2 労働と余計者

文字数 4,809文字

第二章 労働と余計者
 彼を生かしていたのも、殺してしまったのも、すべて「オブローモフシチナ」である。主人公の文学史上に比類ない怠惰と無気力によって、センセーションを巻き起こす。人々の間で「オブローモフシチナ」が流行語になり、「オブローモフ」は怠け者を指す代名詞とさえ見なされ、さまざまな作家や知識人も、この話題作に関して、意見や批評を加えている。

 『オブローモフ』に対するロシア文学を代表する二大巨頭の評価は興味部深い。レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは「久しく見かけなかった偉大な作品」と絶賛した一方、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは「嫌悪すべき作品」とこきおろしている。

 モスクワ出身の文豪の『地下室の手記』(一八六四)の語り手は、オブローモフと同じように、自宅に引きこもっているが、それ以外の点では、オブローモフとは正反対である。「地下室の住人」は「独白の哲学」を披露し、傲慢で、ドロドロとした欲望に満ち、外界に対して攻撃的である。アスターポヴォ駅で倒れた文豪は、後のトルストイ主義が示しているように、受動性=消極性を認めるのに対し、ギャンブル依存症の文豪は能動性=積極性を尊ぶ。『オブローモフ』の評価が分かれるのは両者の志向の違いに由来する。

 また、『オブローモフ』はニキータ・ミハルコフ監督が『オブローモフの生涯より(A Few Days of I.I. Oblomov's Life: Нескопько аней из жизни И.И. Обломова) 』(一九七九)として映画化しているが、ロシア文学に強い影響を受けた黒澤明は、次のように賞賛している。

 この映画は実に瑞々しい。映画の中を爽やかな風が吹き抜けているようだ。思うにそれは、原作の新鮮な文学精神に触発きれたニキータ・ミハルコフの若々しい映画精神の所産だろう。私は、その無垢な映画精神に感動した。

 映画史上最大の巨匠の一人が撮った映画には、オブローモフ的な登場人物が出てくる。『生きる』(一九五二)において、左卜全が扮した市民課課員の小原はオブローモフ的であり、その存在により志村喬が演じた渡邊勘治のようなファウスト的な人物を浮き上がらせている。また、最後の『まあだだよ』(一九九三)でも、『まったくやる気がございません』と歌う所ジョージを使っている。

働く気もなきゃ銭もない だけど会社も休まない。
空気みたいに この世に浮かぶ
早い話が 何を言われようと 私は空気
金を返せのその声は 空気だから聞こえない。

長生きする為に生きている だからあんまり動かない
丸太みたいに ゴロゴロ暮らす
早い話が 何を言われようと 私は丸太
働きなさいのその声は 丸太だから聞こえない。

何から何までうまくいく うまく行かなきゃ笑ってる
笑顔ひとつで 世の中わたる
早い話が 馬鹿にされよと ニコニコしてる
反省しなさいのお叱りは 悪気がないから聞こえない。

ブスなあの子に声かけて これでもいいやという時に
顔のきれいな 女をみかけ
早い話が 僕の場合 キレイ好き
ブスをけとばしてふくろだたき 泣いてはどじょうを困らせた。
(所ジョージ『まったくやる気がございません』)

 『オブローモフ』をめぐる批評の中で、最も重要かつポピュラーなのは、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ドブロリューボフ(Николай Александрович Добролюбов)が、一八五九年に発表した『オブローモフ気質とは何か(Что Такое Обломовщина?)』である。

 彼は、オブローモフ研究において不可欠であるこの基礎的文献の中で、オブローモフについて次のように批判している。

 こうしたさまざまな問題について考えてみることもなく、世間や社会にたいする自分の関係を明らかにすることもなかったので、オブローモフはむろん自分の生活を意味あらしめることもできなかった。そしてそれゆえに彼は、自分で何かをしなければならなくなると、いつも悩み悲しむのであった。

 さらに、農民革命による社会主義者社会の建設を目指していたこの若き批評家はシュトルツのような行動的人間こそが社会を変革でき、今のロシア社会の求める人間像であるとして、オブローモフを一九世紀ロシア文学における農奴制によってスポイルされた「余計者」の系譜にあると指摘している。

 その上で、ニコライ・ヴァシリエヴィチ・ゴーゴリの『死せる魂』(一八四二)に出てくるチェンチェートニコフやイヴァン・セルゲエヴィチ・ツルゲーネフの『ルージン』のルージンらもオブローモフ主義者に属していると糾弾する。「ルージンは自分の計画している論文や著述の始めの数ページを選ばれた少数の者に読んで聞かせることを好んだ」。「一般にオブローモフ主義者たちは何ものをも要求されることのない田園詩的な、動きのない幸福に心を惹かれる」。

 ゴンチャロフも気鋭の批評家の意見に同意している。「私はオブローモフの性格のうちに、ロシア的人間のある幾つかの本源的特質を入れた」。ドブロリューボフはわずか二五歳で急逝するが、カール・マルクスは「レッシングおよびディドロに匹敵する著述家」と評し、フリードリヒ・エンゲルスも彼をニコライ・ガブリロヴィチ・チェルヌィシェフスキーと並べて「二人の社会主義的レッシング」と呼んでいる。

 ドブロリューボフは、オブローモフ的人間を糾弾しつつも、コンチャロフに対して「彼の客観的創造はいかなる偏見や既定の理念にもかきみだされず、いかなる一方的な同情にも左右されない」と絶賛し、オブローモフに見られる行動力の欠如・無気力・無関心・怠惰が特異な現象ではなく、ロシアの知識人が直視しなければならないロシア的性格そのものであると指摘する。「芸術家によって創造された形象は、レンズの焦点のように、実生活のもろもろの事実を集約することによって、事物に対する正しい理解を人々の間に形成し広めることに、はなはだ多くの寄与をする」。

 「余計者(Лишний Человек)」はロシア文学にしばしば登場する人物である。彼らは社会に適応できず、自分の才能や感性を生かすこともできずに退屈し、無為と怠惰に陥る。「余計者」はロシア文学に限らず、ウィリアム・シェークスピアのハムレットやヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテのヴェルテル、ジョージ・ゴードン・バイロン卿のチャイルド・ハロルド、日本の私小説の主人公なども、広義の「余計者」に含まれる。しかし、「余計者」は一九世紀のロシアで独自の発展を遂げ、文学上の系譜となっている。

 「余計者」は一九世紀ロシア文学に見られる貴族知識人の一典型であり、この名称はツルレーネフの『余計者の日記』(一八五〇)に由来する。ただし、その系譜の最初には、ロシア文学の創始者アレクサンドル・セルゲエヴィチ・プーシキンの『エフゲーニー・オネーギン』(一八二三─三一)のオネーギンが挙げられ、ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフの『現代の英雄』(一八四〇)のペチョーリン、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ゲルツェンの『誰の罪か』(一八四〇)のベリトフ、ニコライ・アレクセエヴィチ・ネクラーソフの『サーシャ』(一八五六)のアガーリン、ツルゲーネフの主人公たちと続く。中でも、『余計者の日記』のチェルカトリンや『ルージン』(一八五六)のルージン、『貴族の巣』(一八五九)のラブレツキーが最も代表的である。

 さらに、「余計者」は時代と社会の変化と共に複雑化し、アントン・パブロヴィチ・チェーホフの主人公に引き継がれる。また、フランスのバンジャマン・コンスタンの『アドルフ』(一八一六)のアドルフやアルフレッド・ド・ミュッセの『世紀児の告白』(一八三六)のオクターブも西欧文学における「余計者」のヴァリエーションである。「余計者」は西欧から流入してくる新たな思想を吸収するものの、表層的に受容しているにすぎないため、ロシアの後進性に対して冷笑的で、政府や自分の所属する貴族階級にシニカルな態度をとるだけでなく、民衆からも遊離してしまっている。

 「余計者」が一九世紀のロシアで発展した理由はツァーリズムと農奴制に基づいた地主貴族の存在という社会的な背景にある。逡巡しながらではあるものの、近代化がロシアでも進み、社会が大きく変動しつつある。ところが、彼らは不労所得によって生活できたため、経済的にも時間的にも余裕を持っていても、専制的な帝政ロシア体制下で言論や社会活動を厳しく抑圧され、能力を十分に発揮できない。貴族たちが流暢にフランス語で会話を交わし、使用人に命令を下すときだけ、ロシア語でぎこちなく話すという滑稽な状況に変化はない

 しかし、「余計者」の系譜は、社会構造が変化した二〇世紀にも受け継がれている。ロシア革命後のソ連文学で、「余計者」は、新しい社会主義体制に順応できない知識人の問題として、新たな意味をもって浮かび上がってくる。ユーリー・カルロヴィチ・オレーシャの『羨望』(一九二七)のカヴァレーロフや、ボリス・レオニードヴィチ・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』(一九五七)のジバゴも典型的なソ連版の「余計者」である。

 近代以前には、「余計者」は存在しない。これは、一九世紀ロシア文学に典型的に登場したとしても、近代の現象である。封建時代、G・W・F・ヘーゲルが『精神現象学(Phänomenologie des Geistes)』(一八〇七)の「主人と奴隷」で語っているように、主人と奴隷はお互いに依存しているが、近代になると、自立に対する強迫観念が生じる。

 資本主義体制は依存しあっている状態であるにもかかわらず、職業選択・商取引の自由により、自立していると思わせる。それ以前、芸樹家は職人と未分化であり、パトロンの依頼によって絵画を描く。パトロンもそれを売却目的で依頼などしない。自分が太っ腹であり、芸術がわかることを世の中に知らしめるためである。絵画の作成にしても、芸術家一人で行うのではなく、パトロンや神学者、有力者の助言の方が重要な構成要素であり、芸術家の作業はごく限られたものである。

 資本主義社会に突入すると、芸術家もパトロンから自立し、市場経済の中で、生活していなければならない。そのため、生前には認められない才能が登場する。

 森毅は、『清貧より優雅』において、近代以前の知識人と俗との関係を次のように述べている。

 鴨長明とか、与謝蕪村とか、そうした人の生き方に憧れている。都の俗を避けて山にいるようで、加茂の祭ともなれば、浮かれている長明が好きだ。蕪村だって、南の芝居を欠かしたことがない。俗を捨てたと言いながらも、ときにはだれかに馳走になって、俗を楽しまぬでもない。世俗にこだわらなかっただけのことで、なんとも優雅だ。
 考えようによっては、これは俗に寄生することでもある。雅の人だらけになったら、世の歯車はまわらないだろう。俗あっての雅である。だから、俗を敵にしては優雅になれない。

 雅の人のいいのは、俗のなかの雅として、世のバランスを支えているからである。そして、世の中のこととよりなにより、雅の人を眺める自分自身にとって、俗に生きる自分に雅の風穴があく。

 産業資本主義がまだ途上であった一九世紀半ばの知識人の中には、鴨長明や与謝蕪村のような生き方をしていたものもいる。ゼーレン・キルケゴールは、定職につかず、相続した遺産で暮らしていたし、カール・マルクスは遺産とさらにフリードリヒ・エンゲルスの援助によって生計を立てているし、また、病弱だったフリードリヒ・ニーチェは年金生活を送っている。「余計者」は近代の矛盾が生み出したイデアルティプスであって、その極端な例がオブローモフにほかならない。



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