすでに提示されていますが、実に常識的、良心的かつ妥当な金額と言えますよ」
「私の常識ではありません」

 私が一言で切り捨てると、裁判官はムッとした口調で続けた。

「まぁ、あなたは毎回、膨大な量の文書で主張を通してきたわけですが……」

 案の定、私に対する心象はかなり悪いらしい。

「あなたは、ご主人の会社に押しかけるという愚かな真似はしませんね?」
「……どういう意味でしょうか?」
「いや、私が以前扱ったケースであったんですが、愛人を作って家を出た挙句、妻子に一切生活費を入れない夫がいたんです。困り果てた妻は、ご主人の会社に押しかけ、給料を妻の自分の口座に振り込んでくれないかと頼みに行った。そこで、社員の不倫を知った会社は、その夫をクビにしてしまったわけです。おかげで夫は無職。収入はゼロです。ゼロの人からお金は取れませんから結果的にその妻は、もらえるはずのお金ももらえなくなってしまったとこういうわけです」

 唖然とした。
 これが本当に裁判官の言うことかと思った。腹が立つよりもまず、私は暗澹たる気持ちになった。
 身勝手な夫の振る舞いに、子供たちを飢えさせないために、何とかしなければと会社に押しかけたその妻に、何か罪があるのだろうか。その妻は本当に愚かなのだろうか。

「……つまり、食うに困り果て、縋るような思いで夫の会社に乗り込んだその気の毒な女性を、救済する制度はない、ということですね?」

 裁判官は少し考えてこう言った。

「……まぁそうですね」
「裁判官であるあなたが、その女性を『愚か』と言うんですか……」

 私は俯き加減に額に手を当て、深いため息をつきながら思わずそう呟いた。
 すると突然、裁判官の怒鳴り声が狭い会議室に響き渡った。

「何だその態度は!! 肘をつくとは何事か!!」

 驚いて顔を上げた。

「ここは法廷です!! みんなあなたの問題について真剣に考えているんだ!!」
「じょ、冗談じゃないわよ! 私以上に真剣な人間がいるなら連れてきなさいよ!! 怒鳴りつければ怯むとでも思った!? あなたのやってることはヤクザの恫喝と同じじゃないですか!! 裁判所の権威は、良くも悪くもここを必要とする私たちのためにあんのよ! あなた方のためにあるんじゃない! これが裁判所の権威だって言うなら、そんなもん糞食らえだ!!」

 気づくと真正面から裁判官に言い返していた。恥を知れと最後に付け加えた気もする。
 部屋にいた、私以外の全員が絶句している。
───し、しまった……。

「…………あ、あー、と、その、糞食らえは言い過ぎました。すみません、撤回します」

 えへへと誤魔化し笑いをしながら姿勢を正した。
 誰も一言も発しない。

 ヤバイ、やってもうた──…。

 私は間違っていないと思う。とても正しく真っ当なことを言っていると、今でも信じている。
 だが、正しいからと言って、誰もが私を褒め称え、味方がどんどん増え、何もかも好転して次々に全部うまくいく───なんてことは一切ないという苦い経験を散々してきたじゃないか。
 むしろ逆だ。生意気な女ほど反感を買うものはない。

 何をやっているんだ私は───…。

 これまでの人生、ずっとお勉強だけに捧げてきましたという感じの裁判官は、書類を手早く束ねながらむうっとした顔で捨て台詞を吐いた。

「ま、あなたみたいな人に何言ってもダメですけどね」

 ちなみに、今までの私の人生で、私に言い負かされた男性は、どういうわけかみんな同じこのセリフだった。
 だが私は、いつか、お前のことだけは何かで絶対に書いてやると固く決意した。
 その後、夫と夫の弁護士が入ってきて、裁判官から審判が言い渡された。

「この離婚調停は不調とします」

 つまり、調停不成立だ。今までと何も変わらないということだ。裁判官を怒鳴りつけても私の世界は変わらない。
 簡易法廷を出て廊下で凹んでいたら、夫の弁護士がつかつかと近づいてきて、苛立ったように私に言った。

「あなたね、もういい加減諦めなさいよ! この人はね、日々多大なる苦痛と焦燥感に責めさいなまれながら、必死でやってるんですよ!」

 考える前に鼻先で「へっ」と笑っていた。

「ずいぶん文学的表現をお使いじゃないですか。じゃあ私はそれに、切り刻まれる不安感ってのをオマケして、ソックリお返ししますよ」

 私の中のアドレナリンの残り香は、私の意思に関係なくまだしっかり仕事した。
 弁護士のおじさんは、ぐぬぬとほぞを噛む音が聞こえてきそうな顔をした。
 そう言えば以前友人に、「あんたの怒りは反射神経だ」と言われたことがあったっけ。

くうぅ──…。

 私はここへきても全く懲りていないわけだが、裁判官を怒鳴りつけた直後では、夫の弁護士などそこらのおじさんにしか見えなかったのだ。
 そもそも、この人は私の味方にはなり得ない。
 だいたい、子供を3人抱えた無職の私と、若い愛人とよろしくやろうとする男ざかり働き盛りの夫では、苦痛と焦燥感など比べ物になるわけがないではないか。私が面白おかしく暮らしているとでも思っているのだろうか。
 何を言っているのかこのおっちゃんは。
 誰にも伝わらないが、私はこう見えて非常に落ち込んでいるのだ。本当だ。
 調停は不成立なので、次回からは裁判に移行することになる。
 まぁ、夫が訴えればということにはなるが。

 ───訴えられた。

 後日、うちに起訴状が届いたのである。
 つまり夫は、離婚裁判に持ち込んだのだ。
 起訴状の中で私は「被告」と呼ばれていた。

 被告かぁ───…。
 なかなかなれないよね。

 このとき初めて、そろそろ弁護士頼むしかないかなぁと思った。
 私という愚か者の暴走機関車を止めるために。





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