第2話 資産家探偵VS刑事

文字数 4,570文字



 花御堂は自らがこの1回無料券を書いたときのことを追想する。あれは3年ほど前のことだった。

 とある農村に探偵として仕事をしに行った花御堂は無事依頼を解決したものの、とある事情から菊岡たち使用人とはぐれることになってしまう。

 事件解決のために脳みそをフル回転させた花御堂は空腹が抑えきれなかったため1人で村の定食屋に入り、アジフライ定食を注文したが、食べ終わってから気付いたのだ。その店がカードを使えないことに。この花御堂理知也ここ10年は現金など触れたこともない。当然そのときも現金は持ち合わせていなかった。

 店を1人で切り盛りするおばあさんは今度寄ったときでいいよ、などと言ってくれるがそんなことはこの花御堂家次期当主として許せない。

 そんなところに助け船を出したのが上原晴彦であった。彼はアジフライ定食の代金――ちなみにこのときの代金は後々合流した菊岡がきっちり返済している――を立て替えてくれたのである。

 しかしそこは花御堂理知也。代金を立て替えてもらっておいてあとで返済をするだけなんて名前が廃る。菊岡が来る前に1回依頼無料券を手元の新書のカバー裏に一筆したため上原に手渡しておいたのである。そのときの上原が困ったような表情をしていたのは言うまでもない。

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「――というわけなんだ」

「そんなこともありましたねえ。まさか私が到着する前にそのようなやり取りがあったとは思いませんでしたが」と菊岡は目を細め懐かしそうに言う。

「てか10年間現金触ったことないってどういうこと? お金持ちとかそういう問題?」と由佳は怪訝そうに言った。

「待て。上原晴彦氏は一体どうなったんだ。言っておくが、いかに娘とは言え、彼に黙ってこの権利を行使することはできないぞ」

「父は……逮捕されました」

「ほう、人の良さそうな方に見えましたがな」と菊岡。

「でも、誤解なんです」

「まあ待て。そのあたりの話はあとで聞こう。晴彦氏は一体どんな案件で逮捕されたんだ」

「殺人です」

「ほう。では誤解だと言い切れるのはなぜだ」

「それは……。あの父に殺人なんて大それたことができるとは思えません」

「殺人者に足る人格なんてないと思うけどね」

 あざけるような花御堂の口ぶりに、由佳は不快そうに眉をしかめた。

「とにかく私が依頼したいのは父が殺人犯でないことを証明し、真犯人を捕まえてくれることです」

「いいだろう。もちろん。晴彦氏が殺人犯でないのならという条件付きではあるが、晴彦氏が殺人犯でないことと真相を明らかにしよう。またもし晴彦氏が殺人犯であればあらゆる角度からそれを反証し、その結論しかありえないことを君に納得させて見せる。
 そしてこれらの捜査および推理についての一切を無償で行うことを約束する」

「ありがとうございます」

 そう言って由佳は深々と頭を下げた。

「父が逮捕されたのは先週の土曜日のことでした。テレビでも報道されていましたが、県内のホテルで首なし死体が浴槽で発見された事件のことです」

「ああ。あの事件でしたか」と菊岡。「確かに逮捕されたのは上原何某さんという名前の方だったのを覚えています。それほど珍しい苗字ではありませんから、気にも留めませんでしたが。確か場所は関刺市(かんざすし)でしたな」

「報道では首を持ち歩いているところを逮捕されたんだったな」

「はい」と由香。

「まずは事件の概要を知る必要があるな」

「菊岡。車を出してくれ。いやその前に県警に電話だ」

「かしこまりました」



 菊岡の運転するやたら長い車が県警の前に停車すると、数人の警察官と思しき人物が由佳たちを出迎えてくれた。

 彼らの異様に腰の低い態度から彼らが出迎えてくれているのは一行ではなく、花御堂だということに気付く。

 そして3人はやたらやわらかいソファのある応接室に招かれた。

「ようこそお越しくださいました。花御堂先生」

 刑事部長と名乗る人物はそう言った。彼の隣りにはこの事件の捜査を担当しているという九島警部という人が同席している。

 九島警部は40代ぐらいでくたびれた雰囲気とくたびれた背広を着こなしてはいるが、その眼光の鋭さと深く刻まれた皺から油断ならぬ人物であることをまるで隠せていなかった。

 にこやかな偉い人達とは違って九島警部はこの状況が不満なのか、花御堂を値踏みするように見ていた。

「とくに疑問の余地を挟むような事件ではないと思いますがね。これが事件の調書です」

 そう言って九島警部は花御堂に紙の束を手渡した。

 花御堂はぶつぶつと呟きながらそれをすさまじい速度でめくっていく。

「――被害者は正木羽菜(まさきはな)。26歳。――県内在住、県内勤務のOL。――遺体は関刺市のチャンドラーホテル201号室の浴槽で発見。――死因は後頭部を何かに強打。――201号室に備え付けられている木製の机の角から微量な正木羽菜の血痕が発見されたため、この机の角に頭を。――死亡推定時刻は22日土曜日朝4時から6時の間。――ホテル浴室にて多量の血液が流れた痕跡があり、犯人は浴室にて首を切断。――201号室には昨夜22時25分から顔を隠した男女2人組が宿泊。――朝9時32分にチェックアウト。ただしホテル受け付けはこのとき女の姿を現認していない。――朝10時18分、ホテル客室係が浴槽にて正木羽菜の遺体を発見。――10時46分、上原晴彦は隣町の川で溺れる少年を救助。――駆け付けた警察官がホテル従業員の証言から犯人と上原晴彦の服装が類似していることに気づき、荷物を改めたところ発覚。――鞄のなかには正木羽菜の首、解体に使ったと思われる包丁や金槌。――正木羽菜の頭部の顔は金槌によって判別できないぐらい潰されていた。――容疑者上原晴彦は正木羽菜とは不倫関係にあったことを証言――故意ではなく、別れ話をきっかけにした口論から取っ組み合いになり、その挙句の事故。なるほど」

 花御堂はそう言って一息ついた。

「おわかりいただけましたか。犯人は上原晴彦以外にはいませんよ。決定的な証拠もあり、自白もある。もちろん自白の強要なんてしていませんよ」

「そうでしょうか。この調書にはいくつか不自然な点があります」

「ほう。では、ぜひそれを聞かせていただきましょうか」

 九島警部はそう言って挑戦的な笑みを浮かべるのだった。

「上原晴彦さんはホテルにチェックインしてからチェックアウトするまでにどこかに外出した形跡はありますか?」

「それは監視カメラを精査する必要がありますが、ホテル従業員の証言によると上原は外出していないとのことです」

「つまり上原さんは包丁や金槌を事前に持っていたことになります。仮にホテル従業員の目に留まらず外出していたとしても朝の早い時間、ろくに金槌や包丁を調達することはできなかったでしょう。これは計画性を匂わせますが、上原さんは事故だと述べています」

「それがどうしたというんですか」九島警部は不愉快そうに言った。「そんなことには我々だって気付いている。この事件はもちろん計画犯罪です。上原は少しでも罪を軽くしようとそんなことを述べているのでしょう」

「計画殺人だとすれば死因の件はどう説明します。何か鈍器によって頭を殴りつけた場合と転落などによって頭のほうから何かにぶつかる場合では傷の具合が違うはずです。監察医もそうした観点から後者だと判断したはずですよね。
 計画殺人だとして相手の頭部を机に打ち付けて殺害するというのは不自然ではないですか。上原さんには包丁という立派な凶器があったというのに。上原さんの身長は172cm、正木羽菜さんの身長は170cm。男女差があるとはいえ、上原さんがさほど有利だとは思えません。
 しかし正木さんの身体には生前包丁によって付いた傷はないともあります。これが計画殺人であれば上原さんが正木さんを殺害する上で包丁を用いないのは不自然です」

「仮に捕まったとしても後で事故だと主張できるように意識を失った正木の後頭部を机の角目がけて落下させた、とも考えられる」

「あとで事故だと主張するのであれば上原は一度で相手を絶命に追いやる必要があります。いくつも傷がついていれば、それは故意性を疑われます。それほどうまくいきますか」

「それだけの価値のあるトリックだ。何よりうまくいかなくても元々殺人なのだ。やらないより悪い方向には転がらない。仮に机に何度か打ち付けたとしても明らかな凶器を用いていないことにより、突発的な殺人だったと言い張ることもできる」

「九島警部。あなたのおっしゃるところの上原垂涎のトリックがせっかく成功したのに、なぜ上原は包丁や金槌で死体を損壊したのですか」

「――――」
 九島警部は絶句する。

「それと正木の意識を失わせてといいますが、一体どのようにして失わせたというんですか」

「花御堂さん」と九島警部は自嘲気味に笑う。「貴方も意地が悪いな。もう私の説は無理筋だとここにいる誰もがわかっているはずなのに。まあいいでしょう。ディスカッションには付き合いますよ。
 スタンガンや睡眠薬というのが一般的でしょうか」

「スタンガンも睡眠薬、その容器ですらホテルの一室や上原の所持品からは発見されていない」

「一応言っておきますが、それぐらいはどこでも処分できたはずだ」

 2人の反論は先ほどまでのように相手の意見を否定しようというものではなく、まるで相槌のように共有したゴールへと二人三脚で歩んでいるかのようだった。

「一番の証拠物件である首や凶器を処分せずに、スタンガンだの睡眠薬の空容器だの些末な証拠品だけを道すがら処分していくというのは合理性に欠けますね」

「アルコールという可能性は? アルコールならチェックイン前にどこかで飲んできたのかもしれない。いや睡眠薬でも遅行性のものなら」

「しかしいずれも体内からは検出されていないようですね」

「やれやれ。この短時間でよく読んでいらっしゃる」

「加えて計画殺人だとすれば上原の行動があまりにずさんな点も気になります。22時すぎからホテルに入っていたのだとすれば、朝4時以降などという時間ではなく、もっと早く正木を殺害するべきだった。
 そうしていれば現場でもっと余裕を持って隠蔽工作ができた。あるいは客室係が発見するまでの間にもっと遠くへ逃走して、いっそ首をどこか安全な場所に遺棄することもできたはずなんです」

「――花御堂さん、あなたは正木羽菜殺害の犯人は上原ではないと考えているんですか」

「いえやはり何らかの形では関わっているでしょう。どこかで死体の入ったカバンを渡されて、その人物をかばっているだけなんてことはないはずです。おそらく共犯でしょう。計画的な共犯か、突発的な共犯かはまだわかりません。
 しかし私の勘が正しければ主犯は上原ではありません」


「洗うべきは正木羽菜を殺害する動機のある人間、そして上原晴彦と共犯関係を結びうるような人間でしょうな」
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登場人物紹介

花御堂律哉

探偵。花御堂グループの御曹司。地に足のついたタイプの推理。

上原由佳

高校生。依頼人。

上原隆之

心臓外科医。神の右手と呼ばれる。由佳の叔父。

内田刑事

県警捜査一課の新入り刑事。九島班。

九島警部

県警捜査一課所属の警部。

白瀬

花御堂家に仕えるメイド。家事はそれほど得意ではない。

菊岡

花御堂家に仕える執事。家事から車の運転まで日常生活のあらゆることをハイスペックにこなす。

三角綾子

隆之の婚約者。隆之の勤務する来津中央病院の経営者一族の令嬢でもある。大学院でドイツ文学の研究をしている。

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