高貴なる悪の光芒――石川淳『紫苑物語』書評

文字数 1,996文字

『紫苑物語』は新しい。
 本書には「紫苑物語」「八幡縁起」「修羅」という三篇の中篇小説が収められている。いずれも60年以上前に発表された作品だ。石川淳が逝ってから、既に33年が過ぎている。

 だが、『紫苑物語』は古びていない。石川淳の肉体は滅んでも、その「精神の運動」が未だ活動を停止していない証拠であろう。50年先、100年先……その時日本という国がまだ存続しているかどうか知らないが、それでも日本語を読む人がいる限り、変わらず新しい作品であり続けるに違いない。

 国の(かみ)は狩を好んだ。

 という一行から、表題作「紫苑物語」は始まる。国の守、名は宗頼。弓の名手なのだが、なぜか実際の狩場では獲物を仕留めることができない。

 しかるに、これが狩場となると、その百中の矢はどうしたことか、まさに獲物を射とおしたとは見えながら、いつもいたずらに空を切った。ただ、不思議なことに、あやうく矢をまぬがれたはずの鳥けものは、とたんにふっとかたちを消して、どこに翔りどこに走ったか、たれの目にもとまらない。いや、その矢までがどこの谷の底、どこの野のはてに落ちたのやら、かつて見つけだされたためしは無い。
 
 この魅力的な謎に、読者はたちまち心を鷲掴みにされてしまう。
  
 宗頼は、天才である。
「都の歌の家」に生まれた宗頼は、早くも五歳の時から歌の道に天賦の才を見せ、七歳になった年の初めに詠んだ歌が、父に絶賛される。ただ、父は宗頼の歌の一箇所に朱を入れた。それは宗頼がどちらを取るか悩んだ末、「おとっている」とみて捨てた言葉であった。宗頼は父を「敵」とみなし、朱筆を奪い取って父の顔に投げつける。

 その時から宗頼は歌を捨て、弓に打ち込むようになるのだが、そんな息子を父は「無道人」として憎み、「さる遠い国の守」に任ぜられるよう画策し、体よく都から追い出してしまう。この「無道人」をアウト・ローの意味に解釈してもいいかもしれない。佐々木基一は「著者に代わって読者へ」の中で、「アウト・ローになるんじゃない。文学者はもともとアウト・ローなんだ」という石川淳の言葉を紹介している。

 任地に赴いた宗頼は狩に熱中するが、前述したように彼の放つ矢は、獲物もろとも消え失せる。だが、宗頼は狩をやめない。
 ある日、草むらから小狐が飛び出すのを見た宗頼は、とっさに矢を放って仕留める。初めて獲物が消えなかったのだ。二人の雑色が小狐を取りに行こうとすると、宗頼は続けざまに二本の矢を放ち、彼らまで殺してしまう。

「生きものを射殺すとは、ただこうすることか。」

 この時、宗頼は射抜いた筈の獲物が消えてしまう謎を解いたのだ。その真相は文学の衝撃と言うべきものだが、それにしても転がっている三つの(しかばね)には一顧だに与えず、馬に鞭をくれて走り去る宗頼の姿には強烈な悪の魅力が(たた)えられている。 

 謎と言えば、素性の知れぬ美しい少女――千草もそうだ。道に迷っていた千草を館に連れ帰って以来、宗頼は(ねや)から出なくなる。そのくせ、どんな隠し事も宗頼の知るところとなり、罪を犯した者はその事の大小に(かかわ)らず、館の庭に引きずり出され、宗頼の矢を受けて死ぬ。結果、国中が恐怖の底に叩きこまれてしまう。

 千草については最初からヒントが示され、読者が彼女の正体を見抜くのはそれほど難しいことではない。重要なのは千草が何者なのかという問題ではなく、事態が千草の当初の計画を超え、思ってもみない方向へ発展していくことだ。宗頼によって正体を暴かれた千草は、閨の中に水の如く溢れる月光の中で切々とこう述べる。

「わたくしがおん身をおとしいれようとかまえた穴は、悪運でございました。それなのに、守は逆にその悪運に乗って、天にいどもうとなされます。わたくしの幻術なんぞは、遠くおん手の力におよびませぬ。今こそ、守は生きながらに魔神のおんすがたと拝されます。」
 
 これは日本文学屈指の愛の言葉ではないだろうか。宗頼という気高き悪人に捧げられた、息を呑むほど(なま)めかしい愛の告白である。

 世俗の基準に照らせば、宗頼は悪だ。しかし、悪だからこそ、その精神は天に挑む強さを秘めている。千草の目に「魔神」として映る宗頼は、果たして天に勝てるのか。その結末は、本書を自ら手に取って確かめるしかない。

 表題作だけでなく、「八幡縁起」「修羅」も、強烈な光源に似た作品だ。作品から放たれた光は60年の歳月を一瞬で貫いて今を照らし、そのまま未来へ駆け抜ける。同調圧力に晒され、空気を読むことを強いられ、いつもおどおどと生きている現代の善良な小市民にとって、この高貴なる悪の光芒は(いささ)か眩しすぎるほどだ。

 本書『紫苑物語』の最後の頁を読み終えて静かに目を閉じれば、駆け抜けた光の残像が正に「紫苑の一むら」のように瞼のうらに浮かぶ。そして耳の底には、おそろしくもかなしい「鬼の歌」が、いつまでも鳴り響いて消えない。
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