1 労働と日々

文字数 6,121文字

『オブローモフ』、あるいは怠惰の文学
Saven Satow
Sep. 14, 2004

「その気になりさえすれば、ぼんやりと心を外部に開いて、ただ退屈していればよいというのは気楽なことのはず。なにかをするための努力ではなしに、なにかをしないでいる抑制は必要かもしれないが、ナマケモノのための二十一世紀、なにごとかの気配を感じながらも、そのための準備なんか必要ない」。
森毅『余白の情報』

第一章 労働と日々
 イリヤ・イリイチ・オブローモフ(Илья Ильич Обломов)は、いつものように、目を覚ます。

 ゴローホヴァヤ街の相当な県庁所在地にも匹敵するほどの人口をもった一軒の大きな建物。その中の自分の住居で、ある朝、イリヤ・イリイチ・オブローモフはベッドで寝ていた。

イヴァン・アレキサンドロヴィッチ・コンチャロフ(Иван Александрович Гончаров)は、この主人公がベッドから起きてスリッパを履くまでに、一章を費やしている。ところが、第一章が終わっても、このペースは変わらない。『オブローモフ(Обломов: Oblomov)』(一八五九)には、たいした事件も出来事もなく、ヴォルガ川の流れのように、静かに流れていく。

When I wake up early in the morning
Lift my head, I'm still yawning
When I'm in the middle of a dream
Stay in bed, float up stream (float up stream)

Please, don't wake me, no, don't shake me
Leave me where I am - I'm only sleeping

Everybody seems to think I'm lazy
I don't mind, I think they're crazy
Running everywhere at such a speed
Till they find there's no need (there's no need)

Please, don't spoil my day, I'm miles away
And after all I'm only sleeping

Keeping an eye on the world going by my window
Taking my time

Lying there and staring at the ceiling
Waiting for a sleepy feeling...

Please, don't spoil my day, I'm miles away
And after all I'm only sleeping

Keeping an eye on the world going by my window
Taking my time

When I wake up early in the morning
Lift my head, I'm still yawning
When I'm in the middle of a dream
Stay in bed, float up stream (float up stream)

Please, don't wake me, no, don't shake me
Leave me where I am - I'm only sleeping
(The Beatles “I'm Only Sleeping”)

この官吏の文体は、その仕事振りを想像させるように、呆れるほどテンポ悪く、だらだらと続いていく。新たな文体の実験もないし、破格の構成も見られない。イヴァン・セルゲエヴィチ・ツルゲーネフの作品に見られる古典的な調和ではなく、川底の泥のように、沈滞が全体を統合している。

主人公は、この文体以上に、やる気というものがまったく感じられない。「正真正銘の東方風のガウン」を着た彼の生活には規律も節制もない。ものぐさで、朝目覚めても、寝床から起きあがらないまま、一日をすごしてしまうことさえ少なくない。自宅に引きこもり、救いようのない平凡さと無気力に貫かれている。

動物と言うよりも、植物のように生きている。「生物というものは、眠っているのが本来の生活で、よく眠るために、起きて食物などを補給する、という説を聞いたことがある。まあ、そこまで言わなくても、起きている時間を、寝ている時間より特権視しなくてもよかろう。寝たり起きたり、その全体で人生を送っているのだ」(森毅『ごろごろ』)。

この読者を唖然とさせる小説の作者の人生もまたドラマティックではない。ゴンチャロフは、一八一二年、ヴォルガ川沿岸の小都市シンビルスクでロウソク工場を経営する富裕な穀物商の家庭に次男として生まれている。彼が七歳のとき、父が亡くなり、早くから寄宿塾に送られ、ドイツ語とフランス語をマスターする。

 しかし、家業を継ぐために入れられたモスクワ商業学校は、彼の性格に合わず、退学し、一八三一年、モスクワ大学文学部に入学する。このころ、アレクサンドル・セルゲエヴィチ・プーシキンに感銘を受けている。卒業後、故郷の県知事秘書となったが、一八三五年、オブローモフ同様、サンクト・ペテルブルクに出て、大蔵省外国貿易局の翻訳官として勤務する。

 以後約三〇年間官吏生活を続ける。その間、エフフィーミー・ヴァシリエヴィチ・プチャーチン提督の秘書官として、一八五二年から五四年まで世界就航に同行し、幕末の長崎を訪れている。この旅行記を一八五八年に『フリゲート鑑パルラダ号(邦題日本航海記)』として発表する。一八五三年に始まり五六年に終わったクリミア戦争敗戦後の自由化政策の一貫として、リベラルな立場で知られていたため、五六年には、検閲官に任命される。

 クリミア戦争のとき、至るところで明るみに出た兵士による略奪行為に憤慨したニコライ一世は後継者の息子にこう言った、
「どうやら国中で泥棒をしないのは、私とお前だけらしいな」。
(川崎浹(とおる)『ロシアのユーモア』)

 生涯独身のまま、一九八一年に肺炎で亡くなる。「死は決して怖いものじゃなくて、素晴らしい経験だ。それを思うと、かつて味わったことのないほどの安らかさが心の中に吹き込んでくる」(ゴンチャロフ『平凡物語』)。

 アカデミー画家のニコライ・マイコフと知り合ったことが、ゴンチャロフを文学者として歩ませる。彼はマイコフ家の子供たちの家庭教師を務め、当時、サンクト・トペテルプルグでは最も名の知れた文学サロンだったマイコフ家のサロンに出入りするようになる。このサロンの手書きの雑誌にゴンチャロフは詩や中篇小説を発表する。

 一八四六年に書き上げられ、空想家の主人公と実務家の叔父を対立させ、やがて変貌していく過程を描いた小説『平凡物語』は、ヴィサリオン・グレゴリエヴィチ・ベリンスキーに「ロマンチシズム打倒の作」と激賞されて、翌年『同時代人』誌に掲載され、ゴンチャロフのデビュー作となる。

 同時代を描き、人物の性格描写に優れたリアリズム作家として当時は知られていたが、その作品のほとんどが今では忘れられている。遅筆だったため、作品の数も少ない。『オブローモフ』以外では、デビュー作や『断崖』(一八六九)がある。

 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの『貧しき人々』(一八四六)と並んで答辞話題になった『平凡物語』にしても、ロシアで広く支持されていたニヒリズムを批判的に捉えた『断崖』にしても、作家自身はこの三作には内的関連性かあると言っているが、研究者を除けば、まず読むものはいない。もっとも、本人はイヴァン・セルゲエヴィチ・ツルゲーネフの『父と子』(一八六二)やギュスターヴ・フローベールの『感情教育』(一八六九)をその『断崖』の盗作と信じて疑わなかったようである。「さて、何をあなたに言おうと思ったのかなあ」(『父と子』)。

 しかも、『オブローモフ』は、『戦争と平和』(一八六五-六九)や『カラマーゾフの兄弟』(一八七九-八〇)といったロシア文学の傑作と言われる長編小説と比べて、決して長くはない。けれども、そののんべんだらりとした『オブローモフ』一作によって、ゴンチャロフの名前は文学史に残ったのである。

I read the news today oh boy
About a lucky man who made the grade
And though the news was rather sad
Well I just had to laugh
I saw the photograph.

He blew his mind out in a car
He didn't notice that the lights had changed
A crowd of people stood and stared
They'd seen his face before
Nobody was really sure

If he was from the House of Lords.
I saw a film today oh boy
The English Army had just won the war
A crowd of people turned away
But I just had to look
Having read the book.
I'd love to turn you on

Woke up, fell out of bed,
Dragged a comb across my head
Found my way downstairs and drank a cup,
And looking up I noticed I was late.
Found my coat and grabbed my hat
Made the bus in seconds flat
Found my way upstairs and had a smoke,
Somebody spoke and I went into a dream

I read the news today oh boy
Four thousand holes in Blackburn, Lancashire
And though the holes were rather small
They had to count them all
Now they know how many holes it takes to fill the Albert Hall.
I'd love to turn you on
(The Beatles “A Day In The Life”)

 文学史上最高の怠け者は、サンクト・ペテルブルクに住んでいる。年齢は三二歳か三三歳、小太りで、白い小さな手はふっくらしていて、物憂げな感じを漂わせている。貴族の彼は、幼い頃から身の回りのことなどすべて使用人が世話してくれるので、靴下や靴を自分で履くこともできない。

 田園の広がる小さな田舎の村から、一二年前にペテルブルクに出てきて、二年ほど役所に勤め、一〇等文官となったが、人ごみや混雑が極度に苦手で、人と争ったり、あくせく働いたりするのを好まないため、役所勤めを辞め、それ以来、埃だらけの寝室兼書斎兼客間になっている部屋に引きこもり、ほとんど一日中ベッドに横になっている。

 新聞も雑誌も読まず、世の中のことを知りたいとも思わない。大学で法学を学んだものの、法律が社会でどう役立つのか皆目見当がつかないので、研究しようという気も起こらない。父親から受け継いだ領地から送られる金で無為の毎日をすごしている。

 友人たちからパーティーに誘われても、「ここにいるのがいい気持ちなら、どうしてほかへいく必要があるだろうか」と言って、ベッドから出ようとしない。友人たちが一日中仕事ばかりしている姿に対し、「なんて不幸せな連中だ」と呆れている。

 仕事こそ人生の目的と考えている親友シュトルツは、「今この機会を逃したら永久に立ち直れない」とオブローモフを社交界へ連れ出す。そこで、彼は、シュトルツから紹介されたオリガという美しい女性に恋をする。

 オブローモフの目には輝きが現われ、オリガを妻として領地で幸福な生活を送ることを夢見るようになる。オリガも彼の無垢さに惹かれる。シュトルツがヨーロッパに旅立つ前、オリガに託したオブローモフの救済は成功するかに見えたが、オブローモフの優柔不断のためにすべては水疱と帰し、彼は再び以前の怠惰な生活に戻ってしまう。

 オリガはそうした態度のオブローモフに次のように言っている。

「イリヤ、あなたは誰に呪われたのでしょうね。何をしたんでしょうね。
あなたは善良で優しくて上品なんだけど、滅びてゆくのね。
あなたは何に滅ぼされたのでしょう。その悪には名前がないわ」。
 
 それに対し、「あるよ」と小さな声でイリヤはこう答えている。「オブローモフシチナ(Обломовщина)だよ」(この「オブローモフシチナ」は、文脈に応じて、「オブローモフ気質」とも「オブローモフ主義」とも訳されるが、「オブローモフ病」という訳語も可能であろう)。

 オリガはシュトルツと結婚する。他方、家主のプシェニーツィン未亡人と忠実な使用人夫婦から献身的な世話を受け、オブローモフは、幸福に暮らすという自分の理想は実現されたのだと満足する。こうしてオブローモフは、仕事や争いとは無縁な社会の片すみで、人々から忘れられて、脳卒中を患い、静かに死んでいく。

 シュトルツは、オブローモフの死について親友から質問され、次のように答えている。

「どうだい、あの乞食の身の上話を聞いただろう」とシュトルツが親友に言った。
「ところであいつの言っていた、イリヤ・イリイッチというのはいったい何だい」と文学者がたずねた。
「オブローモフだよ、僕は何度もあの男のことを話して聞かせたじゃないか」
「うん、名前は覚えているよ。あれは君の学友で親友だったね。その後どうなったかね」
「死んじゃったよ。まったく犬死さ」
 シュトルツは溜息をついて考えこんだ。
「それでいてほかの者より馬鹿じゃないし、心はガラスのように澄みわたって、上品で、やさしくて、それでいて犬死しちゃったんだ」
「いったいどうしたんだ。どういう原因があったんだ」
「原因……どういう原因だって!オブローモフシチナさ!」とシュトルツが言った。
「オブローモフシチナだって!」と文学者が面くらって、口まねした。「それはいったい何だね」
「今話して聞かせるよ。ちょっと考えをまとめて、思い出させてくれ。君はそれを書きとめるがいい。ひょっとすれば誰かの役に立つかもしれないから」
 そして彼はこの本に書いてあることを話して聞かせた。


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