第1話 花魁

文字数 2,645文字

 魚屋の半吉は、天秤棒を担いで吉原大門をくぐり、妓楼の竜田川へ向かっていた。
 半吉は魚を売るために竜田川へ行くのではない。格子女郎の加三代が花魁になったと聞き付け、売れ残りの鯛を祝いの品として持って行くのだ。
 竜田川にたどり着いた半吉は、妓楼の若い衆に訪れた訳を話した。若い衆は困惑したが、とりあえず楼主に伝えると言って建物の中へと消えて行った。断られると思ったが、戻って来た若い衆に裏木戸から入るよう命じられた。
 半吉が裏木戸を開けると、貫禄のある年配の男が立っていた。楼主とのことだ。
「お前か、加三代に祝いを持って来たというのは」
「半吉と申しやす。加三代さんが花魁になったって聞きやしたんで、鯛を持ってめえりやした」
 半吉は桶の蓋を開け、鯛を見せる。
「言っちゃ悪いが、お前はしがない棒手振りだろう。それが何で祝いを持ってくるんだ?」
「加三代花魁がまだ格子だった時に迷惑を掛けちまって、そのお詫びを兼ねやして……」
 半吉はそう言ったが、本心は「花魁と会った」と自慢して回りたいだけだった。
 楼主は半吉の顔をまじまじと見た。
「思い出した。お前は加三代に蹴られてのびた奴だな。確か、引手茶屋に払う金が足りなくて、桶伏になったんだよな」
 半吉は気まずそうに頭を掻いた。
「引手茶屋の主人からは、幕府のお偉い方が残金を払ったと聞いていたが、どんな関係なんだ」
「ちょっとした知り合いなんで。そんなことより、鯛を加三代花魁に渡したいんでやすが」
「直にか?」
「へい」
 楼主は腕を組んで考え込んだ。
「少しの間なら、特別に会うことを許す。ただし、魚はここに置いていけ」
 客でもない者に、おいそれと花魁に会わせる訳にはいかない。しかし、楼主は幕府高官と知り合いと聞いて、むげに断ることはできないと判断したようだ。
 半吉は「ありがてえ」と言いながら、満面の笑みで頭を下げた。
「実は、加三代は病でふせっている。長居はよしてくれよ」
「分かってまさ」
 半吉の調子のいい返事に、楼主は不安げな表情を浮かべながらも、禿(かむろ)を呼び寄せた。

 禿は半吉を連れて加三代の部屋の前まで来ると、一人で部屋の中に入って行った。加三代に事情を話しに行ったのだろう。直ぐに部屋から出て来た。
 半吉は禿と入れ替わるように中へ入る。暗くて狭い部屋の中で、加三代は寝ていた。
 加三代が布団をまくり上げ、上半身を起こした。
「狭くて悪いね。その辺に座っておくれ」
 加三代はそう言った途端、激しく咳き込んだ。
 半吉は慌てて加三代の背中をさすろうとしたが、加三代は手のひらを向けて制した。
「労咳なんだよ。触るとうつるかもしれないよ」
 半吉は思わず後ずさった。
 加三代は微かな笑みを浮かべ、「花魁になった祝いに鯛を持って来てくれたんだってね。ありがとうよ」と言って、軽く頭を下げた。 
「止めておくんなせえ。小せえ鯛なんでやすから」
 加三代は半吉の姿をまじまじ見ながら、不思議そうに訊いた。
「何で祝いの品を持って来てくれたんだい?」
「覚えてやせんか。花魁がまだ格子だった時、おでこを蹴飛ばされのびちまった男のことを」
 半吉は、以前新之助と名乗る侍の奢りで、この妓楼で遊んだことがある。その時、半吉の相手をしたのが加三代だった。半吉は、初回は顔を見るだけという高級遊女と遊ぶ場合の暗黙の決まりを守らず、加三代に抱き付いた。拒否されても離さなかったので、加三代に蹴飛ばされて気絶したのだった。
「ああ、あの時の。蹴飛ばして悪かったね」
「いや、アッシが悪かったんで。その時の詫びを兼ねて、祝いの鯛を持って来たって訳でさ」
「律儀なんだね」
 半吉は頭を掻いた。本当は花魁と会いたかっただけだったので、そんな風に言われると、ばつが悪かったのだ。
「贔屓にしてくれた客も多くいたけどね、労咳と分かった途端梨のつぶてさ。死病に罹った遊女に用はないってことだろうよ。だから、こうして会いに来てくれるだけで嬉しいんだよ」
「労咳っていったって、死ぬと決まった訳じゃねえ。元気になる奴もいやすぜ。花魁も直に良くなりまさあ」
「医者にさじを投げられているんだ。あたいはもう永くないさ。死んだら、投げ込み寺に投げ込まれるんだろうね」
 加三代は寂しげな表情を浮かべ、また咳き込んだ。
「いけねえや、横になっておくんなせえ」
 半吉は加三代を寝かせ、布団を掛けた。
 加三代はじっと天井を見ていた。死んだ後のことを考えているのだろう。
 吉原で身寄りのない遊女が死ぬと、遺体は遊廓の近くにある浄閑寺に投げ込まれる。穴に埋められるだけで、供養は全くされない。
 加三代の目からは、一筋の涙が流れ落ちた。
「あたいは陸奥国(むつのくに)にある雫石村の出なんだ。不作が続いてね、口減らしのために吉原へ売られて来たんだよ。まだ十にもならない時だった。それからずっと吉原暮らしで、廓から出たことがないんだ。死ぬ前にもう一度、故郷の岩手山を見たかった」
「花魁になったんだ。きっと、お大尽に身請けされやすぜ。そうなりゃあ、一度くれえ帰ることもできまさあ」
「あたいは生きて廓から出られやしないよ。……そうだ」
 加三代は何かを思い付いたのか、布団の中で手をゴソゴソ動かした。程なくして布団から出された手には、薄汚れた布袋が握られていた。
「このお守りは、おっ母さんが江戸へ旅立つあたいに、『このお守りが守ってくれるからね』と言って渡してくれた物なんだ。せめて、このお守りをあたいの代わりに故郷に帰してやりたい。お願いできるかい?」
「アッシは棒手振りの魚屋ですぜ。とてもじゃねえが、無理ってもんだ」
「いつになってもいいんだ。他に頼める人はいないんだよ」
 加三代に手を合わせて頼まれると、半吉はそれ以上断れなかった。「雫石神社」と書いてあるお守り袋を受け取った。
 加三代は安堵の表情を浮かべ、髪を一本抜いて半吉に渡した。髪だけでも帰郷させたいとのことだろう。
 半吉は髪をお守り袋に入れながら訊く。
「どこに持って行きゃいいんですかい?」
「あたいの実家に持って行ってくれるかい。あたいの本当の名は三加って言うんだ。雫石村で『吉原に売られた三加の家はどこだ』って訊いてもらえば、分かる筈だよ。もし、実家が無くなっていたら、雫石神社の境内に埋めておくれ」
 加三代はそう言うと、安心したのか静かに寝入った。
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