第1話 フェレンゲルシュターデン現象

文字数 5,746文字

 一人の少女が、スーパーのお菓子売り場で迷っていた。
 どのクッキーにしようかと真剣な表情で悩んでいるようだ。
 後ろ一つ結びの三つ編みにした長い黒髪。
 幼子ながら利発そうな顔立ちをした少女だ。
 名前を蔦木(つたぎ)(あや)と言った。
 彼女は今、小学校の友達と一緒に買い物に来ていたのだが、ついさっきはぐれてしまったのだ。
 それで仕方なく一人で行動している最中だった。
 しかし友達とはぐれてしまって心細いという気持ちよりも、今はお菓子を選ぶことの方が大事になってしまった。彩は大きな瞳を輝かせている。
(どれも美味しそう……)
 彩には好きな物と嫌いな物がはっきりしていた。
 好きになった物は、ずっと好きでい続けるタイプである。逆に苦手なものや興味の無いものは、すぐに忘れてしまうような子供であった。
 そんな彼女が最近ハマっているのがこのクッキーなのだ。
 パッケージに描かれている猫のイラストも可愛らしくてお気に入りの一つだが、何より味が好きだった。
(これに決めた!)
 そして彩が手に取った商品を見て、店員のお姉さんは微笑んだ。
 その視線に気付いた彩は少し照れ臭くなって俯いた。
「彩。こんな所に居たの?」
 背後から声を掛けられて振り返ると、そこには彩と同じ年くらいの少女の姿があった。
 肩口まで伸ばしたストレートヘアが印象的な美少女だ。
 名前は横山(よこやま)美琴(みこと)といった。
 二人は幼稚園からの幼馴染であり親友でもある。
 お互いの家にも何度も遊びに行ったことがある仲なので家族ぐるみでの付き合いもあった。
 今日は、二人で一緒に買い物に来て、美琴の家でお泊りをする予定になっていた。
 なのに気が付いたら一人になってしまっていて、美琴の方こそ不安を感じていたに違いない。
「あはは。ごめん。美琴のこと探していたら、この猫さんクッキーの新作が出ていてね」
 彩は手に持った箱を見せるように持ち上げる。
 すると美琴の顔にも笑みが浮かぶ。
「彩って、猫好きだもんね。でも、家に着けば猫のモモとモカがいるじゃない」
 美琴の言葉を聞いて、彩の頬が赤くなる。
 実は彼女の家では猫を飼っていた。
 しかも二匹もいるのだ。一匹は白猫で、もう一匹は黒猫である。
 どちらもオスの猫だ。
 美琴は、その白猫をモモと呼んでいて、黒猫はモカと呼んでいた。
 もちろん名付け親は美琴である。
 そして、彩は美琴の猫のことが大好きだった。それに美琴の家に行くたびに、猫達は沢山撫でさせてくれる大人しい性格もあって、大のお気に入りとなっていた。
 そんな訳で、彩は猫の話題が出るだけでドキドキしてしまうようになっていた。
 美琴の指摘通り、家に行けば可愛い二匹の猫ちゃん達に会うことが出来る。それは分かっていても寂しさを感じるものだ。
(早く行って、あのふわふわした感触に包まれたいよ~)
 そんなことを思ってしまう。
「そうだね。早く美琴の家に行こうか!」
 そう言って二人は、買い物を済ませると仲良く手を繋いで歩き出した。
 美琴の家に着いた彩は、美琴に猫がどこにいるかを聞いた。
「たぶん。二階の私の部屋だよ」
 答えたのは美琴だった。
 それを聞くなり美琴を急かして早く部屋に行こうと口にする。
 彩にとって一番大切なことは、目の前にいるこの少女と遊ぶことだけど、一刻も早く猫に会いたかったのも事実だ。
 しかし、それを見透かすかのように美琴が言う。
「ダメだよ。まずはお母さんが夕飯にカレーを用意してくれているから、それからにしようね」
 その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
 どうやら、からかいたくて仕方ないようだ。
「そ、そうだね。お泊りさせて貰うんだから、先にご挨拶して、ご飯食べてから遊ぼうか……」
 彩が残念そうにしている姿を見て、美琴がクスリと笑う。
 美琴のお母さんが作ってくれた夕食を食べ終えた後、彩達は早速、猫たちと戯れることにした。
 彩は階段をそっと上がっていく。
 猫が寝ていたことを考えての、彼女なりの配慮だった。
 その後ろ姿を見つめながら、美琴は苦笑いを浮かべていた。
 そして、美琴の部屋の前に着く。
 ドアの下には、キャットドアがあり、猫が出入りできるようにしてあった。
 その後ろ姿を見つめながら、美琴は苦笑う。
 美琴の到着を待って、彩は訊く。
「ねえ。開けて良い?」
 小声で訊かれて、美琴は、それに合わせて小声で答える。
「いいよ」
 その言葉を聞いて彩が嬉しそうにする。
 そして、ゆっくりと扉を開いた。
 部屋の窓際にある猫ベッドの上には、白猫・モモが気持ち良さそうな表情をして眠っていた。
 その下にある猫ベッドでは、黒猫・モカが丸くなっている。
 そんな光景を見て彩は思わず息を飲む。
 可愛すぎるのだ。
 その愛くるしい様子に見惚れてしまう。
 彩は、猫たちが眠っている姿を眺めていたかったが、美琴が後ろから背中を押してくる。
「渋滞発生」
 それで我に返った彩は、ハッとした顔をしてから慌てて声を上げる。
「ご、ごめん」
 だが、既に遅かった。
 モモもモカも目を覚ましてしまった。
 二人の気配を感じ取ったのか、眠そうな目を彩達に向けると、すぐに起き上がる。
 そして、こちらに向かって歩いてきた。
 その姿を目にした瞬間、彩は興奮を抑えきれなくなった。
 両手を前に突き出しながら駆け寄っていく。
 一方の猫たちは、最初は警戒していたものの、彩だと分かると足元にすり寄るように甘えてきた。
 彩もそんな猫たちを優しく撫でる。
 モモは彩の手の動きに合わせるようにゴロゴロと喉を鳴らした。
 モカの方はスリスリと頬ずりをしてくる。
 彩は、モカの頭を優しくナデナデすると幸せいっぱいという感じで笑顔になる。
 一方、その様子を見ていた美琴は猫を可愛がってくれる彩に、嬉しそうな視線を向ける。
 だからこそ、彩と一緒に買い物に行くと分かった時点で、彩が喜ぶような猫のオヤツを買っておいたのである。
 そして、このサプライズは大成功だった。
 彩は嬉しさで興奮する。
 美琴としても彩のそんな姿が見れて嬉しい。
 彩は、しばらく猫たちの相手をした後、美琴の方に向き直って言う。
「ありがとう美琴。モモちゃんとモカちゃんの相手をさせてくれて」
 美琴は微笑む。
 その頬が少しだけ赤くなった。
 それから優しい口調で言った。
「彩。本当、猫が好きなんだね。私まで幸せな気分になれたよ」
 彩の顔が真っ赤に染まった。
 美琴の言葉が恥ずかしくて、照れたのだ。
 それは、彩にとって当たり前のことだった。大好きな親友と一緒ならどんなことでも楽しい。
 だから、美琴が喜んでくれたことが何よりも嬉しかった。
 美琴も彩と同じ気持ちだった。
 二人にとってお互いの存在は特別だった。
 それから二人は、学校の宿題を始めた。一人では分からないところを教え合いながら、順調に進んでいく。
 やがて、課題も終わったところで、今度はお菓子パーティーをすることにした。
 彩は、今日買った猫さんクッキーを美琴に渡す。
 美琴も、彩に自分の分として用意してあったチョコを渡す。
 お互いに、お菓子のプレゼント交換をした。
 その後、二人で楽しくおしゃべりをしながら、美味しく食べる。
 それから、トランプやウノなど色々なゲームを楽しむ。美琴は一人っ子なので、こういう遊びは友達がいないとできないので、彩のおかげで楽しめていた。
 彩もまた、美琴との時間を大切にしたいと思っていたので、彼女と遊ぶ時は、いつも以上に楽しんでいた。
 気付けば時刻は、午後10時を過ぎている。
 そろそろ寝ないといけない時間だ。
 ふと、モモが部屋の隅に座っていることに気がついた。モカも一緒に座っているのが見える。
 二匹とも、背中を見せたままで座り、天井の角をジッと見つめていた。
 まるで何かを警戒しているかのようだ。
「どうしたの?」
 彩は首を傾げて見る。
 すると、美琴が教えてくれた。
「ああ、フェレンゲルシュターデン現象よ」
 彩は、聞き慣れない言葉に戸惑う。
 その様子を見かねて、美琴が詳しく説明してくれた。

 【フェレンゲルシュターデン現象】
 1957年にドイツの物理学者リーゲンジー・シュターデン博士が発表した学説によって名づけられた猫の行動に関する現象。
 第二次世界大戦中、ナチスの超常現象に関する極秘研究施設において、霊を探知・捕獲する研究に携わっていたシュターデン博士は、猫が時折何も無い空間を凝視する行動に着目。
 温度計を敷き詰めた部屋に猫を放し、数週間に渡って観測を続けた結果、猫の視線上に存在するある地点だけが周囲より数度、低温であることがわかった。
 これを別の研究班によって検証された「霊の存在する地点は周囲より低温である」とする説と結び付けて「猫は霊を見ている」とし、自らの名と、着想のきっかけとなった愛猫「フェレンゲル」から「フェレンゲルシュターデン現象」と名づけた。

 その事を聞いて、彩は驚く。
「ええっ。じゃあ、あの角に霊がいるの!?」
 美琴は不敵に笑う。
 そして、真剣な表情で言った。
「彩には見えていないけど、私には見えるの白い服を着た少女の姿が……」
 彩は息を飲む。
 まさか本当に幽霊が……?
 彩は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 すると、美琴は笑みを浮かべた。
 彩の反応が面白かったらしい。
 美琴は笑いながら言う。
「なーんてね。ウソよ」
 彩の真剣な表情とは裏腹に、美琴は腹筋を崩壊させそうな勢いで爆笑した。
 それを見て、彩は呆気に取られる。
「へ。ウソ? どこから?」
「全部よ。フェレンゲルシュターデン現象も、白い服の少女も」
 美琴は、お腹を押さえて笑いを堪える。

 【フェレンゲルシュターデン現象のウソ】
 2010年9月21日「何となく怖い現象」というスレッドが生まれた。
 1の『猫が時々なにも無いところを睨む現象』
 これに対し、わずか50秒で、2のレスが入る。
 『ああフェレンゲルシュターデン現象のことか』
 と。
 それっぽい現象名と、そのレス速度も相まって、話題に飢えるネット民にとって最高のネタとなって、今ではさも事実であるかのような細かい設定も加えられている。
 だが、猫が何もない空間を見つめることがあるのは事実だ。
 これに関しての説明は、屋根裏等の物音に気がついて音の発生源を探ろうとしていたり(猫は人とは可聴域が違うため、人が気づかない周波数の音(羽虫の羽音等)に気がついて反応している)
「何をしようかな」とボーッと考え込んでいたり(この場合尻尾がユラユラしている)している事が要因。
 つまり、「何もないところを見ている」のではなく「耳を澄ませているからどこも見ておらず、結果的に何もないところを見ている様に見える」のである。

 その話を聞いて彩は安心した。
「ふふ。びっくりした?」
 美琴は悪戯っぽく微笑む。
「うん。ひっかかった」
 二人は笑い合う。
 とても楽しい時間だった。
 それから彩と美琴は、同じベッドで寝ることにした。
 彩は電気を消して、美琴に挨拶をする。
「じゃあね。おやすみ」
 美琴は彩に返事をした。
 そして彩は目を瞑って眠りにつく。
(明日も楽しければいいなぁ。ふわふわだ〜いすき!)
 彩は夢の世界へと旅立った。
 彩は不思議な感覚を覚えた。
 まるで水の中にいるような感じだ。
 しかし、呼吸はできる。
 彩は不思議に思いながら、ゆっくりと目を開ける。
 時計を見ると、まだ夜中の3時だ。
 起きるには早すぎる。
 再び眠ろうとしたが、目が冴えて眠れない。仕方なく起きて、トイレに向かうことにした。
 部屋を出て、廊下を歩く。
 トイレを済ませて美琴の部屋に続く階段を登っていると、どこからか声が聞こえてきた。
 それは悲鳴のような声で、必死に助けを求めているように聞こえる。
 その声を聞いて、彩は嫌な予感がした。
 急いで美琴の部屋に戻る。
 ドアを開けると、薄暗い部屋の中で、モモとモカの二匹が部屋の天井を見上げていた。
 二匹は何かを警戒しており、部屋の隅に座ったまま動かない。
 ベッドに寝ている美琴の方を見ると、苦しそうに怯えたように様子がおかしかった。
 額には汗をかいていて、顔は真っ青になっている。
 そんな美琴を見て、彩は焦燥感を抱いた。
 美琴に声をかけるが、返事はない。
 すると、モモが毛を逆立たせ、天井に向かって威嚇を始めた。
 まるで、守るように……。
 すると、今度はモカまで同じように威嚇を始める。
 彩が、二匹が見る天井を見ると、そこには顔があった。
 一つではない。
 大きな顔もあれば、握りこぶし程の小さな顔がブドウの房のように連なっている。
 納豆を混ぜるようにグチャグチャと、顔同士が動く。
 それらは、彩が見たこともない形相をしていた。
 そして、その一つ一つの顔が、こちらを見ていた。
 彩は、この世のものとは思えない恐ろしい光景を目の当たりにした。 
 《顔達》は風船が膨らむように、こちらに迫ろうとするが、猫達が威嚇すると、怯んで後退する。
 彩は、いつも父親が持たせてくれているお守りの存在を思い出す。彩の実家は神社を営んでおり、父は神主をしている。
 それがあれば、きっと助かる。
 彩は、そう信じてベッドの脇にある持ち物からお守りを取り出す。
 それを持って、《顔達》に向ける。
 彩が持っているお守りは、厄除けの御守りだ。
(お願いします……助けてください……)
 彩は祈る。
 しかし、お守りは何も反応しない。
 《顔達》が、彩に喰らい付くように降って来る。
 そこをモモが庇う様に前に出て、《顔達》に爪を立てる。
 モカもそれに続いた。
 猫達の抵抗に効果があったのか、《顔達》は苦悶の表情を浮かべて動きが遅くなる。
 その時、お守りが強い光を放つ。
 彩の手の中にある御守りは、強い輝きを放っていた。
 彩は、お守りを強く握る。
 目を瞑る。
(お父さん! お母さん! 神様! 助けて!!)
 お守りを《顔達》に向かって投げつけると、爆発するように閃光を放ち、《顔達》は光の粒子となって消えた。
 彩は恐る恐る目を開くと、そこには何もなかったかのように静寂が広がっていた。
 猫達は警戒しているものの、もう何もいないようだ。
 彩は安心して一息つく。
 やがて疲労からか、睡魔に襲われて彩は眠りについた。
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