第10話

文字数 1,062文字

 もはや時間も場所もはっきりしない。明るい方へと蛾が飛ぶように覚束なく足を動かすだけだ。朝の匂いがする。鳥が鳴いている。水の流れる音がする。水……木立が分かれて、光が波をつくる。透き通るほどの青い空を映して、銀に輝く水面が広がっていた。俺は駆け出したつもりでよろけ、泥に転び、子供のように這っていった。濁りの無いところまでいき、手に水を掬って口を付ける。海水だ。……海水だ!俺はぐらりと背を返して泥の中に座り込んだ。帰れる、これで出ていける。

「これがお前の内海か」
 風が吹いて(さざなみ)が起こり、光が弾けてさんざめく。その残照の中に、立ち上がった影があった。水面からの照り返しで表情は見えない。目も鼻も口も顎も首筋まで、鏡でできたように平らに輝いている。俺は、己れの思考が絶望に砕けた感触がした。血のこびりついた唇が、軋むように動いた。
「うせろ」
「ここをいくら進んだとて、外には出ない」
「黙れ!」
 ざばりと水を漕いで、その影を掴もうと沖へ進む。波は穏やかで、浅く暖かい海だった。子供の頃、あの貧しい漁村の浅瀬で遊んだ記憶が蘇る。かき分けられた水が優しく光を散らして、全身を撫ぜる。腕を伸ばして魔女の裾に触れたと思ったが、それは湧き上がる水の感触だった。
「湧いている……?」
「ここは大鑽井盆地の端、かつての海が陸とつながるところ」
 1億年前ここは海だった。やがて地殻変動により地表が持ち上がり外洋と隔絶され、干上がって厚い砂岩層に覆われた。しかし海底であったところの地下深い粘土質は、水を貯めるのだ。この乾いた広大な地域に動植物が生息できるのは、このかつての海が大量の水を溜め込んでいるためである。地下の海には、古代の海洋動物たちが埋まっている。それから、オパールもだ。何を言っているのか分からない。もう何も分からなかった。俺はこの土地のものではないのだ。俺はここにはいられない。
「帰してくれ、帰してくれ!!」
 叫んで縋ろうとしても、魔女はもう虹のように薄れて立ち去るところだった。透明よりも輝きの冴える水面に、自分の影が映っている。穏やかで美しい水に包まれて、俺は泣くこともできない。この土地はそうして何千万年も生き物を慈しんできたのだろうに、それが在り方であるのに、俺は人は、己れのことしか見ていないのだ。己れの知っていることからしか、解釈できない。受け入れようともしないのに、受け入れてもらえる訳がない。どんな地図を描こうとも、誤りだ。内海は絶対に見つからない。

あばらの浮いた腹から、あの石が転げ落ちて、輝きの中に沈んでいった。
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