いしもと ふみひろ

文字数 1,341文字

風邪をひいた。

実に2年ぶりだ。
鼻水も出る。咳も出る。熱もある。フルコンボだ。
こんな夜はゆっくりと40度に設定した湯船に入り、体の芯が温まった状態で布団に入りたい。
喉がイガイガする。狭くなったと自分で実感できるほどの気道付近に遺物が付着しているのを無視できず、思わず洗面台に吐き出した。
黄色い。


–−−また来たな。
また私の頭の中にあの男が蘇ってきた。石本文大、同級生だ。
彼は何歳になっても石のような丸坊主だった。背筋がスッと通った正しい姿勢で歩く姿が凛々しかった。両親は確か教員でいつも「正しい」を顔に貼り付けたような顔をしていた。彼の姉もやはり、いつも「正しい」顔をしていた。
彼は女性と話すのが少し苦手な様で、よく周囲の女子に気味悪がられていた。読む本も少し周囲とズレていたり話す言葉も理解できないものが多かった。でも私は彼と話すのが好きだった。彼が魅力的に見えた。訳の分からない単語を聞き流しながら、理解できている様な顔をして彼のそばにいた。彼と話していると自分が大人になった気がしたのだ。今思えば何が大人だ、と鼻で笑いたくなるのだがあの頃の私にとってそれが一番優越感に浸るために必要なことだったのだろう。ちゃんちゃらおかしい。

ある冬の寒い日だったと思う。校舎の窓ガラスの内側が結露し曇っていて、湿気のせいで廊下を歩くと上履きがキュッキュと鳴くのが鬱陶しくなるくらい寒い季節だ。
「文大おはよう。」
朝彼の姿を見つけてすぐに声をかけた。だが彼からの返事はない。いつもなら石のような坊主頭を少しだけこちらに向けおはようと返してくれるのだ。
「どうしたの?」
と聞くと彼は咳き込んでからこう言った。
「風邪だ。」
それは大変だ。
「お大事に。」
と声をかけたすぐ後に始業のベルが鳴る。風邪をひいていても彼の背筋は真っ直ぐだ。こちらをチラッと見ただけでニコリともせず、彼は自分の席へと歩いて行ってしまった。

次の日も、その次の日も、彼は風邪をひいていた。相変わらず背筋は伸びていたが、いかんせん辛そうに見える。何かの集会があるため体育館に向かう最中に私は咳き込んでいる彼に再び声をかけた。
「休んだら?」
すると彼は初めて表情を崩し穏やかにこう言った。
「僕が背負うはずの将来が、今ここで立ち止まることによって少々遠のいてしまう。」
ああ、かっこいい。こういうところが好きだ。意味不明な集会のためにここまで命をかけられる彼が好きだ。うっとりと見つめているとまた彼が咳き込み出した。
「大丈夫?」
そう声をかけたその瞬間彼が、学校のあの銀色の、何人も並んで使えるようになっているあの手洗い場の、あの左から二番目の場所に、カーーッぺッと異物を吐き出した。
彼が吐き出したそれは黄色くはなく、赤いともとれるがピンクに近いような、なんとも言い表しにくい色だった。

彼との記憶はここで止まっている。ということは私は彼との接触をやめたのだろう。いや、正直に言おう。汚い、と思ってしまったのだ。あの彼が吐き出した異物を私は忘れられない。20年間ずっと風邪をひくたびにあの異物が頭の中に蘇る。今日もそうだ。

私は自分の喉から出た異物が黄色いのを確認して安堵し、小学校3年生の恋愛ですらないかもしれなかったあの感情と共に水で流す。早く治そう。


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