第1話 心療内科に行ってみた
文字数 1,920文字
「荒井課長は若手クラッシャーだよ」
あらかじめそう聞いていたし、心構えもできていた筈だった。
マニュアルに無いレアケース対応を確認しに行くと、
「マニュアルに書いてあるだろ」
自分なりに判断して処理すると、
「どうして事前に確認しない、越権 行為だ」
残業の時呼び出され、1時間近く仕事の進め方について説教された。
そして解放された20分後、「処理した案件を出せ」と。
俺は「すみません、まだ」と言いかけたところで、
「いったい今まで何をしていたんだ!」
あなたの雑談を聞いていました。
課長は何らかの人格障害なのだ。
異動までの辛抱と思っても、次第に体調に綻 びが現れだした。
先輩が同情を交えながら、
「神崎、おまえロックオンされたな」
荒井課長から仕事の足を引っ張られダメ出しを受けるうちに、課長が誰かと話しているだけで俺の悪口を言っているのではと疑心暗鬼になり仕事に集中できなくなっていった。
歩き回る課長はまるで右翼の街宣車だ。
頻繁に起きる耳鳴りと頭痛、次第に考えがまとまらなくなってミスが増え、更に課長に攻撃され蟻地獄に落ちていくような感覚だった。手も震えるようになった。
「どうしたの? テレビもつけないで」
妻の亜香里 が髪の毛を拭きながら風呂から出てきた。俺はソファーでぼんやりしていたらしい。
「最近どうしたの、変だよ」
「……」
「正直に言いなさい」
「俺、課長に潰 される」
亜香里は仁王立ちで腕組みした。
「パワハラされているの?」
「うん」
亜香里とは半年前に結婚したばかり。本当はこんなカッコ悪い俺を見せたくない。
「具合悪いって、休んだら?」
「なにか具体的なちゃんとした病名が欲しい、内臓の病気だったらカッコつくんだけどな。今休んだらメンタルだって絶対バカにされる。評価も下がる……でももう無理、行きたくない。無理」
一度口に出したら我慢ができなくなった。
「じゃあ、私が考えておくから、晴斗 はお風呂に入ってきて」
「ねえ何か考えてくれた?」
風呂から出た俺は、年下の亜香里に子どものように尋ねた。
「会社には、熱があって新型ウイルスかもしれないって私が電話するよ。出勤停止で1週間くらい休める筈。1週間後も体調が悪いって連絡する。それで休めるだけ休もう。その間に心療内科に行ってお薬や診断書貰ってきなよ」
「電話、してくれるの?」
「まかせて。晴斗は安心してゆっくり寝なさい」
「うん」
亜香里が会社に電話し「熱と頭痛、ひどい倦怠感がある」と伝えると、即座に1週間休むように指示を受けた。特別休暇になるらしい。
そして俺は初めて心療内科に行った。
窓口で頭痛がすると伝えると、普段使っていないような古い別室に通され、年配の看護師さんからストレスチェックを受けた。それから診察室に入ると70代のお爺さん先生がいた。
俺は長期間休めてさほど体裁の悪くない『病名』が欲しいのだ。俺のニーズに応えてくれる先生でありますように。
「上司からのパワハラで頭痛、吐き気、耳鳴り、手の痺れ、食欲も無く眠れません。そのせいで考えがまとまらず仕事に支障をきたしています。診断書を出してください」
先生はカルテに何か書き込んだ。
「あの、診断書の病名はなんになるんですか?」
「あなたの場合、Ⅱ型鬱ですね」
鬱か。
職場に鬱で1年半休んでいるおじさんがいる。その人と同じくくりになるのは抵抗がある。
「もう少し、軽い病名はありませんか」
先生が怪訝そうな顔をした。
「じゃあ、自律性適応障害にしますか?」
それだ。その方がソフトでよさそうだ。
「はい」
「休職は半年間にしますね」
半年間か……ちょっと長いような気がする。
「あ、3か月ぐらいで」
先生は更に怪訝な顔をしたが、「3か月でいいの?」
「はい」
俺は6千円払って診断書と薬を受け取った。
出勤したら所属長に配置替えを直訴しよう。それが通らなかったらこの診断書を出して3か月休もう。そしてその間に息継ぎの仕方を思い出せばいい。
この時の診断書は、実は未だに自宅のレターケースの中にある。
何故なら俺の所属する部署に、政府要請による在宅勤務が導入されたのだ。俺が2週間休んでいる間の出来事だった。
平時に戻り、出社しなければならない頃には、診断書の有効期限は過ぎているだろう。
万が一配置替えをしてもらえなかったら、また診断書を買いに行ってそれを切り札にすればいいのだ。
診断書は、いざという時の避難経路を確保してくれるお守りのようなもの。
そして決して後ろ向きな心配をしない、頼りになる亜香里は俺の守護神だ。
今日は亜香里と散歩して、途中のコンビニで珈琲を買った。
珈琲の香り。雲の速度。足元を確認する。
在宅勤務中に、俺はやっと自分を取り戻しつつあった。
あらかじめそう聞いていたし、心構えもできていた筈だった。
マニュアルに無いレアケース対応を確認しに行くと、
「マニュアルに書いてあるだろ」
自分なりに判断して処理すると、
「どうして事前に確認しない、
残業の時呼び出され、1時間近く仕事の進め方について説教された。
そして解放された20分後、「処理した案件を出せ」と。
俺は「すみません、まだ」と言いかけたところで、
「いったい今まで何をしていたんだ!」
あなたの雑談を聞いていました。
課長は何らかの人格障害なのだ。
異動までの辛抱と思っても、次第に体調に
先輩が同情を交えながら、
「神崎、おまえロックオンされたな」
荒井課長から仕事の足を引っ張られダメ出しを受けるうちに、課長が誰かと話しているだけで俺の悪口を言っているのではと疑心暗鬼になり仕事に集中できなくなっていった。
歩き回る課長はまるで右翼の街宣車だ。
頻繁に起きる耳鳴りと頭痛、次第に考えがまとまらなくなってミスが増え、更に課長に攻撃され蟻地獄に落ちていくような感覚だった。手も震えるようになった。
「どうしたの? テレビもつけないで」
妻の
「最近どうしたの、変だよ」
「……」
「正直に言いなさい」
「俺、課長に
亜香里は仁王立ちで腕組みした。
「パワハラされているの?」
「うん」
亜香里とは半年前に結婚したばかり。本当はこんなカッコ悪い俺を見せたくない。
「具合悪いって、休んだら?」
「なにか具体的なちゃんとした病名が欲しい、内臓の病気だったらカッコつくんだけどな。今休んだらメンタルだって絶対バカにされる。評価も下がる……でももう無理、行きたくない。無理」
一度口に出したら我慢ができなくなった。
「じゃあ、私が考えておくから、
「ねえ何か考えてくれた?」
風呂から出た俺は、年下の亜香里に子どものように尋ねた。
「会社には、熱があって新型ウイルスかもしれないって私が電話するよ。出勤停止で1週間くらい休める筈。1週間後も体調が悪いって連絡する。それで休めるだけ休もう。その間に心療内科に行ってお薬や診断書貰ってきなよ」
「電話、してくれるの?」
「まかせて。晴斗は安心してゆっくり寝なさい」
「うん」
亜香里が会社に電話し「熱と頭痛、ひどい倦怠感がある」と伝えると、即座に1週間休むように指示を受けた。特別休暇になるらしい。
そして俺は初めて心療内科に行った。
窓口で頭痛がすると伝えると、普段使っていないような古い別室に通され、年配の看護師さんからストレスチェックを受けた。それから診察室に入ると70代のお爺さん先生がいた。
俺は長期間休めてさほど体裁の悪くない『病名』が欲しいのだ。俺のニーズに応えてくれる先生でありますように。
「上司からのパワハラで頭痛、吐き気、耳鳴り、手の痺れ、食欲も無く眠れません。そのせいで考えがまとまらず仕事に支障をきたしています。診断書を出してください」
先生はカルテに何か書き込んだ。
「あの、診断書の病名はなんになるんですか?」
「あなたの場合、Ⅱ型鬱ですね」
鬱か。
職場に鬱で1年半休んでいるおじさんがいる。その人と同じくくりになるのは抵抗がある。
「もう少し、軽い病名はありませんか」
先生が怪訝そうな顔をした。
「じゃあ、自律性適応障害にしますか?」
それだ。その方がソフトでよさそうだ。
「はい」
「休職は半年間にしますね」
半年間か……ちょっと長いような気がする。
「あ、3か月ぐらいで」
先生は更に怪訝な顔をしたが、「3か月でいいの?」
「はい」
俺は6千円払って診断書と薬を受け取った。
出勤したら所属長に配置替えを直訴しよう。それが通らなかったらこの診断書を出して3か月休もう。そしてその間に息継ぎの仕方を思い出せばいい。
この時の診断書は、実は未だに自宅のレターケースの中にある。
何故なら俺の所属する部署に、政府要請による在宅勤務が導入されたのだ。俺が2週間休んでいる間の出来事だった。
平時に戻り、出社しなければならない頃には、診断書の有効期限は過ぎているだろう。
万が一配置替えをしてもらえなかったら、また診断書を買いに行ってそれを切り札にすればいいのだ。
診断書は、いざという時の避難経路を確保してくれるお守りのようなもの。
そして決して後ろ向きな心配をしない、頼りになる亜香里は俺の守護神だ。
今日は亜香里と散歩して、途中のコンビニで珈琲を買った。
珈琲の香り。雲の速度。足元を確認する。
在宅勤務中に、俺はやっと自分を取り戻しつつあった。