第2話

文字数 4,581文字

  ☆ ☆

 空想ばかりで行動の出来ない私。
 現実はボロボロだったの。

「おいっ。健一。サッサっと持って来い」
 彼、健一って名前なんだ。
 私は手造り花火の工房の前に立っていたの。彼は真っ黒になって這いずり回っていたわ。華やかな花火から想像できない程に、真っ黒に汚れて、怒鳴られて、駆けずり回る彼。
 帰り道の途中で、いつも、立ち止まって見ていたの。
 どんな花火を造るんだろう。
 庭先で、家族が一緒に楽しむ線香花火。風鈴の音。冷えたスイカ。笑い声。憧れの風景。
 私の知らない世界。

 私が幼い頃に、父と母は離婚したの。
 母に引き取られた私。今まで三人の新しい父親と住んだの。アルコール依存症の母と、私を虐待する新しい父親。何年間か児童養護施設で過ごした幼少期。
 温かい家族での夕食。そんなホームドラマで見る風景は空想の中だけの世界だったわ。
 私の実の父親は日本在住で隣国の外国籍。日本名は高津光造と名乗っている。地元では有名な不良だったらしいわ。父と母が十七歳の時に私が産まれたの。父は世間で言うところのヤクザ。違法な消費者金融をやっていたらしいの。昨年、交通事故で亡くなった。父の事を恨んでいた人も多いと聞かされた。父と一緒に仕事をしていた山我のオジサンは逃げるように、この街から姿を消した。

 スーパーで働くようになって二年。
 その日は棚卸の残業で遅くなったの。終電間際の時間に繁華街を歩いていたら、後ろから突き飛ばされたの。街路樹に倒れ込み、振り向くと男の人が走っていく。
 気づくと、私のバックが無かった。財布を無くし、お金の無い私は、しばらく、どうして良いか分からなかったの。
 警察署に行くと生活安全課に案内されたわ。
「今、担当の者が居ないんで、取りあえず話を伺います」
 角刈りの刑事さんが対応してくれた。
「おぁっ。お前ぇ。高津光造の娘かっ。親父はどうしてる」
 角刈りの刑事さんが煙草に火をつけて、横目で私を見ながら言ったの。
「去年、事故で亡くなりました」
「そうか。死んだか。まぁ、どの道、長生きは出来なかっただろうなぁ。何だっけっ。ひったくりぃ。お前、被害者かっ」
 息苦しかった。私は早く、外に出たかった。
「もう、いいです。大丈夫です」
 私は席を立ったの。
 警察署を出て、夜の繁華街を歩く。多分、ボロボロだったと思うわ。疲れ切って、髪も汚れて。雨が降って来たの。
 もう、歩けない。とにかく、逃げたかったの。

「大丈夫だった」
 不意に傘を差し出して、男性が声をかけてきたの。
 背の高いスーツ姿の男性。歳は四十歳半ばぐらい。垂れた目で大きな口をくしゃくしゃにした笑顔。
 その時は嫌な感じはしなかったの。
「大丈夫だった。さっき、見てたよ。酷いね。ひったくり犯は捕まったかい」
「いいえ」
「そう。可哀想に。ほらっ。綺麗な髪がボサボサだ」
 その男性が私の髪の毛の泥を掃い、私の目を見て笑ったの。私は思わず、泣き顔になってしまったの。
「すみません。有難う御座います」
「はっはぁ。うん。怪我は大した事なくて良かったね。家まで帰れるの。大丈夫ぅ」
 私は目を伏せた。
「良かったら送っていくよ」
「いえ、大丈夫です」
 本当は大丈夫じゃなかった。そんな私を見て、男性が言ったの。
「どう、食事でも。その後、家まで送るよ」

 何故。何故、私はついて行ったのだろう。

 初めて、優しく接してくれた大人の人。
 何も話さない私を気遣うように、楽しい話をし、御寿司を御馳走してくれた。
 私は知らない世界にドキドキした。もしかしたら、優しい父親って、こんな感じなのかと勘違いをしてしまった。
 御寿司屋さんを出て、『もう一軒、付き合って』と言われたわ。
 暗いサロンのような店。ソファ席で御酒を飲んだの。御酒は弱い方だとは思っていなかったけど、二口目を飲んだ時に、めまいがしたの。気分も悪かった。
 私が馬鹿だった。
 目覚めた時、ラブホテルの一室で夜が明けていた。
「イヤァ―ッ。服はっ。何処ぉっ」
 自分が嫌だった。
「あぁ。起きたの。夕べは楽しかったね。初めてだったの」
「私の服は」
「そこら辺にあるだろう」
 私は、いたたまれない気持ちで服を着た。
「帰ります」
「はぁ、大丈夫か。一文無しだろう。これ、持って行きな」
 私の手に五千円札を握らせる男性。
 自分が惨めだった。死にたいと感じた。
 私は走った。家に着くと、とにかくシャワーを浴びた。何もかも忘れて流してしまいたい。
 浴室から出ると、朝から御酒を飲んでいる母が言った。
「和子。朝帰りかい。どんな男だい」
 私は何も答えずにベットに潜り込んだ。

 毎日、仕事の事だけ考えて過ごした。
 忘れられるかもと思っていた。

 仕事帰り。赤信号。横断歩道の向こうに、彼が立っていた。
 健一さん。爽やかな笑顔の彼。私は自分が恥ずかしくて、顔を上げられない。信号が青に変わる。彼はすれ違った私の存在すら気づいていない。

 普段から生理不順だったこともあり、あの日から三ヶ月が経って気づいた。市販の妊娠検査薬の結果を病院で伝えた。
「うん。三ヶ月ですね。おめでとう御座います」
 何の疑いもない女医の言葉が突き刺さる。不安で呼吸が荒くなる。
 夕方に帰宅して、母に妊娠の事を告げた。
「あぁ、そう。どんな奴だい、父親は。稼ぎは良いのかい」
 十七歳で私を産んだ母は(たくま)しい。驚きもせずに平然と受け止めた。
「父親は関係ないの」
 私は言葉を濁した。
「何だい。一人で産むのかい。あたしゃ、面倒みないよ」
 煙草の煙を吐きながら、母が言った。母に面倒をみてもらうつもりは元々ない。
 堕胎する為に必要な事を考えていた。

 私は酔っぱらっている母の姿を見ながら、何で私を産んだのだろうと考えていた。
 今、私の御腹の中にある命は、父親の名前すら分からない子。ごめんね。

 四日後、珍しく酔っていない母が私に話しかけてきた。
「和子。あんた一人で大丈夫なの。あんたさぁ。山我のオジサン、知ってんだろう。あの人、今、関西で仕事しているらしいよ。あんたの事、話したら面倒みてもイイってよ」
 山我のオジサンは子供の頃から知っている。父の仕事仲間でもある。だけど、博愛主義者の親切心でない事は直ぐに分かった。私の母親は自分の娘に、親より年上のチンピラの情婦になる事を勧めている。
 その日の晩、朝まで眠れなかった。
 母は、母なりに心配しているのかな。母の価値観では普通の事なのね。
 子供をおろすか、山我のオジサンの所に行くか。その二つしか、選択肢が無いと、私は思っていたの。

 私は駅に向かったの。
 ヴゥワァンッ、バゥァタッァ、バゥァタッァ、バゥァタッァ、バゥァタッァ、プッゥワァー。
 暗い駅のホームに眩い光を放って、最終電車が入って来た。
 この電車に乗れば、今夜中には山我のオジサンの所に着く。

 ピィーッ。プィシュッゥ。 ドゥオッ。
 ドアが閉まり、走り去る電車。
 私はホームにしゃがみ込み、線路を見詰めていたの。
 プァーッ。
 遠くの幹線道路を通る車のクラクションだけが聞こえる。

 現実の世界は、何も起こらない。
 線香花火の火花が幾つもに枝分かれして煌めき、消えてゆく。
 私の名前は高橋和子。私は想像するの。朝日が大地を照らし、青い空が広がる世界。浜辺に吹く潮風が波の音を運んでくる世界。砂と海と大空だけの世界。
 パラレルワールドって、あるのかしら。幾つもの世界が存在する。もしも、出逢わなかったら。もしも、出逢っていたら。もしも、彼が私に気付いていたら。
 でも、現実は一つ。彼の世界に、私は存在しない。
 線香花火の火の玉が地面に落ちる。世界に夜が訪れる。

 私は、最終電車が走り去ったホームに、しゃがみ込み、線路を見詰めていたの。
 この後、きっと、私はコンビニで牛乳とパンを食べ、ネットカフェで仮眠をする。夜が明けたら山我のオジサンの所に行って、この街には二度と帰って来ない。
 これが現実。

「どうしたの。何か落とし物」
 男の人の声がした。見上げると、白く輝く満月に男性の影。笑顔の彼が。健一さんが私に話しかけている。
「君っ。この前、うちの工房を見ていたでしょう」
「えっ」
 彼は私に気付いていたの。
「これっ。僕が初めて造った線香花火」
 彼は右手を突き出した。右手に握られていたのは線香花火。まるで、彼と私の人生の糸が、こよりのように絡み合った線香花火。
 私が立ち上がると、彼が言ったの。
「良かったら、一緒にやらない。線香花火」
 今、現実の彼が私を誘っている。私は口元に笑みを造り言ったの。
「ありがとう。私、来年、御母さんになるの。だから、夜更かしは出来ないのよ」
 彼は右手を引っ込めて、照れくさそうに笑った。
「あぁ。ごめんなさい。そうですか。おめでとう御座います。お子さんが大きくなったら、是非、僕の造った花火で遊んでください。じゃぁ、お大事に」
 爽やかな笑顔で手を振り、走っていく彼。
 誰も居ないホームに秋の風が吹く。飛べなくなった夏のトンボが地面に落ちている。

「閉めまーす」
 駅員がやって来た。
 夏の終わり。私の線香花火が消えた。
 でも、大丈夫。彼が私に気付いてくれた。私は独りじゃない。
 空想じゃない、もう一つの現実の世界。
 強く生きなくっちゃ。今を受け入れて生きないと。この街で、この子を育てる。未来も過去も私が変える。

  ☆

 現実の世界は残酷だった。
 理屈じゃないの。
 月経の時に流れる経血の色をした赤黒い月が欠けていく。私を強姦した男の顔を持つ子供がジッと見詰めている。不安になり手のひらを見ると、私は血まみれの卵を抱いていた。
「ぃいゃぁっ」
 目覚めると、現実の世界が私を押し潰そうとして起き上がれない。

 産婦人科の医師に勧められてカウンセリングを受けた。
 二週間後に堕胎手術をした。

  ☆

 一年後。
 冷たい部屋に帰宅。灯かりのない部屋が暗闇に染まる。
 ラジオのスイッチを入れる。
 ヴゥ゛ッオァ。
『まず最初のメッセージはラジオネーム、イチライさん。僕にとって大切な人は何といっても、いつも僕を支えてくれる妻。そして、来月、産まれてくる子供です。って、イイですね。いつまでも仲良くね。それでは次のメッセージ、』
 ラジオのコメンテーターの声が暗く狭い部屋に響く。
 私と世界が繋がる。
 インターネットの掲示板を開く。青白い光に照らされる小さな部屋。
 カチャ、カヤャ。
『コンバンワ。イチライさん。いつも素敵な書き込み、アリガトウ。貴方の書き込みがラジオで読まれると何故か、私まで嬉しくなっちゃいます。来週のラジオのイベントにはイチライさんも参加なさるんですか。もしかしたら、御逢い出来るかも知れませんね』
『アンネさん、メッセージありがとう。僕はパーティーやイベントが苦手だけど、少しだけ顔出してみようかな』
 私のメッセージに返事が来た。私は少しだけ幸せな家庭の人を感じてみたかったの。

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