第5話 人質

文字数 12,562文字

 俺が今までに経験してきた武道は、空手、剣道、合気道、居合道の四つだ。このうち、居合道は一年程度かじっただけの初心者なので除外するとして、残り三つの中で最も得意なのが空手だ。
 決して才能があるわけではない。単に練習量の違いだ。
 空手は畳一枚分の空間があれば身一つでも練習ができる。道具や練習相手が必須ではない。道場で習ったこと、本や文献で調べたことを、ただ一人で黙々と研鑽(けんさん)できるのだ。
 俺は人付き合いが苦手ということもあり、休みの日などは時間が余っていたため、とにかく練習した。対人練習は道場で行うとして、家ではひたすら基礎の練習を繰り返した。
 実家にいた頃は庭で木刀を振ったりもしたが、就職してアパートに入るとそれができなくなり、練習の比重は空手に偏っていった。
 その結果、俺は『剣術と合気道もそこそこできる空手家』になった。本場沖縄の達人に言わせれば所詮は紛い物だろうから堂々とは言えないが、要するに俺は空手家だ。
 よって金満氏の二人の孫、大和(やまと)(たける)には空手を教えることにする。
 ただし、殺傷能力の高い古流空手の技は教えない。先人が編み出した偉大な技術を悪用させるわけにはいかないからだ。二人には当分の間、スポーツ空手をやってもらう。
 だがその前に、何よりもまず先に、やらなければならないことがある。
 午後四時半。空手の稽古着に着替えた俺は大和と尊を連れて、本日の稽古場である母屋の座敷に入った。兄弟の服装は学校の体操着だ。
「二人とも、ここに正座しなさい」
 尊は不安そうな顔で正座する。
 大和はそんな尊の様子を見た後、渋々ながら正座した。
 一応、金満氏から俺の言うことを聞くよう言い含められているようだ。
 俺も正座し、二人と向かい合う。
「では、これより武道の稽古を始める。まずは礼の仕方だ。先生が先にやるから、よく見ているように」
 俺は正座状態のまま畳に手を着き、礼を行った。
「さあ、君たちもやってみなさい」
 尊は言われたとおり畳に手を着こうとしたが、大和は呆れたような表情で文句を言ってきた。
「なんだよ、それ? 土下座じゃねえか」
 尊の動作が止まる。
 確かに形は似ている。後で説明するつもりだったが、この小僧には先に言って聞かせなければならないらしい。
「大和、これは武道における座礼(ざれい)というものであって土下座ではない」
「どこがだよ? 同じじゃねえか」
「決定的に違う部分が二つある。一つは相手も正座していること。もう一つは、もう一度やって見せるから当ててみなさい」
 俺は再度、座礼を行った。
「やっぱり同じじゃねえか」
「では、次は先生の目を見ているように」
「はぁ……」
 大和はため息を付きつつも、言うとおりこちらの目を見据えてくる。
 俺もまた大和を見据えたまま、三度目の座礼を行った。
 そして問う。
「君にはこの礼が土下座のように見えるか?」
「ぅ……」
 今度は伝わったようだ。
「座礼と土下座の最大の違いは視線だ。座礼は、頭を下げつつも決して相手から目を離さない。もちろん、相手の目を見ていては礼が浅くなってしまうから、見るのは膝の辺りになるが、それでも、こちらが無防備ではないことは伝わる。いついかなる時も油断しない。それが武道家というものだ。わかったならやってみなさい」
 さすがに口答えする理由を失ったのか、大和は黙って礼をした。
 続いて尊も礼。直後、断りもなく足を崩した。
「先生、足が痛い」
 まだ二分くらいしか経っていないというのに、根気がなさ過ぎる。あるいは、日常生活で正座をする機会がほとんどないからかもしれないが。どちらにしても、愛をいじめた小僧を甘やかすつもりはない。
「我慢しなさい」
 低く威圧的に言うと、尊は不満そうな顔をしながらも再び正座した。
「次に手を着く順だ。座礼する時は両手を同時に着くのではなく、左手から先に着く」
 俺は自分の言葉通り左、右の順で手を着き、頭を下げる。
「そして礼をした後、今度は右手から先に戻す」
 また言葉通りやって見せ、二人にもやってみるよう促した。
 左、右、右、左という順の動作を、大和は間違えることなく行った。しかし、尊は途中でわからなくなったのか、頭を下げたところで動きを止めてしまった。
 そんな弟を兄が罵る。
「おいおい、こんな簡単なこともできねえのかよ」
「大和、人のことを言っている場合ではない。君もできてないぞ」
「はぁ? どこが?」
「気持ちが籠っていない」
「なんでそんなことがわかんだよ? 先生様は人の心が読めるんですかぁ?」
 よくもまあ、こんなになるまで放っておいたものだ。親からちゃんとした教育を受けられず、裕福な生活だけを与えられた子供は、こんなになってしまうものなのだな。
 この子は犠牲者だ。俺が救ってやらなければならない。
 そう自分に言い聞かせ、気持ちを静める。
「心は読めなくても君の言葉遣いでわかる。そもそも、この礼というのが何に対する礼なのか、まだ教えていないだろう?」
「そんなもん、先生に対してに決まってるだろ? 自分に対して礼させてんだろ?」
「それもある。だが、もう二つ意味がある。一つは、稽古をするこの場所を使わせてもらうことに対する感謝の気持ち。もう一つは、共に稽古をする仲間に対する感謝の気持ちだ」
「尊に感謝しろってのかよ?」
「そうだ。尊がいなかった時のことを想像してみろ。先生とずっと二人きりで稽古するんだぞ。そう思えば尊の存在はありがたいだろう?」
「ぅ……」
 大和は言葉を失った。
 小学生としては普通の反応だ。俺くらいになると、先生を独占できるのはありがたいことなのだが。
「さあ、今度は気持ちを籠めてもう一度。尊は、ゆっくりでいいから手の順番を覚えなさい。それから――」
 俺は最も大事なことを言うため、最後の部分を強調する。
「二人とも、先生の言うことがわかったなら返事をしなさい」
 少しの沈黙の後、弱々しくはあるものの「はい」という返事が二つ聞こえてきた。


 あいさつや言葉遣いなど教えるべきことは多々あるが、一度に多くのことは覚えきれないので、礼を済ませた後は庭に出て稽古を行うことにする。
 まずは基礎である正拳突きと受けの動作を俺が前で行い、二人に真似をさせる。スポーツ空手であれば、技を繰り出す際「えい」とか「おす」とか声を出すよう指導するものだが、そういうところまでスポーツをやらせる必要はないので黙ってやらせる。
 蹴り技の練習は省略する。昨今のスポーツ空手では「ここはキックボクシングのジムか?」と思えるくらい蹴り技を重視する流派が多いようだが、本来空

はその名のとおり

技が主体の武道だ。ある程度の基礎が身に付いてから補助的なものとして教えれば充分。
「そう、正拳はまっすぐ突く。まっすぐが一番速く一番遠くまで突ける最強の技だ」
 実際には、技はジャンケンのように相手によって有効か否かが変わってくるので、最強などという概念は存在しない。だが、今は正拳こそが最も重要だと伝えたいので、そういうことにしておく。初心者の指導は、多少真実とは異なろうとも、とにかくわかりやすさが大事なのだ。
 そうして、十五分ほど動作の練習を繰り返したところで、予想通りだんだんと飽きてきたようなので、そろそろフラストレーションを解消させてやることにする。
「二人とも、これを膨らませてくれ」
「なんだこれ?」
「浮き輪みたいなもの?」
 大和と尊は興味深そうな顔で近寄ってきた。
「パンチングバルーンだ。次はこれを突く練習をする」
 俺は、空気の入っていないバルーンと足踏み式の空気入れを一人一組ずつ手渡す。兄弟は目を輝かせて、それを受け取った。これがどういうものなのか察しがついたようだ。
 先に膨らませ終わった大和がバルーンに正拳突きを打ち込む。
 バルーンは勢いよく地面に倒れるが、すぐさま元の位置に戻ってきた。
 倒れても元に戻るよう底に重りが入っているのだ。
 続いて、尊もバルーンに正拳を打つ。
「なにこれ、おもしれー!」
 普段はおとなしい尊が珍しく大きな声を上げた。
 それからしばらく、二人は夢中になってバルーンを突いた。
 そして、西日が赤く染まってきた頃。
 外で動き回って服が汚れたので座敷に上がるのは遠慮して、この庭で稽古の終わりとする。
「あ、ありがと、ございました」
 言い慣れていないのか、声を詰まらせる大和。
「……ありがとうございました」
 相変わらず声が小さい尊。
 だが、最後にはきっちり立礼(りつれい)をさせた。立礼も座礼と同じく、相手から目を離さないことが重要だ。それ以外は学校で習う普通の礼と変わらない。
「ありがとうございました」
 当然、俺も礼をする。
 武道とは礼に始まり礼に終わるもの。そこに一方通行はない。生徒は指導者を敬い、指導者は生徒を敬う。礼儀とは互いが互いを尊重してはじめて成り立つものなのだ。


 夕日が西に沈む頃。
 いつものようにお隣の部屋を訪れると、すぐさま愛が腰に飛び付いてきた。
「タッチー、さっきなにしてたの?」
 どうやら庭で行った稽古を見ていたようだ。
「ええと、あれは空手といってね」
「あいもやりたい!」
 おお、まさか愛が武道に興味を持ってくれるとは。まあ、バルーンでの練習は半分遊びみたいなものだったから、勘違いしているだけかもしれないが。
「ねえねえ、あいにもおしえて!」
 こう言われて拒む理由はない。
「じゃあ、ちょっとだけやってみようか」
 俺は愛に正拳突きの打ち方を教える。それから、部屋にあったビーズクッションをパンチングミットのように構え、打たせてやった。
「えい! えい!」
 声を出すよう言ってはいないのだが自主的に声を出し、ポスッ、ポスッ、とクッションを突く愛。
 当然ながら力は大和や尊より遥かに弱いわけだが、すごいのはその集中力。一分、二分と経っても止まる気配はなく、延々と左右のピストン運動を続ける。
「えい! えい! えい! えい!」
 もうじき三分。肩で息をし始めても、まだ止まらない。しかも速度が衰えない。
 さすがにこれ以上は心臓に悪いので、俺はそっと声をかける。
「愛ちゃん、そろそろ休憩しない? ずっと打ち続けてたら疲れるよ?」
「え? うん」
 愛はハッと我に返ったような表情で腕を下ろした。
 途中から無意識で打っていたようだ。
 まさか五歳にして無念無想の境地に到達するとは――という冗談はさておき、ひょっとしたら、この子も相当ストレスを溜め込んでいるのかもしれない。
 俺が知る限り、愛はこの金満家の敷地から出たことがない。それどころか、尊のせいでこの部屋から出ることさえ安全とはいえない状態が続いていた。これは良くない。
 心配なので尋ねてみる。
「愛ちゃんは、ママがいない時は何してるの?」
「えっとね、おえかきとね、かきとりとね、おりがみと、おそうじ」
「へえ、お掃除してるんだ」
「うん。あい、きれいずきだから」
「そっか。偉いな」
 きっと真里さんの言葉を真似しているのだろう。なんとも微笑ましい。
「じゃあ、〝かきとり〟っていうのはどんなことをしてるの?」
「あ、それはね」
 愛は本棚から一冊のノートを持ってきて、ちゃぶ台の上で開いた。ノートの左ページには綺麗な平仮名、右ページには丸まった感じの可愛らしい平仮名が五十音順に書かれていた。
「こっちがママでね、こっちはあいがかいたの!」
 なるほど、書き取りのことか。
「ちょっと見ていいかな?」
「うん」
 座ってページをめくると、片仮名や数字、それから「三辻愛」と漢字で名前を書く練習をしているのがわかった。さすがに漢字はまだ上手く書けないみたいで字が崩れているが、同い年の幼稚園児と比べても決して劣ってはいない。来年小学校に上がった時、ちゃんと授業についていけるよう勉強させているようだ。さすがは真里さん、どこかの無責任夫婦とは違う。
「愛ちゃんは字が上手だね」
「うん! でもママがいちばんじょうずー!」
「あはは、そうだね」
 この子は何でもママが一番だな。
 当然か。母親以外の人間とほとんど接していないのだから。だが、初対面の時の俺に対する態度から考えて、決して人見知りというわけではない。家から出して外界の刺激を与えてやれば、溜め込んだストレスを解消できるかもしれない。
「愛ちゃん、たまにはお出掛けしたくない?」
「おでかけ?」
「うん」
「う~ん、したいけど……」
 愛は難しそうな表情をした。
「ママがおそとはあぶないからダメだっていってたの」
 やはりそうか。
 愛はもちろん、真里さんも食材を調達しに行く以外ずっとこの家に閉じ籠っているだけに外のことがよくわかっていないようだ。
 各地で頻発する暴動によって治安が悪化してはいるが、だからといってすべての場所や時間帯が危険なわけではない。そもそも暴動参加者が子供を狙ったりはしないので、危険なのは警察の人員不足の隙をついて犯罪を行うチンピラ連中くらいだ。金満家のような富裕層の人間を除けば、昼間近所を出歩くくらいそれほど危険ではない。もちろん、子供には保護者が付いてやることと、この家に出入りする瞬間を暴動参加者に目撃されないよう気を付ける必要はあるが。もう少し早く気付いてやるべきだったな。
「じゃあ、もし危なくなかったら、お出掛けしたい?」
「うん! したい!」
 決まりだな。真里さんに相談して、明日からちょくちょく愛を連れ出してやろう。


 ここに来た頃と比べ、ずいぶん忙しくなった。
 本業であるボディガードを務めながら武道家仲間を探し、家では大和と尊に空手を教え、時間があれば愛を遊びに連れていってやる。教師だった頃もこのくらい忙しかったから、さほど苦ではないが、まったく日本人というのはどうやっても忙しいループに()まるようできているらしい。
 そうこうしているうちに六月に入り、夏の気配が近付いてきた。幸いにも曇りの日が多く、昼間でもそれほど暑くなかったこともあり、仕事も子供たちの世話も順調に進んだ。
 武道家仲間は倍の十人になり、様々な情報やアイデアを共有できるようになった。
 また、しばらくやっていなかった対人練習や他流派との交流により、武道の腕前にもいっそう磨きがかかった。
 愛には一緒に遊ぶ友達ができた。近くの公園でいつも遊んでいる子たちに混ぜてもらったのだ。思ったとおり、愛は人懐っこい性格なので、あっという間に他の子たちと仲良くなることができた。
 大和と尊は、まだ渋々という感じはするものの一応あいさつと返事ができるようになり、言葉遣いも多少は良くなった。厳しく指導しながらも最後は楽しませてやるという飴と鞭作戦のおかげで、表面上の歪みは微かに変化しつつある。
 しかし、これでは遅い。金満氏に影響を与えるほどとなると、最低でも敬語を使わせなくてはならない。ところが、二人とも今まで敬語を使ったことがほとんどないと言う。手早く覚えてもらうには俺が敬語を使ってみせることだが、それでは指導者としての威厳が損なわれてしまう。
 さてどうするかと悩んでいるうちに、重大な事件が発生した。
 大和と(たける)が、二人で家から出ていってしまったのだ。


 不審に思ったのは午後四時半過ぎだった。
 約束の時間になっても武道の稽古に現れなかったので金満氏に尋ねてみるが、心当たりはないという。これはおかしいということで、秘書と運転手と真里さんにも頼んで家中探すも見当たらず。二人ともGPS機能付きの携帯電話を持ってはいるが、電源を切っているらしく位置が特定できない。
 最終手段として門の監視カメラの映像を調べたところ、四時十五分頃に家から出ていく様子が映されていた。
「頼む! 早くあの子たちを連れ戻してくれ」
 金満氏が焦る気持ちはわかる。
 愛と違って、あの二人が外出するのは危険だ。同級生に狙われるくらいならまだしも、暴動参加者に捕まって人質にされる恐れがある。
 全国各地で暴動が始まって、すでに三週間。暴動の標的である富裕層の家族構成くらい調べられていても不思議ではない。中には、なかなか事態が進展しない現状を嫌って無茶な行動に出る人間がいるかもしれない。
「どこか二人が行きそうな場所に心当たりは?」
 俺が質問しても、金満氏はおろおろするばかりで「わ、わからん」としか言わない。
 普段は威張っているくせに非常事態となると混乱して何もできなくなる。責任を取りたくない責任者の典型だ。
「落ち着いてください。では、暴動騒ぎが起きる前まで二人がよく遊びに行っていた場所は?」
「う、うーむ……」
 俺の言葉に少しは冷静さを取り戻したのか、金満氏は首を捻らせながら答える。
「橋の向こうのショッピングモールか、駅前のゲームショップか、大通りのバッティングセンター辺りか」
「では、我々が手分けして探します。会長は絶対に家から出ず、ここで待っていてください」
「わ、わかった」
 監視映像に鞄は映っていなかったから家出ということはあるまい。おそらく、単なる気晴らしだ。
 三週間ずっと家から出られなかったのだから気持ちはわからないでもない。その上、愛が出掛けているのに自分たちは家から出られないことを不満に思ったのだろう。
 だからといって相談もなしにいきなり飛び出すとは……。まったく世話が焼ける。
 ショッピングモールは広いので運転手と真里さんの二人、バッティングセンターは治安が悪そうなので俺(実際、俺の実家の地域にあるバッティングセンターは暴走族の溜まり場だった)、消去法で秘書にはゲームショップに行ってもらう。
 運転手と秘書は自分の車、俺は大和の自転車を借り、それぞれの地点に急行する。
 街中を走りながら、俺は複数の敵との戦いになった場合のシミュレートをした。
 バッティングセンターといえば、武器になる金属バットがそこらじゅうに置いてある危険地帯だ。複数の敵にそれを持たれたら勝ち目は薄い。もちろん、可能な限り戦いは避けるつもりだが、どうしても避けられない場合は非常手段を使うしかない。
 しかし、バッティングセンターとその周辺に兄弟の姿はなかった。
 と、そこで秘書から連絡が入る。かなり焦っているようで声が半分裏返っていた。
『た、太刀河さん、ゲームショップの近くで二人を発見しました。ですが、その、中学生くらいの少年たちに囲まれていて、わたしでは手出しができません。早く来てください!』
「わかりました、すぐ行きます」
 中学生ときたか!


 まだ日没まで一時間以上あるはずだが、曇り空のせいか周囲は薄暗い。
 俺は全力で自転車を漕ぎ、ゲームショップに向かう。正確にはショップ付近の空き地だそうだ。
 相手が中学生なら金満氏を脅すための人質にされるようなことはない。むしろ、狙いは本人たちだ。おそらく、元々同じ小学校に通っていて大和たちが金持ちだと知っているのだろう。小遣いを取られるくらいで済めばまだいいが、腹いせに暴力を振るわれる可能性もある。急がなければ。
 バッティングセンターからゲームショップまでは一キロ程度。五分とかからず現場にたどり着くことができた。
 周囲が塀で囲まれ人目に付きにくい空き地には、十人ほどの中学生らしき少年たちがいた。
 どれもこれも、放っておけば数年後には立派な社会悪になりそうな面構えだ。
 そんな彼らの中心に大和と尊はいた。二人とも地面に尻餅を付き、顔も服もボロボロだった。
 不思議なものだ。あの二人はどちらかといえば敵側の人間だと思っていたのに、こうして痛め付けられているところを見ると平静ではいられないらしい。
 しかし、中学生相手に武力行使をするわけにもいかない。ここは何とか穏便に済ませたい。
 俺は昂った気を静めながら、まずは携帯カメラで現場の写真を撮る。後で責任を追求するためと、この場で駆け引きに使えるかもしれないからだ。
 それから集団に歩み寄る。
「はぁ? あんた誰?」
 最初に気付いた一人が声を上げると、全員がこちらを向いた。
「俺はその二人の保護者だ。もうじき暗くなるから迎えにきた」
 そう言って、さも当然かのように輪の中から二人を連れ出そうとしたが、中学生たちは道を譲らなかった。
「いや、まだ用が済んでねえから」
「おっさん、先帰っていいよ」
 さすがに虫が良すぎたか。
 ならば強気でいってみる。
「君たちは東中学だろう。この子たちに何の恨みがあるかは知らないが、これ以上やるなら学校に報告させてもらう。さっき写真を撮らせてもらったから言い逃れはできない。それでいいのか?」
 高校と違って中学に退学処分はない。どうせ悪さをするのも今日が初めてではないだろうから、こんな脅しは効かないかもしれないが、ダメ元だ。
「報告でも何でもすりゃいいじゃん」
「こいつら金持ちだから相手にされねえよ」
 わかってはいたが悲しいな。まだ中学生だというのに、いつかのチンピラと反応が同じだ。
「つーか、保護者って何? どう見ても親じゃなくね?」
「あのおっさん、お前らの何なの?」
 中学生の一人が兄弟に聞いた。
「せ、先生。武道の先生」
 大和が答えると、途端に中学生たちの表情が強張った。
「武道? 武道ってあれか?」
「空手とか、格闘技?」
「もしかして、このおっさん強いの?」
 好都合だ。これで退いてくれれば。
 そう期待したのだが、見るからにリーダー格といった背の高い男子が、広まりかけた空気を一蹴した。
「関係ねえ。先生だか何だか知らねえが、十人も相手に勝てるわけねえだろ。邪魔すんならやっちまおう」
 その言葉に後押しされたのか、中学生たちは急に殺気立った。
 余計なことを……。
 もう脅しは通じそうにない。戦うしかないのか。
 昔読んだバトル漫画には『複数の敵と戦う時は真っ先にリーダーを叩け。そうすれば他の奴らはビビって逃げていく』などと書いてあったが、実際に上手くいく可能性は低いだろう。リーダーが誰なのかわからない時もあるし、わかっても遠い位置にいれば真っ先に攻撃ができない。仮にちょうど良い位置にいたとしても、リーダーを素早く倒せるだけの力量がなければならないのだから、実現は非常に困難と言わざるを得ない。
 現に今も、あのリーダーらしき男子は集団の奥の方にいるため手が出せない。
 微かな可能性に賭けて、もう一度だけ警告する。
「馬鹿な真似はやめて早く帰れ。十人いても何人かは怪我するぞ」
「だったら、これでどうだよ?」
 リーダー格の男子がポケットからナイフを出す。それに釣られて、もう二人がナイフを出した。
 ゾクリ、と悪寒が走る。三人が出したのは安物の果物ナイフみたいなものだ。あれでこの防刃スーツを貫けるとは思えないが、やはり光り物を前にして恐怖心を完全に抑えることはできない。顔や手をやられる危険性もある。中学生グループの半分はまだ大人とは言えない体格の少年だが、まともに戦うのはあまりにリスクが高い。
 仕方ない、やはりあの手でいくか。かなり卑怯っぽい手なので、できれば使いたくなかったのだが……。
「おい、警察だ!」
 俺は突然、あさっての方向を指して叫んだ。
 実際は来ていないが、中学生たちは一斉に振り向く。その隙をついて、グループの中で最も小柄な男子に狙いを定め、急接近。掌底(しょうてい)で軽く顎を打ち、ふらつかせところで素早く背後に回り込む。そして、首に腕を回し、両の目に指先を当てて、
「動くな! 動くと潰す!」
 連中の一人を人質に取ってやった。
「お、おい」
「マジかよ……」
 中学生たちは途端に動けなくなる。
 だが、リーダー格の男子だけは強気で叫んできた。
「どうせハッタリだろ? やれるもんならやってみろよ!」
 ほう、不良とはいえさすがはリーダーだ。それなりにいい度胸はしている。だが、これを見ても同じことが言えるかな?
 俺は人質にした男子の眼球を、指の腹でそっと撫でてやった。
「あああああ、やめてやめて!」
 人質の男子は大声を上げ、ジタバタと手足を動かす。
 ちょっと触っただけで大げさな。心配しなくても、この程度で失明したり視力が落ちたりはしない。多少充血するだけだ。
 だが、こいつが大げさな反応をしてくれたおかげで、リーダーもすっかり動揺しきっていた。
「わ、わかった! わかったから、もうやめてくれ!」
 俺は眼球から指を離す。が、身体は離さない。
「下がれ。こいつを離してほしいなら、全員立ち去れ。全員の姿が見えなくなったら解放してやる」
 中学生たちは、なす術もなく去っていった。
「すぐに目を洗いに行きなさい」
 そう助言して、約束通り人質の男子も離してやる。
 あとに残されたのは、呆然とこちらを見つめる大和と尊。
 俺は尻餅を付いた二人に歩み寄り、それぞれに手を差し出した。
「立てるか?」
 二人とも大怪我はしていないようで、すぐに手を取って立ち上がった。
 それから、大和がおそるおそる聞いてくる。
「も、もしかして、先生ってすごく怖い人?」
 その問いに、俺はフッと笑って答えてやった。
「ああ、先生は怖いぞ。ただし、悪い子限定だがな」


 金満氏は兄弟の勝手な行動を厳しく叱りながらも、心底安堵した様子だった。
 ついでに、この事件も元をたどれば自分たちが富を占有し過ぎたから起きたのだと反省してくれれば良かったのだが、そんな気配は微塵もなく、翌日には加害者たちの中学校に電話をして猛抗議した。
 結果は中学生たちが言っていたとおり、まともに相手をされなかったらしい。
 公務員とはいえ教員も長時間労働に悩まされる一般層側の人間だ。心情的にそうしたくなる気持ちはわからないでもない。だからといって、こうまであからさまに見て見ぬ振りをするなどまともではない。
 秩序は確実に崩壊し始めている。もはやそれほど多くの時間は残されていない。せめて、今回の事件をきっかけに大和と尊が変わってくれればよいのだが……。しかし、軽傷で済んだとはいえ、あの状態ではしばらく稽古ができまい。別の手立てを考えるしかないのか。
 夕方、そうして自室で悩んでいるところでインターホンが鳴った。
 部屋の扉を開けるとそこには、体操着姿の大和と尊が。
「先生、何やってんだよ?」 
「もう稽古の時間だよ?」
 俺は一瞬、状況が把握できなくて呆然とした。
「先生?」
 尊の声で我に返り、尋ねる。
「もしかして、稽古をするつもりなのか? 怪我は?」
「どうってことねえよ、こんなのかすり傷だし」
 頬の絆創膏に触れながら、大和は強気な口調で言った。
「先生、早く着替えてよ。時間なくなっちゃう」
 あの尊が早く練習したいと急かしてくる。二人とも顔中痣だらけだというのに。
 その心意気に、俺の心は奮えた。
 これぞまさしく怪我の功名だ。どうやら、俺はまだ見放されていなかったらしい。
「待ってろ、すぐに行く」 
 この日、二人は驚くほど俺の言うことを素直に聞いた。そして、驚くほど熱心に稽古に取り組んだ。たった一回の稽古で、それまでの一週間分を上回る成長振りを見せつけてくれた。
 

 心地よい疲れを風呂で癒した後、俺はちゃぶ台の上でノートパソコンを広げる。
 三辻母子は夜九時過ぎには就寝するので、隣に音が響かないよう静かにしなければならない。
 もっとも、俺もここに来てからは十時くらいに寝るようになったから、気を付けるのは一時間程度のことだ。大抵は本を読むかネットを閲覧するかして過ごす。
 金満邸の夜はとても静かだ。母屋からも塀の外からも、ほとんど音が聞こえてこない。
 だから、隣部屋の扉が開けばすぐにわかる。愛を起こさないよう気を付けてはいるようだが、閉開時の音が少なからず聞こえてくる。
 数秒後、コンコンと控えめなノックの音がした。
 トクンと心臓が跳ねる。
 わざわざこんな時間に来るということは、何か込み入った話でもあるのだろうか。
 とにかく、動揺が表に現れないよう気を付けなければ。
 俺は軽く呼吸を整えてから立ち上がり、部屋の扉を開けた。
「すみません、こんな時間に」
 控えめな声を出す真里さんは、ベージュ色の部屋着とも寝間着ともいえる服装をしており、ロングヘアを緩い三つ編みにしていた。石鹸の香りがほのかに漂ってくる。
「少しお話ししたいことがありまして。お部屋、上がらせてもらってもいいでしょうか?」
 それはもちろん構わないのだが、そういうことをはにかむような表情で言うのはやめてほしい。男とはすぐに勘違いする生き物だから。
 だがそんなことは言えるはずもなく、俺は快く返事をする。
 それから、ちゃぶ台を挟んで向かい合った。
「それで、話というのは?」
「お礼を言いたいんです。信さんの言うとおりにしていたら、旦那様から変な視線を感じなくなりました。それに、愛ちゃんにお友達ができたのも信さんのおかげです。尊君も、あの様子ならもうちょっかいは出してこないでしょう。全部、全部、信さんのおかげなんです」
 少し興奮気味に発せられる真里さんの言葉に、俺は謙遜する。
「そんな、全部だなんて……。半分は運が良かったんだよ」
「そんなことありません。わたし、信さんには感謝してもしきれないんです。本当にありがとうございます」
 そこまで言われると、嬉しいのを通り越してこそばゆい。
「でも俺だって、いつもおいしい料理を食べさせてもらって感謝しているよ。それに、愛ちゃんと遊ぶのは楽しいし、本当に真里さんたちがここにいてくれて良かった」
 もし三辻母子がいなかったら、俺のここでの生活はスパイのように孤独で味気ないものだっただろう。実際、俺のやっていることはスパイに近い。そんな中、この二人の存在がどれほど心の支えになったか。
「信さん……」
 真里さんは柔らかく微笑んだ。
「そう言ってもらえて嬉しいです。でも、料理だけでは足りませんから、明日からお洗濯も任せてもらえないかと思って相談に来たんです。どうでしょうか?」
「どうって、いいのかな?」
「はい。最近、信さん忙しそうだから、少しでもお役に立ちたいんです」
 確かに、一週間ほど前から仕事量が増えているから、その申し出は非常にありがたい。  
 ありがたくはあるのだが……。
「でも、下着とかあるから」
「それなら一緒に出してくれていいですよ。お布団もわたしが干しておきます。スーツのクリーニングも買い物ついでに出してきますから、任せてください」
 テキパキとした快活な口調。
 そうだ、真里さんは家事代行の仕事をしているのだ。男性の下着を洗濯するくらいで恥ずかしがる人ではなかった。
「そういうことなら、お願いしようかな」
 答えると、真里さんは嬉しそうに目を輝かせてくれた。
「じゃあ、明日から毎朝八時くらいに取りに行きますので、洗う物はまとめて籠に入れておいてください。お仕事が早い場合は玄関前に置いてくれて構いません。夕方までには畳んでお返ししますね」
 話はそれで終わり、真里さんは明るい表情で部屋に戻っていった。
 変な期待をしていた自分が恥ずかしい。
 でも、人から感謝されるというのは良いものだな。お金では決して手に入らない、人の善意。この暖かな善意が世界中に広まればいいのに。
 いや、広めなければならないのだ。子供たちが安心して暮らしていける未来のために。
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