みずの たかし

文字数 3,012文字

バレンタインが近付いてきた。
テレビやコンビニの広告、スーパーも駅も日々通り過ぎる色んなところからチョコレートの匂いが溢れ出てきそうだ。

女の子にとってバレンタインは決戦の日だ。
受け取ってもらえるだろうか、食べてくれてるだろうか、手紙は読んでくれるだろうか、ドキドキしながらそして少しワクワクしながら準備を整え14日を迎えるのが好きだった。
当日は何かの戦いに行くような気持ちで家を出る。
一年に一度のありったけの気持ちを込めた甘いチョコレートを持って。

変わっていると自覚しているが私は、無事に渡せたチョコレートのことよりも、渡せなかったチョコレートのことを思い出す。当時専門学生だった私はある人に恋心を抱いていた。私の好意は受け取ってもらえなかったが届くには届いていた。というか、彼の方が受け取れる状況ではなかったのだ。
私のビターな思い出の相手は14歳年上の33歳。水野孝志、独特の雰囲気を纏う大人の男性だった。髭もタバコもピアスも車も、まだ何も手にしていない19歳の私にはすごく魅力的に思えた。左手の薬指の指輪さえも・・・。

彼とは特別印象的な出会い方をした覚えはない。確か友達数人と大して歌いもしないのにダラダラするためだけに入った学校近くのカラオケ店で、おじさん連中からナンパされそのまま合流することになった時だったと思う。そのメンバーの中に彼がいた。何人かの一番後ろを歩く彼は周囲よりも少し背が低く静かに笑うタイプだった。それとは対照的に火照ったからなのか日焼けなのか、赤いりんごのような頬が可愛く思えて何度も彼を見た。大勢いる部屋の対角線に座っていた私たちの目は本来合うはずもないのだが不思議と見つめ合う時間が生じる。その日彼と会話した記憶はない。でも私たちが惹かれ合うには十分すぎる時間だった。
思えばこの日で止めておけばよかったのかもしれない。再会など願わなければよかったのかもしれない。後悔先に立たず。数日後私たちは再会することとなる。

「あれ?水野さん?」
二度目に会ったのは、中学時から日課になっていた夜のジョギングの最中だった。雨が降っていない平日の夜はできるだけ走るようにしている。その日はなんとなく遠くまで行きたくなって、通っていた小学校まで足を伸ばしたのだ。ナイターのついたグラウンドの端でビクッと肩を上げて恐る恐るこちらを振り返る彼がひどく滑稽に見えて思わず吹き出した。
「びっくりさせちゃってごめんなさい。」
素直に謝ったあとで、また笑った。初めて言葉を交わしたにも関わらずひどく盛り上がる。趣味から始まり日々のたわいもない話。勉強の悩み、将来のこと、友達関係や恋愛の話。思えばほぼ私が話していたような気がする。いつの間にか時計の針は23時をさしていた。
「誰もいなくなっちゃいましたね。」
聞けば少年野球の監督をしているという彼は、決まった平日の夜ここで小学生に野球を教えているという。21時過ぎまでチラホラ見えた子供たちもいつの間にか姿を消していた。水野さんはその日初めてスマートフォンの画面を確認すると
「送っていくよ。」
と優しく言った。私はスマートフォンを持った彼の左手の薬指に光る指輪の存在を改めて確認してからいけないことだと分かっていながらこう答えた。
「送りはいいので、その代わりまた来週。ここで。」
彼が静かに笑った。

それから何度か同じ逢瀬を繰り返し、少し欲張りになった私は彼に問いかける。
「また来週も会える?」
いつの間にか敬語は消え、呼び方も水野さんから孝志に変化した。吸っているタバコの銘柄も知った。好きなコーヒーも、乗っている車の車種も、使っている香水も。色んなことを知った。知るたびに強く惹かれた。週に一回のたった二、三時間で私たちの距離はこれ以上ないくらいにまで縮まっていたように思う。お互い確信的な言葉はなかったものの、同じ思いだったと信じたい。
彼は少し困った顔をしていつもと同じ返事をする。
「待ってるよ。」

私たちに身体の関係はない。詳しく説明すると、触れたことすらなかった。このままキスでもしてしまえるんじゃないかと思うくらい距離が縮まったこともあったが、それでも彼は私に触れなかった。そして私もその壁を越えることは決してしなかった。彼のリンゴのような赤い頬に触れたいと思ったことは何度もある。でもその度に私の中の何かがストップをかける。これ以上踏み込むな、と。

19歳といえど、まだ青かった私は次第にその壁を超えてみたくなる。見るなと言われたら見たくなるのが人間の性分だ。バレンタインという恋人にとって一大イベントを控えた冬のある日に私は自分でも信じられない賭けに出る。

「ねえ、もうすぐバレンタインだって。」
そう言うと彼はわざとらしく日付を確認してから言った。
「そうね。チョコなんて何年もらってないかな。」
話題に食いついてきたことを嬉しく思いながら私は畳み掛ける。
「欲しい?」
「え?」
「だーかーらー、欲しい?って聞いてるの。私からのチョコ。」
彼は一瞬戸惑ってから答えた。
「・・・くれるなら。」
内心ガッツポーズをしながら続ける。
「どうしようかな〜。」
悪戯っぽく笑った私を訝しんだ目で見る彼。
「ありったけの愛込めるから、その代わり今ここでキスして。」
そう言った私をびっくりした目で見ながら彼が言う。
「さすがに・・・」
言い終わる前に私が言った。
「その先の言葉、私は知ってる。」

時間が止まる。夜のシーンとした空気だけが二人の間を通り抜ける。冬の透き通った夜空が綺麗だった。触れたいと思う気持ちが増した。結ばれないと結末が分かりきっているこの恋に、こんな素敵な夜は似合わないと思った。近いようで絶妙に空いた彼との隙間を埋めるように私は彼に初めて触れる。愛しくて仕方なかったリンゴの頬に。
私の目の前が夜空よりも暗くなって唇と唇が重なったのは、そのすぐ後だった。

バレンタイン当日。その日は2月の14日ではなかったかもしれない。でも彼に会える14日の週は私にとっては決戦の日だ。ありったけの愛を込めたチョコレートを持って家を出る。弾む息を整えながらいつもの場所に向かう。受け取ってもらえるだろうか。美味しいと言って静かに笑ってくれるだろうか。

結果から書こう。彼はいなかった。いつもの場所で私を待ってはいなかった。14日の週は毎日いつもの場所に足を運んだ。それでも彼の姿を見つけることはできなかった。私は気付く。結末など最初から分かっていたではないか、と。大人になった気でいた。彼の背景を理解し、責めない女であろうと努力した。無理な繋がりは求めなかったし面倒な女にならないよう細心の注意を払った。それでも私から贈られるチョコレートという有形物は、彼にとっての「リスク」でしかなかったのだと受け入れるのには随分と時間を要した。

3月に入り気持ちもやっと落ち着いた頃、また私はあのグラウンドに足を運ぶ。そこには前と変わらず彼の姿があった。抑え込んだはずの気持ちが一気に沸騰する。身体が熱くなって彼の名前を呼びそうになる。
「孝志!」
そう声をかけられたらどれだけ幸せだっただろう。でもそれは今だけだ。いずれ終わりを迎えるこの気持ちを、終点に向かって走らせる訳にはいかない。

私は彼に背を向け一歩足を踏み出す。今じゃない、どこか別の場所へ。

あのキスの味は私が作ったチョコレートによく合いそうな、ビターなコーヒーの味がした。



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