第3話 負の連鎖

文字数 13,665文字

 金満氏のボディガードに就任してから三日目。
 今日は午前中から、金満氏が会長を務める建設会社の本社ビルに同行する。
 例のごとく、街中で目立つのを避けるために運転手の自家用車で出勤する。本社ビルに着いたのは午前十時過ぎ。リアル重役出勤だ。当然ながら、タイムカードを押すことも遅刻届けを出すこともなく、エレベーターに乗って最上階へと直行する。
 着いた先は高級感漂う内装の会議室だった。
「会長、おはようございます」
 まずあいさつをしたのは入り口付近に立っていた秘書の野木。それから、ソファに座っていたスーツ姿の男性五人が次々と立ち上がり、あいさつをした。
 身なりや平均年齢が高いところから見て、五人は会社の役員だろう。その役員たちの誰もが苦々しい表情をしていた。
 役員の中でも比較的若い男性が報告する。
「会長、今日は現場で無断欠勤する者が四割を越えました。これでは納期に間に合わせるどころではありません」
「どうにかならんのか?」
 金満氏は低く威圧的に聞く。
 すぐに答えられる者はいなかった。皆、萎縮してしまっている。
「始業時間は早めたのか?」
「はい」
 役員の一人が答える。
「では終業時間は?」
「限界まで引き伸ばしています」
「日曜日は動かせんのか?」
「無理です。さすがに稼働時間をこれ以上増やすことはできせん。現場周辺の住民から苦情が殺到していますし、行政からの指導も受けていますので」
 金満氏は大きくため息をついた。
「まったく困ったものだ」
 ぼやきながら窓際まで歩き、地上を見下ろす。
「働くしか能のない連中が働かんとは世も末だな。わしが若い頃は、お国の経済発展のために死ぬ気で……ん?」
 突如、金満氏の顔色が変わった。
 役員たちも何事かと窓際に近付く。
「なんだあいつらは?」
「こっちに向かってきているぞ」
「まさか、ここに攻め込むつもりか?」
 確認のため、俺も窓の外を見に行く。
 百人はいるだろうか、作業着姿の男たちがこのビルの入り口に群がっていた。
 この会社、あるいは下請け会社の作業員たちに違いない。
『富裕層を潰せ!』
『法が裁かぬなら我々が裁きを!』
 そう書かれたプラカードがいくつもある。
 一週間ほど前までは、『残業代を払え!』『休日出勤を減らせ!』といった内容だったのが、かなり過激になっている。集団の中には金属バットや鉄パイプなどの鈍器を持っている者も多数見かける。
 先頭の何人かが警備員の制止を振り払い、鉄柵によじ登ろうとしていた。
「おい、警察に連絡しろ!」
 金満氏が叫ぶ。
 言われるまでもなく、秘書が電話をかけていた。
 だが、あの人数を止めるだけの人員をすぐには割けまい。建物内に侵入されるのも時間の問題だ。
 俺はこの場にいる全員に向かって言う。
「裏口から脱出します! すぐに車の手配を」
 この役員たちは今まで労働者から違法な搾取を続けてきた、いわば犯罪集団だ。ここで痛い目に遭ったとしても、それは当然の報いだと思う。だが、今この役員たちを叩きのめしたところで根本的解決にはならない。この国は変わらない。
 俺は、どちらかというと作業員が誤って殺人を犯して人生台無しにしてしまわないために、役員たちを迅速に脱出させた。


 本社を出て以来、金満氏はずっと黙っていた。おそらく、民衆の怒りを直接目にしたのは初めてだったのだろう。その表情からは隠しきれない恐怖がにじみ出ていた。
 そのせいか、昼食後には向こうから第二回目のレクチャーをするよう促してきた。
 良い傾向だ。これなら多少説教めいたことを言っても耳を傾けてくれる。
 三辻さんが食後のお茶を淹れ終えたところで、話を始める。
「防衛の基本が事前策にあることは昨日お話ししました。今日は、その事前策について最も大切なことをお話しします。私が知る限り、身を守るためにできる最善の策です」
「おお、なにかね、それは?」
 金満氏は興味深そうに身を乗り出してきた。
 これでも元学校教師。興味を引く話し方はお手のものだ。
「それは、敵を作らないことです」
「敵?」
「そうです。敵がいなければ戦う必要はおろか、危険を回避する必要すらありません。敵がいない状態というのが最も安全なのです」
 実際には、通り魔的な犯行や不運な事故、天災などの危険性もあるので安心はできないが、今は不要な情報なので伏せておく。
「……確かにな」
 金満氏はお茶を一口すする。
「それで、敵を作らないためにはどうすればいい?」
「常日頃から人の恨みを買わないよう心掛けることです。そして、そのために最も大切なのが人を思いやる心です。人を思いやる心が敵を遠ざけ、味方を増やし、結果的に自らを救うでしょう」
「ふむ……」
 金満氏は小さく声を出しただけで表情を変えなかった。俺の言葉をどう受け取ったのかはわからない。
 思いやりが大切などという話は本来子供にすることだ。七十を過ぎた老人に言って聞かせることではない。自分の息子よりも若い人間にこんなことを言われれば、普段なら反発するだろう。
 だが今は、あんな事件があった直後だ。今まで見向きもしなかった現場作業員たちの怒りに触れ、自らの行いを省みているのかもしれない。
 だとすれば、あまり突っ込んだことは言わない方がいい。会社の業務にまで口出しすれば、さすがに反発は免れないだろう。こういう無駄にプライドが高い人間に対しては、直接言うのではなく自分で気付かせることが重要なのだ。
 最後に、やんわりと一言だけ添える。
「例えば、先ほどのような暴動を止めるには暴動をする理由をなくしてしまうのが一番です。どうすれば彼らが動く理由を失うのか、一考してみてはいかがでしょうか」


 今日はもう外出しないという主からの通達があったので、午後からは自由な身だ。外出許可も取った。本屋に行って、愛に読んであげる絵本を買ってこよう。
 幸い、生活必需品でないためか本の値段は変わっていない。
 何がいいかな。愛が持っている絵本は日本の昔話ばかりだった。視野を広げるためにも西洋の絵本がいいだろうか。それとも現代の絵本にするか。
 そんなことを考えながら自室を出て、門へと向かう。
 途中、庭で金満氏の孫二人がキャッチボールをしているのを見かけた。
 兄、大和(やまと)は小学六年生。
 弟、(たける)は小学四年生。
 二人は現在、学校に通っていない。富裕層と一般層の対立が学校内にも影響し、圧倒的多数である一般層側からの攻撃対象となってしまったからだ。早い話、家がお金持ちというだけでいじめられる。
 勉強に遅れが出てしまわないよう平日は家庭教師から授業を受けているはずだが、今日は休みなのだろうか。
「いっくぞー!」
 大和が振りかぶってボールを投げる。
「うわー!」
 尊はそれをキャッチすることができず、ボールはグローブに弾かれ遠くへ転がっていってしまった。
「なにやってんだ! それくらい捕れよ!」
 それは酷というものだ。二学年違えば体格も筋力もずいぶん違う。もう少し緩く投げてやるべきだ。
「ごめーん」
 戻ってきた尊は謝りながらボールを投げる。
「おい、どこ投げてんだ!」
 ボールは大和の遥か頭上を通り過ぎ、また遠くへ転がっていってしまった。
「馬鹿野郎が! 自分で取って来い!」
 声変わりの前だから大して迫力はないが、まるでヤクザ者のような言葉遣いだ。ろくな教育を受けていないな。
 尊は黙ってボールを取りに行く。
 その途中、大和が「早くしろ!」と尊の足を蹴った。
 もう見ていられない。
「ちょっといいか?」
「はぁ?」
 大和がこちらに顔を向けてくる。
「なんだ、ボディガードかよ。何か用?」
 大人に対する敬意を知らない生意気な態度は置いておいて、先ほどの行いを注意する。
「弟は四年生だろう。少しは加減して投げたらどうだ?」
「はぁ? なに言ってんだ? 使用人のくせに余計な口出しすんじゃねえよ」
 よし、眠らせよう――という衝動を抑えつつ、俺は言葉を返す。
「生憎だが、俺の主は君のおじいさんであって君ではない。君からは一円ももらっていない」
「そんなもん関係ねえよ。あんたはこの家の使用人なんだから、ちゃんと俺にも敬語を使えよな」
 やれやれ。ここまで言われると、怒りを通り越して呆れてくる。
 どうやら、こいつも教育する必要がありそうだ。それに、この人を人とも思わない横暴な性格。愛がいじめを受けているとしたら、こいつが犯人である可能性が高い。
「あ!」
 そばでおろおろしていた尊が突然声を上げた。
 視線を追ってみると、開いた門から中年の男女が入ってくる。
 一瞬、侵入者かと思い警戒したが、すぐに必要ないと判断した。男性の顔が金満氏によく似ている。息子夫婦か。
 二人ともスーツケースを引いている。海外出張から帰ってきたところに違いない。
 夫婦がこちらに気付き、歩み寄ってきた。
「もしかして、君が親父の雇ったっていうボディガードか?」
 四十歳前後と思われる夫の方が聞いてきた。
「はい。太刀河と申します」
 俺は夫婦に向かってお辞儀する。
「それで、ここで何をしているんだ?」
 夫は名乗りもせず尋ねてきた。
 親子で同類か? まあ、この男の名前などどうでもいいが。
「この子たちがキャッチボールしているのを見て、大和君の尊君に対する態度があまりに横暴だったので、注意していたところです」
 俺は正直に言った。子の躾は親の務めだ。できれば代わってほしい。
「ふーん」
 父親は興味なさそうに俺から視線を外し、大和の方を向いた。
「で、お前らはここで何してるんだ? 今は授業の時間だろう? 家庭教師はどこへいった?」
「か、家庭教師は、部屋で待ってるよ」
 大和はためらいがちに答え、目を背けた。
「待ってるだと? どうしてだ? なぜ授業をしない?」
「午後から眠くて集中できなかったんだよ。だから、体育の授業に変更したんだ。ずっと家に中で勉強してたら不健康だろ? だからさ……」
「勝手なことをするな!」
 大和の言葉を遮って、父親は怒鳴った。
「あの家庭教師にいくら払ってると思っている! さぼるんだったら、その分の授業料はお前が払えよ!」
「ご、ごめんなさい」
 弟に対する態度とは正反対、大和は怯えきっていた。まるで役者が入れ代わったみたいだ。
 それにしてもこの父親、大和に似てずいぶんと横暴な性格だ。いや、逆か。大和が父親の性格を受け継いだのか。
 母親はおろおろするばかりで何も言わない。こっちは尊か。
 と、その時。
「なにを騒いでおる?」
 母屋から金満氏が出てきた。
 ちょうどいい、いや、余計に混乱するかもしれない。どっちだ?
「帰ってきたなら早くあいさつに来んか」
「す、すみません」
 母親が平謝りする。
「しょうがないだろ、こいつらがまた悪さしてたんだから」
 言い訳する父親に対し、金満氏は声を荒らげた。
「だったら、ちゃんと躾をせんか! ろくに家にも帰ってこないくせに、口答えをするな!」
「し、仕事なんだから仕方ないだろう」
 父親はバツが悪そうに金満氏から目を背けた。
 また役者が入れ代わった。同じだ。こいつら三代に渡って同じ性格だ。
「仕事仕事と言って、子供をほったらかしにする奴があるか!」
「なんだよ、親父だって昔はしょっちゅう飛び回ってただろう。俺が中学の時なんてほとんど家にいなかったじゃねえか。……あ、今のうちに言っとくけど、俺たち明日から香港に行くからな」
「なんだと!? 今帰ってきたばかりなのにもう行くのか!」
「だから仕事だって言ってるだろ」
 これ以上は聞くだけ時間の無駄だ。もう行こう。
 勝手に去ってしまっては後で何か言われるかもしれないので、俺はおとなしそうな母親に顔を向けた。
「あ、どうぞ、行ってください。家庭の問題ですので」
 無論、そうさせてもらう。


 最寄りのデパートまで徒歩で行き、絵本を買って帰ってくる。
 さすがに二時間近く経って、庭は静けさを取り戻していた。もしかしたら家の中で延長戦が行われているかもしれないが、俺には関係ない。
 部屋に戻ると、すぐにインターホンが鳴った。
 訪ねてきたのは、昨日と同じアイボリーのワンピースに白いエプロン、頭には三角巾という仕事着姿の三辻さんだった。
 少し慌てている様子だ。
「すみません、今日は旦那様の息子夫婦が急に帰ってきたので忙しくなりそうなんです。簡単な食事を用意しておいたので、七時半くらいになったら温めて、愛ちゃんと二人で食べてもらえますか?」
 急な仕事が入るのはボディガードだけではないらしい。
 もちろん、俺は快く引き受ける。
「わかりました。では食事が済んだら、三辻さんが戻るまで愛ちゃんと一緒にいます」
「え、いいんですか?」
「すぐ隣ですから」
 五歳の子を夜一人にしておくわけにはいかない。大人として当然の務めだ。
 三辻さんは嬉しそうに微笑んだ。
「助かります。たぶん九時頃には戻れると思います。お風呂は、わたしが戻ってくるまで待ってるよう伝えてください。もし太刀河さんと一緒に入りたいって言い出したら、ダメって言っていいですからね」
「わ、わかりました」
 さすがにお風呂は困る。五歳となると、身体を洗ってあげたり、髪を洗ってあげたりしなくてはなるまい。やってやれないことはないだろうが、素人が下手に手を出すべきではない。
 俺のぎこちない返事に、三辻さんはクスッと笑った。
 それから、唐突に尋ねてくる。
「太刀河さんは結婚のご予定があったりするんですか?」
「いえ、ありません」
「じゃあ、お付き合いしてる女性は?」
「今のところいません」
「そうですか」
 なんだ? そういうことを女性に聞かれると、どうも意識してしまうのだが……。
 だが、三辻さんは質問の意味を語ることなく、
「あ、ごめんなさい、もう時間なので行きます。愛ちゃんのことお願いしますね」
 と言って、母屋に向かってしまった。


「タッチー、こんばんは!」
 お隣を訪ねると、昨日と同じように愛が元気な声で迎えてくれた。
「こんばんは。今日、ママは仕事で遅くなるって聞いてるかな?」
「うん、きいたよ。でもタッチーがきてくれたから、さみしくないよ」
 俺はこの子のためになら社畜になれる。一瞬、そう思ってしまえるほど眩しい笑顔だった。
 なるほど、これが父親の力の源になっているのか。だからどんなに理不尽でも働ける。
 世の(ことわり)をまた一つ知ってしまった。
「タッチー、それえほん?」
 俺の左手を指して、愛が聞いてきた。
「そうだよ。ここにあるのは昨日全部読んじゃったから、新しいのを買ってきたんだ」
「わーい! ありがとう!」
 おお、ちゃんとお礼を言えるんだな。どこぞの親子より遥かに礼儀正しいな。
 買ってきた絵本は三冊。まずは西洋のお話をということで、『アリとキリギリス』『オオカミと少年』『マッチ売りの少女』を選んだ。どれも結末が残酷ではあるが、世間の厳しさを学ぶ良い教科書となるだろう。
 夕飯前に一冊、夕飯後に残り二冊を読み聞かせてあげた。
 予想はしていたが、愛は悲しそうな顔をした。
「マッチうりのおんなのこ、かわいそう……」
 そう、可哀想だ。
 だが実社会はこの物語と同じくらい厳しい。無茶なノルマを課せられ、達成できなければ自爆営業、あげく精神的に追い詰められて自殺する例など枚挙に暇がない。マッチ売りの少女は現実に存在するのだ。
 そしてこの子もまた、社会の犠牲になろうとしている。そうなる前に救い出さなければならない。
 隣にくっついて座る愛に、俺は静かに聞く。
「愛ちゃんは昨日、おうちに帰りたいって言ってたね。それは、どうしてかな?」
 愛はこちらを向かず、絵本の表紙を見たまま小さく口を開いた。
「ここのひと、みんなこわいから」
 やはり人間関係か。
「誰が一番怖い?」
「みんなこわい」
 愛はそれ以上何も言わなかった。表情が言いたくないと主張していた。
 しつこく聞くと子供の自尊心を傷付けるかもしれない。この件は独自に調べた方が良さそうだ。
 俺は素早く話題を変える。
「ところで、愛ちゃんはママのこと大好きだよね。どんなところが好き?」
「やさしいところ!」
 愛は急に元気になったように声を上げた。何の脈絡もなく話題を変えても子供はついてきてくれるから助かる。
「ママはね、ママはね、せかいでいちばんやさしいんだよ! あ、タッチーはにばんめにやさしいよ。だから、だいすきだよ」
「あはは、ありがとう」
 会って三日で世界第二位にランクインとは光栄だな。
 父親のことは記憶にないのだろうか。


 翌日、午前十時。
 昨日帰ってきた息子夫婦が早くも次の出張に行くと言うので、俺は空港まで二人を護衛することになった。もちろん、金満氏の指示だ。喧嘩をしても無事ではいてほしいらしい。
 夫婦が出国ゲートの向こうに消えるところまできっちり見届けてから、踵を返す。
 この混乱の中、数倍の料金を払って海外へ行けるのは裕福な者だけだ。つまり国際線ゲートの中にいるのは富裕層ばかり。危険の心配はないだろう。向こうに着いてからのことは知らないが。
 その後、ちょうど昼時だったので運転手と一緒に昼食をとり、二人で金満邸へと帰還した。
 金満氏には何の予定もなく、ずっと家にいる。よって俺の仕事はあと一つだ。
 午後のティータイムに第三回レクチャーを行わせてもらう。
「今日は健康管理についてのお話をします。一昨日も申しましたが、いかに安全を確保しても身体が健康でなければ何の意味もありません」
「あの時のことは反省しとるよ。デモやら暴動やらでしばらく出掛けられなったから、つい調子に乗ってしまっただけだ」
 あまりうるさく言うな、と言いたげな口調だ。
 まるで反省してないな。その言い訳は人生で何百回目だ?
 そう言い返したくはあるが、ここで怒らせるわけにはいかないので、嫌味っぽく聞こえないよう慎重に言葉を選ぶ。
「ご理解いただけて幸いです。それなら、お酒のことは心配いりませんね。おタバコも吸われないようですし、食事は三辻さんが管理してくださっているので、これも心配いりません。となると、今の会長に必要なのは運動ですね。健康はもちろん、いざという時に身体が動かせるようにするためにも、定期的に運動を行いましょう」
「そうは言ってもなぁ」
 金満氏は気が重たそうに言う。
「今の状況では散歩には出られんし、ゴルフにもそうは行けん。部屋でできるパターでは運動量が少ないし、どうすればいいのかね?」
 武道であれば老人でもできる運動はあるが、地味なのでおそらく嫌がるだろう。できれば知っているスポーツの方が良い。
「ゴルフ以外に好きなスポーツはありますか? あるいは、昔やっていたスポーツなどは?」
「おお、それなら野球だ。こう見えても昔はピッチャーをやっておったのだぞ。会社のチームでな」
「それは、何歳頃までやっていましたか?」
「四十過ぎくらいまでやっておったよ。本当はもっと続けたかったのだが、仕事が忙しくなってしまってな。だがチームを引退した後も時々バッティングセンターへ行ったり、友人とキャッチボールをしたりしておったから、まだまだ衰えてはおらんぞ」
 会長様は得意気だが、さすがに七十ともなれば衰えは隠せまい。だが、ピッチャーだったなら肩は人一倍強いはず。これはいけるかもしれない。
「でしたら会長、今からキャッチボールをやってみましょう。グローブは持っていますか?」
「ああ、昔使っていたのがまだあるはずだが。君が相手をするのかね?」
「いいえ、私ではありません。会長にふさわしい相手をすぐに呼んできますので、少々お待ちください」
 
 
「で、なんで俺なんだよ?」
 不満そうな顔を向けてきたのは金満氏の孫、大和(やまと)だ。
「弟相手じゃ全力で投げられなくてつまらないんだろ?」
「じいさんだって同じだろ」
「やってみなければわからん。はじめは怪我をしないようゆっくり投げてみて、いけそうなら強く投げればいい」
「しょうがねえなぁ」
 ぼやきながらも、大和はグローブを手に取って庭に出てくれた。
 大和の体格は小学六年生としては少し大きめだ。対して金満氏は、かつてピッチャーだったとはいえ七十歳。見た感じ、ちょうど釣り合いが取れていると思う。
「そんじゃあ、いくぞー!」
 まずは大和が緩めにボールを投げる。
「ほっ」
 金満氏はそれを危なげなくキャッチした。
 そして、投げ返す。
「おぉ!」
 キャッチした大和が目を丸くした。意外といい球だ。
「どうだ、まだまだわしもいけるだろう?」
「会長、強く投げるのは肩が暖まってからに」
 お楽しみのところ水を差したくはないが、身体を壊されては困る。
「わかっとるわい」
 わかってない。
 というわけで、ウォームアップのために二十球ほど軽く投げ合ってもらう。
「そろそろ強めにいくぞー」
「おう」
 大和が振りかぶって投げる。
 六年生にしてはなかなか速い球を、金満氏は難なく受け止めた。
「こっちもいくぞ」
 金満氏が振りかぶって投げる。
 大和と同じくらいの速さだ。
 もちろん、大和も難なく受け止めた。
 これは、いけるぞ。
 金満氏にとっては良い運動になるし、大和のフラストレーションもこれで解消だ。
 キャッチボールを通して二人が仲良くなれば、家庭内の空気が明るくなり、愛も怖い思いをしなくて済むようになるかもしれない。
 少しだけ希望が見えてきた。


 夕方。
 時間が空いていたので外出許可を取り、散歩に出掛ける。ちょっとした気晴らしと仕事を兼ねた散歩だ。
 万が一邸宅が襲撃された際に素早く一家を逃がすためにも、周辺地理を詳しく把握しておく必要がある。もちろん、地図上での地理はあらかじめ頭に叩き込んであるが、実際に歩いてみないとわからないことは多い。
 特に車がすれ違えない狭い道路はまずい。運悪く対向車が来て動きを止められてしまっては致命的だ。長い信号に捕まってしまってもまずいので、なるべくスムーズに遠くへ逃げられるルートを探索しておく。
 それにしても、こうして歩いてみると金満邸がいかに絶妙な位置に建っているかがわかる。
 東西南北どの方向へ歩いても五分程度で大通りか線路に着き当たり、そこは騒音がひどい。金満邸は正方形区画のちょうど真ん中に位置するため、どの方角からの騒音もぎりぎり届かない。それでいて五分から十分歩けば、駅があり、デパートがあり、コンビニも銀行も郵便局もある便利な立地。こんなところに屋敷を構えているということは、一代で財を築き上げた成金ではなく、伝統も格式もある家ということだ。
 それにしては住んでいる人間に品がない。せっかくお金持ちの家に生まれたのだから、もっと心に余裕のある人生を送ればいいのに。
 なぜ、人はこうも急ぐのだろう。そして、急かすのだろう。
 納期とかノルマとか経済成長率とか、そんなものが人の幸せに直結するわけではないのにな。
 西日が眩しくなってきた。そろそろ戻ろう。
 今日は愛と何をして遊んであげようか。絵本ばかりでは飽きるだろうし、何か考えておかないとな。
 金満邸が近付くにつれ、喧騒と異臭が嘘のように収まっていく。邸に入れば別世界のように静かだ。耳に届くのは鳥の鳴き声と木々のざわめきだけ。
 ――いや、声が聞こえる。微かに。
 女の子が、すすり泣くような声。まさか!
 俺は声のする方へ走った。
 庭の隅にある、今は緑の葉で覆われた桜の木の下。
 そこに愛がしゃがんで泣いていた。
 その脇には、おとなしそうな顔の少年が立っていた。
「ここで何をしている?」
 金満氏の孫、大和の弟である(たける)に、俺は聞いた。
「あ……」
 尊は答えず、とっさに後ろに何かを隠した。
「何だ今のは?」
「ご、ごめんなさい」
「それは何だと聞いている」
 俺は尊に詰め寄り、腕をつかんだ。
 すると、ぱらぱらと地面に細長いものが落ちる。
 髪の毛だ。
 長さがら考えて、愛の。
 全身が熱くなった。この腕をへし折ってやろうかという衝動をグッと堪えた。
「これはどういうことだ?」
「ごめんなさい」
「切ったわけじゃないな。抜いたのか?」
「ごめんなさい」
「俺に謝ってどうする!」
「ご、ごめんなさい!」
 尊は萎縮するばかりで、それ以外の言葉を出さなかった。
 落ち着け。怒りに呑まれてはいけない。まずはちゃんと事情を聞くべきだ。
 俺は尊の腕を放し、両肩にそっと手を置く。
「尊、どうしてこんなことをした? わけを聞かせてくれ」
「あ……ぅ……」
 尊は涙目になって口を震わせた。言葉は出てこない。
 馬鹿か、俺は。こんなことを聞いても答えられるわけがない。
 どうせ大した理由なんてない。ただの憂さ晴らしだ。
 上の者に怒鳴られる鬱憤を下の者で晴らす負の連鎖。尊はその最下層にいる。
 ただし、それは金満家の中での話であって、外に目を向ければ、さらに下に位置する者がいる。それが愛だ。
 ただそれだけのことなのだ。愛を憎んでいるわけではない。たまたまそこにいたから標的にした。子供とは、いや、人間とはそういうものなのだ。尊に怒りをぶつけても意味がない。この負の連鎖を絶ち切らなければ何も解決しない。
 そう自分に言い聞かせ、目の前の怯える少年に告げる。
「尊、君の気持ちはわからないでもない。だからといって、こんなことをしていい理由にはならない。二度と、この子には手を出すな」
「は、はい」
「わかったなら、この子に謝れ」
 尊は、しゃがんで背を向けたままの愛に頭を下げた。
「ごめん」
 誠意など籠っていない、叱られて仕方なく謝っただけだ。くだらない。
 いずれは本気で後悔させてやらなければなるまい。
 だが、今は愛を安心させてやる方が先だ。
「もういい。戻れ」
 尊はトボトボと母屋に歩いていった。
 それから、俺は愛のそばにしゃがみ、そっと頭を撫でてやる。
「愛ちゃん、もう大丈夫だよ」
 同時に愛の髪の状態を調べる。いつから、どのくらい抜かれたかはわからないが、あからさまに目立つような箇所はない。まだエスカレートする前の段階だったようだ。
「さっきの子はもういないから、こっち向いて?」
 優しく包み込むようにささやきかけると、愛は顔を上げて抱き付いてきた。
「わああああ、タッチーぃ!」
「大丈夫、もう大丈夫だから。一緒にママのところへ帰ろうね」


 俺は三辻さんに事の顛末を話した。
「旦那様に報告してきます」
 三辻さんは悲しみと怒りが混じった表情で立ち上がった。
「待ってください。報告は俺に任せてもらえませんか? あなたは愛ちゃんのそばにいてあげてください」
「でも……」
「事は尊君だけの問題ではありません。この家全体の問題なんです。ここは任せてください」
 三辻さんに納得してもらい、俺は夕食後に金満氏のところへ行く。
 まず尊の件について話すと、金満氏は申し訳なさそうに返してきた。
「そうか、すまなかったな。尊にはわしから厳しく言っておこう」
 だが、それだけで終わらせるわけにはいかない。
「会長、尊君の行動は大和君の日頃の高圧的な態度が引き金になっています。尊君だけが悪いわけではありません。どうか、それをご理解ください」
「ふむ、そうだな。大和にも言って聞かせんとな」
 あの性格ではあるが、大和はまだぎりぎり反抗期の手前だ。今なら改善の余地はある。
 問題はその次、兄弟をまともに教育していない息子夫婦、さらには息子をまともに教育してこなかった金満氏自身への言及だ。しかし、今これ以上言うのはまずい空気だった。
 すでに金満氏は孫たちの非を認めている。引き際を見誤れば、すべてが無に帰す。
 悔しいが今回はここまでだ。
 チャンスはまだある。今はその時を待つ。


 夜十時半頃。隣部屋の扉が開き、数瞬してから閉じる音が微かにした。
 愛を起こさないよう気を付けたのだろうが、俺の耳には届いた。
 窓から外を見てみると、私服姿の三辻さんが母屋に歩いていく。
 金満氏から呼び出しだろうか?
 急な仕事か、それとも尊の件で話をするのか。それにしたってこんな時間に?
 胸騒ぎがした。 
 彼女を一人で行かせてはならない気がした。
 俺は三辻さんの後をつけ、母屋に入る。話をするなら居間か食堂あたりが妥当なはずだが、彼女が向かったのは一階の奥、金満氏の寝室だった。
 俺は死角に隠れ、耳を澄ませる。
 ノックの後、寝室の扉が開く音がした。
「よく来たな。さ、中へ入りなさい」
「あの、ご用件は?」
「それは中で話そう」
「あ、いえ……。できれば、先にご用件を」
「そう警戒するな。悪いようにせんさ」
「こ、困ります!」
「真里君、ここは素直になった方がいいぞ。またあの貧乏生活に戻りたくはあるまい」
 そういうことか。

 ――この恥知らずが!

 俺は心の中で叫びつつ、拳の小指側で壁を強打した。
 ドンッと大きな音が鳴り響く。
「な、なんだ!?
 金満氏の狼狽える声。
 なぜだ? 
 なぜそうやって自分の欲望を押し通すことばかり考える? 
 なぜ平穏を壊そうとする? 
 せっかくうまくいきかけていたというのに、そんなに平穏が嫌いか? 
 だったら、俺がお前の平穏をぶち壊してやろうか!
「おい、そこに誰かいるのか?」
 返事に代わりに、もう一度壁を叩く。
 今度は三辻さんの小さな悲鳴が聞こえた。
 おかげで我に返る。
 落ち着け、事は未遂だ。でなかったら即刻眠らせるところだが。まだだ。まだ、あいつには利用価値がある。
 俺は鉄の意思を以て無表情を繕い、二人の前に姿を晒した。
「た、太刀河君? どうしたのかね、こんな時間に?」
「会長こそ、どんな用件でこのような時間に彼女を呼び出したのですか?」
「わ、わしは尊の件で、真里君に謝罪しようと思ってだな」
「そうですか。では私も立ち合いますので、どうぞお話ください」
 促すと、金満氏は手をぶんぶんと振って後退りした。
「い、いや、話はさっき済んだところだ。二人とも、もう戻って構わんぞ」
 この期に及んで……まあいい。
「かしこまりました、会長。では、おやすみなさいませ」
 俺はうやうやしく礼をし、金満氏が寝室に退避するのを見送った。
 後に残ったのは静寂と沈黙。
 俺は、呆然と立ち尽くす三辻さんの手を握った。
「戻りましょう」
「は、はい」
 ふらふらと足取りの定まらない三辻さんの肩を支えながら、宿舎まで連れていく。
 靴を脱ぎ部屋に上がった途端、三辻さんはガクンと床に膝を落とした。
「ごめんなさい……」
「いえ」
 その場にしゃがみ、彼女の肩を支えてやる。そうしなければ、上体まで床に崩れ落ちてしまいそうだった。
 無理もない。ついさっき、あの肥満老人の愛人にさせられるところだったのだ。
「太刀河さん!」
 三辻さんが胸にすがり付いてきた。そして、嗚咽混じりの声を出す。
「わたし、明日からどうすればいいんでしょう? もうここじゃ働けない。でも、他に行くところなんてない。こんな暴動続きの中じゃ仕事もアパートも見つかりっこないし、いったいどうすれば?」
 真っ先に生活のことを考えるところは、やはり母親だなと思う。独り者の俺のような感覚で仕事を辞める決断はできない。大切な娘との生活のために。
 だからこそ金満氏はそこにつけ込んだ。ここを放り出された彼女たちが、まともに生活していけないことを知っているから。
 三辻さんが俺の胸から手を離す。
「ごめんなさい、いえ、ありがとうございました。助けていただいて」
 困っている知人を助けるのは当然のことだ。だが、俺にできるのは目先の危険から守ってやることだけで、その後の生活保証まではできない。
 金満氏にはそれができる。金を持っているから。愛情も慈悲も品位もない欲の塊のような人間でも、金さえ持っていれば人を弄ぶことができる。悲しいが、それがこの社会の現実だ。
 俺は、いったい何から何を守ろうとしている? 少なくとも暴動から金持ちを守るためではない。彼らに守る価値などない。
 このまま暴動騒ぎが長引けば国そのものが衰退してしまう。そうなれば最も困るのは蓄えのある金持ちではなく、三辻母子のような経済的弱者だ。
 俺が守りたいのは彼女たちのような人間なのだ。だからボディガードという立場を利用して政財界に影響力を持つ金満氏を改心させようとした。
 そうして四日間、俺は上手くやっていた。この短い間に金満氏の信頼を得て、話を聞いてもらえるようにまでなった。――つもりだった。
 だが、現実は違った。あの老人は俺の話など聞いてはいなかった。人から恨まれないようにという言葉も、思いやりが大切だという言葉も、まるで理解していなかった。俺の言葉に納得する振りをしながら、孫の行いを謝罪し叱っておくと言いながら、頭の中では三辻さんを手込めにする算段をつけていたのだ。
 こんなぬるいやり方ではダメだ。このままでは死ぬ、というくらいの危機感を植え付けなければ。
「太刀河さん?」
 三辻さんが不安そうな目で俺を見ていた。
 そうだ、まずはこの人を安心させる方が先だ。
「三辻さん、俺があなたと愛ちゃんのことを守ると言ったら、もう少しここでがんばれますか?」
「え?」
「金満氏はさっき俺に見つかった時、自分のしたことをごまかしました。つまり、なかったことにしたかったんです。だったら、こちらもなかったことにして堂々と居着いてやりましょう」
「でも……」
 三辻さんは両手で自分を抱き締めるようにして、視線を落とした。
「怖いのはわかります。ですが、ここを出て路頭に迷うよりは、俺に賭けてもらった方が安全な可能性は高い」
 そう、これは賭けだ。上手くいく保証なんてどこにもない。
 それでも、混迷の中を当てもなく彷徨うよりはいい。その先で待っている生活は、似たり寄ったりの地獄でしかないのだから。
 三辻さんが顔を上げる。その目には疑問と不安、それから、ほんの少しの希望が入り交じっていた。
「太刀河さんは、何をするつもりなんですか?」
「俺の目的は、この歪んだ社会構造を変えることです。そのためにまず、この金満家を変えます」
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