第1話 課長島村耕作の憂鬱

文字数 1,974文字

 彼の名は島村耕作。「村がなければ島耕作」と少し上の世代からよくからかわれる。そして役職は法務課の課長。だから名刺を渡すたびにに「課長島村耕作ですね」と言われる。

 法務課の仕事は実に地味な役割だ。最近は世間でも、リスクマネージメントやコンプライアンスという言葉がよく語られるようになり、社内でも「それは法務課の仕事だね」と言われる機会はずいぶん増えた。しかし実際のところ、法務課の仕事の現実を他部署の社員はどれほど知っているのだろうか。契約書の作成は勿論のこと、「リーガルチェック」と呼ばれる契約書や申請書などの適法性確認作業。下請け企業や社外契約者との秘密保持契約。特許や意匠登録などの申請手続き。顧問弁護士や弁理士との打合せや調整。更に、クレーム処理や、訴訟問題に発展しそうなときはその火消し役までと多岐に亘る。

 少なくとも耕作はそんな自分の仕事に誇りを持って会社勤めを全うしてきた。しかしその一方で、理不尽なことや組織の不条理に心を痛めることも少なくない。
 人格者と慕われた上司は定年を迎えて会社を去り、いつの間にか周りを見渡せば、若い頃は他に迷惑を掛けながら、上司の機嫌を取ることだけに長けていた無責任な同僚達が、管理職のポストに居座っている。

 その一方で、元営業部長の田中和紀のことに思いを巡らすと耕作は憂鬱になる。
 田中は営業部の生え抜きで、社の利益のために全てを犠牲にして毎晩遅くまで残業するような男だった。大学の先輩でもあるその後ろ姿を、耕作は入社当時は憧れを抱きながら、ここ数年は哀れみを抱きながら見守ってきた。しかし、誰よりも会社を愛し、親会社に直談判に行くほどの熱血漢だった田中の本当の姿を、今の若い社員は誰も知らない。

 夜遅く会社に二人だけが残っていたことも少なくなかった。
「島村、たまには飲みに行かないか?」と声を掛けられ、その度に耕作の顔を見て「あ、そうだった。お前呑めないんだったな」と田中は頭を掻いた。それでも、五回に一回くらいは先輩を立てて飲み屋に付き合った。
 二年ほど前のこと、耕作は久々に田中から行きつけの焼き鳥屋に誘われた。耕作はウーロン茶を呑みながら、先輩の愚痴に耳を傾けた。
「あいつら何考えてるんだろう? 営業データベースを新しいシステムに入れ替えるときに、俺が今まで入力してきた取引先の誕生日や居住区や趣味や好物の項目を削除しちまったんだぜ? 『そんなことやってるのは今どき部長だけです。そもそも生年月日と居住区、相手の趣味嗜好までデータとして持っていたら立派な個人情報ですから、コンプライアンスの面から言っても大問題です』なんてほざきやがる。コンプライアンスっていったいなんなんだ?」
 田中はそうしたデータを活用して、誕生日に絵葉書やメールを送ったり、出張先で買ったお土産を持参したり、たまにゴルフやテニスに付き合ったりして、取引先と良好な人間関係を築いてきた。それが、目に見えないところで会社の信頼を支えてきたことを耕作は誰よりも知っていた。しかし、耕作は法務課の責任者として田中に伝えなければならなかった。酔った田中にも解るように個人情報保護法の説明をしながら、部長一人であれば問題なくても、営業部全体でそうした情報を共有すれば、許容数を超えて問題になる可能性があることを伝えた。
「やりにくい世の中になっちまったな……」と田中は深い溜息をついた。

 その後、ちょっとした不注意な言動が部下の反感を買い、まるで罠にかかるように口にしてはいけない発言を繰り返した結果、田中はハラスメントとして訴えられ、諭旨解雇に追い込まれた。

 一度『悪』のレッテルが貼られると、それまで媚び諂っていた社員や、権威を利用して他に圧力を掛けていた部下までもが、全ての責任を『一人の悪者』に擦り付けるように批判する。そして、「あの人は昔から横暴だった」とか「いつかそういうことをしでかす人だと思っていた」などと、わかったような口をきく。そうした過度に批判的な態度は、いつか自分が同じ立場に立たされることを怖れる不安が駆り立てるのだろう、と耕作は感じる。

 二か月前に部長の任を解かれた田中がいよいよ会社を去る日、玄関まで見送ったのは耕作一人だった。田中は大きな身体で周囲から隠すように耕作に握手を求めた。
「今までありがとう。もう俺のことは見送らずにデスクに戻ってくれ。俺と親しくしてると、お前まで変な目で見られるからな」
 何ともやるせない気持ちを抱きながら、耕作は忠告に背き、先輩の後について玄関を出た。
「長い間、お疲れさまでした」と労いの言葉を掛け、耕作は深々と頭を下げた。
 再び視線を戻したとき、その目に映ったのは、とぼとぼと力なく歩を進める先輩の丸まった背中。かつて大きく感じたその背中が耕作にはずいぶんと小さく見えた。
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