2.火傷

文字数 3,409文字

 週が明けて、授業が始まった。

 雨雲は東へと去り、綿毛のような陽気が、机に向かう生徒たちに降り注いでいる。

 利奈は板書された内容を、黙々とノートに書き写している。

 利奈は授業が好きだ。ノートを広げ、ペンを握り、知識に向き合う――そこに群れやはぐれは関係ない。国語以外は、おおむね得意。中でも数学は利奈の性分に合っていた。解は一つだけ。潔くて、快い。他人と絡まざるをえない体育や家庭科も、教科そのものは嫌いではない。

 しかし、今の利奈は違った。

 

板書された内容を、黙々とノートに書き写していた。

 授業に全く身が入っていなかった。せめて格好だけでも付けなければ、自分を保っていられなかったのだ。

 原因は一つ。

 じりじり。

 ちりちり。

 見えないナイフが背中を往復する。

 知覚できるほどに鋭い、真後ろからの視線。

 桐生――明日香。

 学校にいるほとんどの時間、利奈は彼女の目に(さいな)まれ続けていた。

 授業中はもちろんのこと、休憩時間や登下校時も、身体のどこかに視線が刺さる。その延長線上には、常に明日香の姿がある。利奈がそれを受けようとすると、明日香はふっと視線を逸らす。しばらくは途絶えるが、気がつくとまた、

 じりじり。

 ちりちり。

 そんなことが、朝から夕方まで続く。

(くそっ……)

 心中で悪態を吐く。指先が力み、シャーペンの芯が折れそうになる。

 言いたいことがあるのなら面と向かって言えばいい。間接的な悪意を向けられるのが、いちばん不愉快だ。嫌いなら嫌いでいい、ムカつくならムカつくでいいのだ。名前も分からない、得体の知れない感情をぶつけてくるな――。

 そして自然と彼女の姿を追うようになって、桐生明日香は、利奈と全く違う人間だということが分かった。

 まず、その目付きの悪さは不機嫌のせいではなく、生まれつきのようだ。ありがとうと言う時も、困ったなと言う時も、ほとんど変化がない。せいぜいが、嬉しいときに目尻に少し皺が寄るくらいだ。利奈の、意識的に他人を拒む目付きとは根本的に異なっている。

 それに、他人と交わることに抵抗は持っていないようだ。暇さえあれば本を読んでいる――文庫から新書まで選り好みせず――ので、自分の世界に籠っているかのように見えるが、話しかけられれば会話を続けるし、気の効いた受け答えもできる。相手のことを知ろうとするための問いも発する。

 だから周りも、戸惑うのは最初のうちで、だんだんと明日香に慣れてくる。普通のクラスメイトと同じように接し出す。

 はぐれているようで、はぐれてはいないのだ。

 そこがまた、利奈の(かん)に障った。

(偽物だ。そんなの)

 そして何より、明日香のことを思い返すたび、

 ナイフのような瞳。

 つややかに揺れる黒髪。

 ざらりとしたハスキーボイス。

 そんな()が不意に脳裏に差し込まれ、そのたびに呼吸が乱れ、心拍が乱れ、利奈は喘ぐように赤面してしまうのだった。

 今までに、こんなことはなかった。戦わずして負けているかのようだ。
 
 とても平静ではいられなかった。

 月曜日は耐えた。

 火曜日も耐えた。

 しかし水曜日、

(いいかげんにしろよ!)

 とうとう我慢できなくなった利奈は、放課後、明日香を呼び出すことにした。



 ホームルームが終わった直後、利奈は振り向いて短く告げた。

「ちょっと来て」

 一瞬動きを止めた明日香は、神妙に頷いた。理由も訊かないのは、何故呼び出されたのかは分かっているからだろう。

 鞄を掴んだ利奈は教室を出て、下校する生徒たちの間をすり抜けながら廊下を進む。振り向きもしないが、明日香がついて来ているのは分かる。

 じりじり。

 ちりちり。

 こんなときまで。

(ちくしょう!)

 利奈は乱暴に靴を履き換えた。(かかと)を踏んだまま、昇降口を出る。

 飛び込むように辿り着いた校舎裏に、人影はなかった。

 校舎は山の斜面を背負って立っているため、グラウンドや体育館などの広い敷地が必要な設備は正面側にある。裏側には倉庫くらいしかなく、滅多に来る用事はない。日当たりの悪い地面に、窓を抜けてきた夕陽が四角く滲んでいる。

 利奈は立ち止まり、明日香と対峙した。

 明日香も足を止める。

 互いの距離は、三メートルほど。お互い直接手は出せないが、詰めようと思えば詰められる、ギリギリのライン。

 利奈は腹に力を込め、声を出した。明日香のほうが頭一つぶん背が高いので、自然と見上げるかたちになる。

「あたしのこと、ずっと見てるだろ。何でだよ」

「…………」

 明日香は利奈を見据えたまま、うつむいた。そのまま、視線だけが利奈に向く。素直に見れば、恨み骨髄の三白眼(さんぱくがん)だ。しかし口から出た言葉は、

「……ごめんなさい」

「謝ってほしいんじゃない」

 利奈は切り捨てる。聞きたいのはそんな言い訳ではない。

「黙ってじろじろ見られんのは気分が悪いんだ。あたしのことが気に食わないんなら――」

「違う!」

 明日香は叫んだ。思いがけない強い口調に、利奈はたじろぐ。

「じゃ、じゃあ何なんだよ」

「……分からない」

 今度は突然に消沈する。

「はあ?」

「分からないけど……あなたのことが、気になるの。何をしているのか、何を考えているのか。そういうのが、全部」

 ぽつぽつと繋がれる言葉。ハスキーボイスは(かす)れて、今にも消え入りそうだ。利奈は困惑と不愉快さが入り混じって吐きそうになっていた。敵意でもない、悪意でもない、それどころか当人ですら何だか解っていない感情。そんなもの、責めようがないじゃないか。唾でもいいから吐きたいと思ったとき、

「独りでいるの、嫌いじゃないでしょう?」

 明日香は訊ねた。

「……だったら?」

 答えにもならない答えに、明日香は――目の端に、少しだけ皺を寄せて――、

「もしかして、わたしと似てるのかなって思って」

 そう言った。

 言ってしまった。

「そんなわけねえだろ!」

 絶叫は校舎の影に

した。息を呑んだ明日香に、利奈は畳みかける。

「似てるって? あたしとあんたが? 冗談だろ! あたしは見てのとおりのはぐれもの、誰とも絡まないし誰とも絡みたくもない。でもあんたは違う。クラスメイトとは切れてるようで切れてない。はぐれてるフリをしてるんだ! あんたみたいな偽物と、一緒にするんじゃねえよ!」

 容赦なく浴びせられる罵声。溜まっていたものが身体から抜けていく。

 そして利奈の心は――ぐちゃぐちゃになっていた。

 どうしてこんなにひどいことが言えるのか。思っているときは何ともなかったのに、本人にぶつけた途端、その思いの醜さが目の前に突き付けられる。(はら)の底が軽くなったぶんだけ、心はどんどん冷えていく。止めなきゃ――だけど口は意思と関係なく動き続ける。悪意が口から――いや、凍てついた心の奥から生まれる。新しく生まれている。

(このままじゃ……!)

 利奈は無理矢理に身体を動かし、拳でみぞおちを叩いた。

「ぐっ……」

 息が詰まる。悪意は止まる。思わず(つむ)ったまぶたで、明日香の姿が消える。()せて、息を吸い、吐き、まぶたを(こす)って開けた先に、

 明日香の、真っ青になった顔があった。

(きれい)

 場違いなことを思った瞬間、

 明日香のまなじりから、涙が落ちた。

 頬を伝い、顎に流れ、一滴、一滴、地面を濡らしていく。

「うっ……」

 利奈は怯んだ。

「ごめんなさい」

 謝ったのは、明日香だった。

「あなたを……怒らせてしまった」

 違う。悪いのは。

 乾上った喉は言葉を継げない。

 気づけば、

(あっ……)

 利奈の足は地を蹴っていた。

(だめだ、逃げちゃ――)

 もう止まらない。そのまま明日香の横をすり抜けようとして、

「あっ」

 利奈は脱げかけた靴につまづいて、つんのめった。

「危ない!」

 明日香が伸ばした右手が、利奈の左手首を掴んだ。

 手のひらから伝わる熱に、利奈の芯が

(うず)く。

 身体が引かれ、明日香に抱きとめられた。

 顔と顔が向き合う。

 鋭く、美しい娘の表情は、安堵と絶望に歪んでいた。

 利奈の全身から血の気が引いた。

(あたしのせいだ。あたしが、こんなふうにしたんだ)

 明日香の唇が開く。

 名を呼ばれると気づいて。

 腕を振りほどき、利奈は走り出した。

 背中越しに声が聞こえる。

 ――待って!

 ――桐谷さん!

 振り絞る懇願が遠ざかる。

 手首が()けるように痛む。

 ぼろぼろとこぼれる涙が、視界を塗りつぶしていく。

 言葉にならない声で自身を呪いながら、利奈は夕陽の中を走り続けた。
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