4.いちたすいち

文字数 4,210文字

 時刻は夜八時を回っている。

 片側二車線の国道は、家路を急ぐ車列で渋滞気味だ。

 その流れに逆らって、ぎらつくライトに目を細めながら、利奈は一心にペダルを漕ぐ。

 明日香の家と思われるマンションは、国道に沿って進み、交差点を左折し、住宅街を抜けた坂の上にある。仰ぎ見ると、それらしき建造物の明かりが夜にぽつぽつと灯っている。まるで星の光のようで、距離はそう離れていないのに、ひどく遠くに思える。

(明日香……)

 利奈はひとつ長い息を吐くと、交差点の横断歩道を勢いよく渡った。

 住宅街はひっそりと静まり返っている。道を一本入っただけなのに、国道の喧騒はボリュームを失い、もやがかっている。出歩いている者はいない。夕食後の団らんの声が、かすかに聞こえてくる。ギアの軋る音が、街灯と街灯の隙間を繋いでいく。

 ゆるやかなカーブに差しかかる。孤の終端が、坂の登り口だ。

(あっ)

 利奈は思わずブレーキをかけた。

 登り口の傍らに、小さな公園があった。遊具は、ぶらんことすべり台が一つずつ。もちろん、子どもの姿はない。

 それらに寄り添うようにして、大きな桜の木が立っていた。

 ごつごつとした表皮から、樹齢を重ねたものであることが知れる。遊具の上に長く張り出した枝には、花びらが残っていた。風もなく、揺れもせず、静かに咲いている。

 闇を白く染めて、春はまだ、ひっそりと息づいていた。

 利奈は、しばし見惚れた。

 そして、

と手を合わせると、マウンテンバイクを降り、押しながら坂を駆け始めた。

 明日香たちが話していたとおり、坂はかなりの急勾配だ。額に汗がにじみ出す。脚の筋肉が引き攣る。だがひと足ごとに、マンションのエントランスが近づく。

(もう少しだ……)

 己に鞭を入れて、利奈は坂を登り切った。息を整え、目の前にそびえる十階建てを見上げる。象牙色の外壁は、中東の宮殿を思わせる。利奈の住む安普請とは雲泥の差だ。

 どこかの部屋に、明日香がいる――はずだ。

 建物の隅にマウンテンバイクを停めて、エントランスに入る。華美ではないが、さりげなく置かれた調度品の中に高級感が漂っている。

 ドアはオートロックだ。

 ずらりと並んだメールボックスを確かめる。各階五戸の全五十戸。端から順に見ていって……「桐生」の文字を目に留めた。三〇一号室。利奈はオートロックに部屋番号を入れ、呼出ボタンを押した。

 コール音が鳴る。

 一回。

 二回。

 三回。

 手のひらが湿る。

 四回目の途中で、相手が出た。

『……桐生です』

 明日香の声だ。安堵と緊張が混じる。利奈はマイクに被さるようにして、

「桐谷です、桐谷利奈」

 マイクの向こうで、息を呑む気配があった。

「話があるんだ、入ってもいいかな」

『――――』

 しばしの沈黙があって、ドアは開いた。

 エレベーターに乗って、三階で降りる。右手側のいちばん端が、三〇一号室だ。ドアの前に立って、もう一度息を整えて、利奈はインターホンを押した。

 ドアはすぐに開いた。明日香の顔が覗く。眼鏡越しに見える目は真っ赤だった。そこにいつもの鋭さはない。髪も無理矢理櫛を入れたようで、あちこちが乱れていた。利奈は逸らしそうになった視線を引き戻す。

(向き合わなくちゃ)

「遅くにごめん」

「ううん、どうぞ」

「あの、親御さんは?」

「出張中。今週いっぱいは帰ってこない」

「そうなんだ。……おじゃまします」

 リビングダイニングに通される。白を基調とした壁面には時計と静物画が一枚かけられているだけで、余計な装飾はない。家具も最小限必要なものがあるだけで、家族が住む家にしては生活感が希薄な印象を受けた。まるで、利奈と同じ独り暮らしの部屋のような。その中で、部屋の隅に置かれたパキラの鉢植えが、ただひとつ生き物の色を放っている。

 テーブルの上には、手を付けていない幕の内弁当が載っていた。温めたばかりのようだ。

「あ、夕飯まだだった?」

「うん、ちょうど食べようとしてたところ――」

 



 異質な音が響いた。それが自分の腹から出たものと気づき、利奈は思わず唸った。

(何でこのタイミングで……!)

「……よかったら、一緒に食べる?」

「え?」

「いま、あんまり入らないから、半分こしてくれたら助かる」

「……じゃあ、いただきます」

 そして利奈は、明日香と向かい合って、幕の内弁当を食べることになった。適当に切り分けて、つまんでいく。黙々と箸を動かしていると、自分が何をしに来たのか分からなくなってくる。けれど、不快な時間ではなかった。むしろ、どこか安らいだ気持ちになった。家族以外の誰かと食事を取るなんて久しぶりだった。明日香の箸遣いは細やかで、鮭の切り身が面白いようにほぐれていく。あまりの手際の良さに、意味もなく可笑しくなってくる。

「ふふっ」

 が、笑い声を立てたのは、明日香だった。

「ごめんなさい」

 慌てて俯く明日香に、利奈は首を振って、

「先、越されちゃった」

「あ……」

 明日香は、はっとして顔を上げた。

 その視線を利奈が受けた。

 一瞬の間があって、

 二人は、笑った。



 食後のお茶を飲み終えて、利奈はカップを置き、明日香に頭を下げた。

「明日香、さっきはごめん。あたし、ひどいこと言ってしまった。今日は、そのことを謝りに来たんだ」

 明日香は首を振った。

「いいの。わたしが悪いんだから」

「そうだとしても、明日香を傷つけたことは変わらない。あたしは、すごく後悔した。悪いことをしたと思ったから。悪いことをしたら、謝らなきゃ」つたない論理だと思いながらも、利奈は正直な思いを口にした。

「勝手な言い分かもしれないけど」

「……ありがとう」明日香の目が潤んだ。

「わたしも、謝らせて。あなたを怒らせたのは、悪いことだったと思うから」

「うん、ありがとう」

「ああ」明日香は眼鏡を外して、涙を拭った。

「ほっとしたら、また……」

「お互い、一生ぶんくらい泣いてるかも」

 そう言う利奈の声も震えていた。安堵しているのは利奈も同じだった。鼻の奥がつんとするのを、静かに堪えた。

「……わたしの両親、転勤族なんだ」明日香は言った。

「何年か置きに引っ越しがあって、わたしは幼稚園も小学校も中学校も、卒業まで同じところにいたことがなかった。勤め先は違うけど、今日みたいに二人同じタイミングで出張に行くなんてこともしょっちゅう。仕事が生きがいなの。帰りも遅いし、独りで居る時間の方が長い。ご飯もたいてい一人で食べる」

 どうりで、三人暮らしの家にしては生活感が薄いわけだ。利奈は明日香が一人で夕食を食べる姿を想像する。空間が広いぶん、侘しく思えてしまう。

「友達はできても、長くは続かない。どれだけ仲良くなっても、ある日突然離れ離れになってしまう。最初のうちは寂しくて、よく電話をかけていたわ。でもどこか冷めた気持ちが湧いてしまう。物理的な距離が空いてしまうことで、心の距離も空いてしまうの。そのうちに、どうでもよくなってしまった。いたちごっこの繰り返しに疲れてしまった。だからわたしは、友達をつくることをあきらめることにしたの」

 疲れてしまった――そこは、利奈と似ていると思う。

「でも、クラスメイトとは普通に話してるじゃん」

「何て言うか、職場で同僚とうまくやるみたいな感覚なの。波風立てないように、雰囲気を悪くしないように、最低限のことをしているだけ」

「そこは、あたしと違うな。あたしはそもそもうまくやろうなんて思ってない」

 利奈は、己のことを明日香に語った。自分の性格、周囲との軋轢、そして、はぐれものとして生きる決意。明日香は黙って聴き終えて、深いため息をついた。

「わたしと、全然違うんだ」

「そうみたい」

「あなたと始めて会ったとき――といっても、後ろから見ていただけなんだけど、同じような雰囲気を感じた。周りと深く関わろうとしない姿が、わたしと似ているのかもと思ってしまった。最初にあなたが気づいたとき、わたし、『何か用?』って言ったでしょ?」

「うん、覚えてる」

「嘘つきね、用があったのは、わたしのほうなのに。口にすべき言葉が見つからなかった」

 それは仕方のないことかもしれないと利奈は思う。「あなたもひとりぼっちなの?」なんて、あまりに不躾な質問だ。

「わたしは、あなたのことがもっと知りたい。友達になりたいの」

 明日香は、利奈をまっすぐに見て言った。鋭い瞳に、もう痛みは感じない。

 だが、利奈は不安だった。この場で首を縦に振ることは簡単だ。しかし利奈には、はぐれものとしての生き方が染みついてしまっている。簡単には変えられないだろうし、無理をして寄り添った先に不幸せな結末が待っているかもしれない。また明日香を傷つけ、悲しませてしまうかもしれない。それが不安で、怖い――利奈はそう言った。机の上に載せた手は、無意識に指を組み合わされていた。まるで接手(つぎて)のように、固く組み合わされている。

「だけど」指をほどいて、利奈は言葉を継ぐ。

「それでもいいなら、あたしは明日香の気持ちを受け止めたい」

 手を差し出す。

「友達になろう」

 明日香は一瞬固まって、その手を優しく握り返した。

「ありがとう」

 手のひらに伝わる熱は、利奈のそれと混じり、身体中を巡る。内側についた傷を埋めていく。視界が滲んで、利奈は、あたたかな涙をこぼした。明日香も泣いていた。二人は互いの手を握ったまま、ひとしきり泣き合った。

「……明日香、ひとつお願いがあるんだけど」

「ん、なに?」

「あたしのことは、利奈って呼んでよ。『あなた』じゃ、なんか――」

「夫婦みたい?」

「ぶっ!」

 思わず噴いた。

「それは不意打ち……」

「ふふっ、利奈、かわいい」

 明日香は明るい声で笑った。

 ――そのアスカさんというひとは、きっかけだったんだよ。

 利奈の脳裏に、雅子の言葉がよみがえる。この先自分がどうなっていくか、思い描くことはまだできない。だけど不安と怖れに抗った選択は、きっと何かを変えるはずだ。他人を受け入れるという、利奈が目を逸らし続けてきたことも、できないことじゃないと分かった。一足す一が二になることはないけれど、一と一のまま在ることはできるのだ。ここから変わらなければならない。少しずつでもいい、向き合っていこう。この心地よい熱を絶やさないように。

 今はまだ、はぐれていても、

(あたしは、もう独りじゃないんだ)

 それだけは確かだと利奈は思い、明日香に笑いかけた。
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