その音から始まった。
文字数 1,936文字
「あ,山江 さん,お疲れ様です。クリスマスイブまでレッスンお疲れ様です」
ピンク色のメッシュが入ったショートカットの女性が鍵を受け取り,手元のボードに時間を書いて紘一 に差し出した。
「まあ,普通の木曜日だし,しょうがないよね」と,紘一はため息まじりに笑って言いながら,渡されたボードとピンク色のペンを受け取った。細くて長い指でペンを握って,名字を走り書きした。
「羽瀬 ちゃんは?デートとか行かないの?」
「私は今晩スタジオで深夜練入ってて」
「オール?」
「もちろんです。クリスマスイブ,空いてるんですよ。みんな忙しいから。苦学生にはありがたい限りです」
彼女の胸元には『ギターフロア 羽瀬』と書かれたバッジが付けられていて,返されたピンク色のペンをその脇に挿した。
「今日とかって,お店はどうなの?楽器屋さんってクリスマス関係あるの?」
「どうでしょうね,普段と変わらないと思いますよ。今日も何本かギターのメンテ来てますし,小物は普通に売れてるって感じです」
夜7時の店内にはまばらに人がいて,音楽雑誌やピックなどの小物売り場が少し賑わっている。レッスンの受付とギターコーナーのレジを兼ねたこのカウンターには,小振りなクリスマスツリーが飾られていて,店内でも唯一クリスマスの雰囲気を漂わせている。
「今年はイベントもないし,淡々と明日も横浜のスクールでレッスンだよ」
「クリスマスの横浜は強烈ですね」
羽瀬は首を傾げながら笑って見せた。
「そうだ」
紘一はトートバッグからチョコレートの箱をとりだした。「メリークリスマスってことで」
「え,ありがとうございます」
羽瀬は紘一を見上げて,大きな瞳を輝かせていた。
「どういたしまして。今日のバイト誰がいるか分かんなかったし,当たり障りない感じで」
「すごい嬉しいです!」
紘一は小さく手を上げて,「じゃ,良いお年を」と言ってカウンターを離れた。
「あの。すみません」
「あ。はい!」羽瀬はカウンターの下にチョコレートを入れてから,客のもとに駆け寄っていく。
* * *
こうして鍵盤を見ると,本当に長いこと弾いていないことに気づかされる。燃え盛るような衝動に駆られて,その場でピアノ協奏曲を弾き始めるようなこともなかった。悲しい哉,鍵盤の次に見たのは値札である。
何気なく指を落とした
この曲は人生で最後に出た発表会で披露した曲だった。旋律と運指はなんとなく覚えていたが,一音目でここまで鮮明に思い出すとは思わなかった。
そのピアノ教室でも年齢も上から二番目の古参になっていた。ただ,とくにコンクールで賞を取れるほどの才能もなく,音大に進みたいという向上心もない僕は教室の中でも微妙な立ち位置だと気づいていた。後輩の中学生には優秀な生徒もいたし,唯一の先輩は音大に合格し,皆の憧れの的だった。
惰性で続けていたピアノを将来の夢にすることは到底できない。そして,周りに合わせて受験勉強をしないといけないような気もして,高校二年生のクリスマスイブに行われたその発表会を最後にした。
最後の発表会のあと,母に連れられて,先生へ御礼を言いに行った。
先生は僕を見るなり,抱きしめてきた。僕の身長は今と変わらず160センチそこそこで,ちょっと大柄な先生には包み込まれるようだった。
「圭さん,いつでも遊びにおいでね!」
母がつられて泣いているのが聞こえた。僕はなんの茶番だろうと思って「いやあ,はい」なんて答えたが,今思うとあれほど僕の存在を慈しんでくれた大人がいただろうか。13年間も怠惰な自分のことを毎週ほとんど叱らず面倒を見て,帰りにはいつも飴玉をくれた。
こうして鍵盤の前にいると,今になってもらい泣きしそうだ。
感傷に浸っているが,我に帰れば
そのまま電子ピアノからキーボード,気づけば鍵盤ハーモニカまで見ていた。そして,今の部屋のスペースや予算から考えて,キーボード売り場の隅に置かれた赤いキーボードに決めた。
「あの。すみません」
「あ。はい!」
レジにいた女性の店員は,髪にピンク色のメッシュが入っていた。彼女はカウンターの下に何かをしまうと,愛想の良さそうな笑顔を浮かべながら,僕のもとに駆け寄ってきた。
ピンク色のメッシュが入ったショートカットの女性が鍵を受け取り,手元のボードに時間を書いて
「まあ,普通の木曜日だし,しょうがないよね」と,紘一はため息まじりに笑って言いながら,渡されたボードとピンク色のペンを受け取った。細くて長い指でペンを握って,名字を走り書きした。
「
「私は今晩スタジオで深夜練入ってて」
「オール?」
「もちろんです。クリスマスイブ,空いてるんですよ。みんな忙しいから。苦学生にはありがたい限りです」
彼女の胸元には『ギターフロア 羽瀬』と書かれたバッジが付けられていて,返されたピンク色のペンをその脇に挿した。
「今日とかって,お店はどうなの?楽器屋さんってクリスマス関係あるの?」
「どうでしょうね,普段と変わらないと思いますよ。今日も何本かギターのメンテ来てますし,小物は普通に売れてるって感じです」
夜7時の店内にはまばらに人がいて,音楽雑誌やピックなどの小物売り場が少し賑わっている。レッスンの受付とギターコーナーのレジを兼ねたこのカウンターには,小振りなクリスマスツリーが飾られていて,店内でも唯一クリスマスの雰囲気を漂わせている。
「今年はイベントもないし,淡々と明日も横浜のスクールでレッスンだよ」
「クリスマスの横浜は強烈ですね」
羽瀬は首を傾げながら笑って見せた。
「そうだ」
紘一はトートバッグからチョコレートの箱をとりだした。「メリークリスマスってことで」
「え,ありがとうございます」
羽瀬は紘一を見上げて,大きな瞳を輝かせていた。
「どういたしまして。今日のバイト誰がいるか分かんなかったし,当たり障りない感じで」
「すごい嬉しいです!」
紘一は小さく手を上げて,「じゃ,良いお年を」と言ってカウンターを離れた。
「あの。すみません」
「あ。はい!」羽瀬はカウンターの下にチョコレートを入れてから,客のもとに駆け寄っていく。
* * *
こうして鍵盤を見ると,本当に長いこと弾いていないことに気づかされる。燃え盛るような衝動に駆られて,その場でピアノ協奏曲を弾き始めるようなこともなかった。悲しい哉,鍵盤の次に見たのは値札である。
何気なく指を落とした
ソ
の音が自分の周りに滲み入るように響く。そして,頭の中では続く音が流れて,ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を奏で始める。この曲は人生で最後に出た発表会で披露した曲だった。旋律と運指はなんとなく覚えていたが,一音目でここまで鮮明に思い出すとは思わなかった。
そのピアノ教室でも年齢も上から二番目の古参になっていた。ただ,とくにコンクールで賞を取れるほどの才能もなく,音大に進みたいという向上心もない僕は教室の中でも微妙な立ち位置だと気づいていた。後輩の中学生には優秀な生徒もいたし,唯一の先輩は音大に合格し,皆の憧れの的だった。
惰性で続けていたピアノを将来の夢にすることは到底できない。そして,周りに合わせて受験勉強をしないといけないような気もして,高校二年生のクリスマスイブに行われたその発表会を最後にした。
最後の発表会のあと,母に連れられて,先生へ御礼を言いに行った。
先生は僕を見るなり,抱きしめてきた。僕の身長は今と変わらず160センチそこそこで,ちょっと大柄な先生には包み込まれるようだった。
「圭さん,いつでも遊びにおいでね!」
母がつられて泣いているのが聞こえた。僕はなんの茶番だろうと思って「いやあ,はい」なんて答えたが,今思うとあれほど僕の存在を慈しんでくれた大人がいただろうか。13年間も怠惰な自分のことを毎週ほとんど叱らず面倒を見て,帰りにはいつも飴玉をくれた。
こうして鍵盤の前にいると,今になってもらい泣きしそうだ。
感傷に浸っているが,我に帰れば
ソ
を叩いたまま呆然とする27歳男性で,不審極まりない。そのまま,右手だけ手遊びで弾いてみるが,耳と指に微かに残るグランドピアノの感覚と違って,首を傾げてしまった。そのまま電子ピアノからキーボード,気づけば鍵盤ハーモニカまで見ていた。そして,今の部屋のスペースや予算から考えて,キーボード売り場の隅に置かれた赤いキーボードに決めた。
「あの。すみません」
「あ。はい!」
レジにいた女性の店員は,髪にピンク色のメッシュが入っていた。彼女はカウンターの下に何かをしまうと,愛想の良さそうな笑顔を浮かべながら,僕のもとに駆け寄ってきた。