第1話

文字数 2,023文字

「よいか、けっして頼朝どのに楯突いてはならぬ。目立たぬよう、阿呆(あほう)のふりをしておれ。たとえこのさきいかなることが起きようとも、生き延びることを第一とせよ」
「はい、父上」
 それが、父・源義仲との最後の別れであった。
 和睦の証として、対立する源頼朝のもとへ身を預けることになったのだ。頼朝の幼い娘である大姫の婿として、との建前であったが、要は人質である。このとき源義高は十一歳、大姫にいたっては、いまだ年端(としは)もゆかぬ六歳であった。
「よくぞ参られた。慣れぬ土地でさぞ窮屈であろう。望みがあれば遠慮なく申されよ」
 このかたが、鎌倉殿。如才なく礼を述べながらも義高の心中は複雑なものであった。山村で育ち、とかく荒々しく無骨な父とはまったく異なる風格の持ち主である。そんな義高の胸のうちと同じく、頼朝のほうでも意外に思ったらしく、礼を尽くす義高の姿に意味ありげな眼差しをくれた。
「利発そうな目をしておる。義仲どのもさぞ期待されておろうよ」
 阿呆になれ。父の言葉が蘇る。沈黙を続ける義高に、わずかに口許を緩めると
「大姫はまだ幼い。義高どのには退屈な相手であろうが、お頼み申す」
 と告げて頼朝はじっと彼を見つめた。

 大姫は愛らしい娘であった。
「義高さま、義高さま」
 そういってまとわりついてくる大姫を、はじめのうちはうっとうしく思い、邪険(じゃけん)に扱っていた義高である。それでも、義高の複雑な立場を理解しているのか(いな)か、無邪気に懐いてくる幼子(おさなご)をまえに、かたくなであった自分の心もしだいに溶かされていくのがわかり、それがなおさら義高の胸のうちを複雑にする。
「義高さま、おかげんがわるいの?」
 しばしもの思いに(ふけ)る義高に、気遣わしげな顔をして大姫が尋ねる。
「いいえ、どこも悪くはございません。お心遣い痛み入ります」
 いたいけな幼女にそのような心配をかけたのがいささか気恥ずかしく、義高は素っ気なくそう応える。大姫は、濁りのない大きな瞳でじっと義高を見あげる。この瞳が、義高はどうにも苦手であった。愛くるしい姫であるのに、その瞳の奥に、どうしても頼朝の姿を見てしまうのだ。そのようなはずはないと理解しているのに、この大姫を通じて、わが身の一挙手一投足すべてを頼朝に把握されているのではないかという不安に駆られる。だから、たとえ幼子であろうとも、迂闊(うかつ)なことは口にできない。
「義高さま、大姫はわがままでしょうか」
 ふいにそう問われて義高は目をしばたたく。
「いいえ、そのようなことはございません。なぜそのようにお考えですか」
「大姫は、義高さまをお慕いしております。ですから義高さまのおそばにありたいのです」
 突然の想いの吐露(とろ)を受けて、義高は驚きのあまり言葉をうしなう。
「けれども、義高さまはきっと、大姫のことをお好きではありません。それでも大姫は義高さまのおそばにいたいのです」
 なんということか。義高は絶句したまま、あどけない大姫の顔をまじまじと見つめる。いまの大姫の言葉に、その瞳に、いつもの頼朝の影は微塵(みじん)もない。正真正銘、大姫のまことの想いであると疑う余地などない。
 胸が詰まる。義高はうつむいて口許を押さえた。息を整えようと試みるが、かなわず、両の目から熱いものがあふれだす。
「義高さま?」
「この義高にはもったいない、ありがたきお言葉」
 源義高は武士の子である。ひとまえで、それも女人(にょにん)のまえで泣くなどあってはならない。それでも、いま、この幼い大姫によって彼は救われたのだ。不確かな身である義高が、ここに来た意味があるのだと。
 義高はこのときはじめて心の底から大姫をいとおしく思えた。

 翌年、明けてまもなく、源義仲が頼朝によって討たれた。これにより義高の立場は非常に危ういものとなる。義高の身に危険が迫りつつあることを知った大姫は、頼朝の目をかいくぐり、義高を鎌倉から脱出させた。まだ暗い明け方、女房姿に扮した義高を送り出す。時間を稼ぐため、義高の側近である海野幸氏を屋敷に残らせ身代わりを立てた。
「どうぞ、ご無事で」
 心優しい義高は自分だけが逃げ延びることに良心の呵責を覚えたが、それを断ち切らせたのは大姫である。命より大事なものはない、と。
「大姫は、いつまでも義高さまをお慕いしております」
 いつまでも。
 その言葉に偽りはなかった。
 策略を知った頼朝はすぐさま追手をかけ、やがて逃亡中の義高を討ち取る。それを聞いた大姫は嘆き悲しみ、ついには心を病んでしまう。そのさまは痛ましく、母である北条政子は、義高を討った者の不手際で大姫を苦しめたと激怒し、頼朝をなじった。その剣幕はすさまじく、さしもの頼朝も折れて、義高を討ち取った者を始末せざるを得なかった。
 その後も大姫は悲しみにくれ、喪に服し続けた。頼朝や政子がなんとか大姫を縁づかせようと奔走したが、かたくなにそれを拒み、やがて床に伏すと、その生涯を閉じた。
 享年、二十歳。
 ひたむきに義高だけを想い続けた大姫の生涯であった。
 
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