第1話

文字数 2,462文字

 校庭脇の木蓮が、昨夜の雨で散ってしまった。校舎屋上からは、まだ湿ってべたつく校庭で、文句と歓声を上げながら走り込みを始めているラグビー部とサッカー部の男子たちがよく見える。
「菅原先輩も発声やりましょうよ〜」
 短くした制服のスカートのままストレッチしながら、高井ちゃんが言う。
「私は引退したんだってば。手伝うのは裏方だけだよ。今日は倉庫で音響効果のCD見つけたから、持ってきたの」
「うわあ、これまた古そうですね」
 宮下くんが埃っぽいCDを受け取り、小嶋くんと顔を見合わせる。すみませんねえ、新しい音源買う予算が無くて。
「先輩、昨日見学に来てくれた子がいたんですよ〜」
「入部してくれそう?」
「屋上で練習してるとこ見て引いてましたけどね……」
 宮下、お前は副部長だろう、高井新部長の報告に水を差すんじゃない。県立十葉高校演劇部は、由緒正しい弱小部である。数年前にとうとう部員が途絶えて、あえなく潰れてしまった。ひとつ上の先輩たちが頑張って立て直したものの、またもや私たちの学年は3人しか入部せず、昨年は私が部長をやるはめになった。新二年生は幸いなことに7人いるが、ほとんどが掛け持ちである。実績は無く、部室も無ければ予算も無い。それでも部員はみんな仲良しだし、練習にもそこそこ熱心だし、何よりも演劇が好きだ。だから、部長として報いることができなかったことが心残りなのだ。屋上の水溜まりに、色褪せた春空が映っている。ああやだ、高校三年生なんて、進路にぐだぐだする灰色生活が待っているとしか思えない。

「じゃあね。舞台稽古の時は声かけて」
 全く調子も合わず発声練習を始めた後輩たちに手を振り階段へと戻る途中、渡り廊下で繋がっている隣り校舎の屋上で、物陰に制服のスカートが揺れているのが見えた。思わず立ち止まり目を細めて見ると、知っている横顔が煙をくゆらせていて、驚いて名を呟いてしまう。
「藤堂さん」
 藤堂さんは、インターハイではあまりぱっとしない十葉高校でも、県何位という成績を持っている卓球部員だ、ったはずだ。隣りのクラスでも知っているくらい有名だが、接点は特に無い。肩にかかる髪をさらりと揺らして、眠たげな目がこちらを向いた。

「演劇部が屋上で練習してるって、ホントなんだね」
 薄い唇から朧ろのように流れるメンソールの煙。クールで人望の厚い優等生だと思っていた藤堂さんの意外な様子に、ふらふらと引き寄せられてしまう。
「藤堂さんは、ここで何してるの」
 ふうっと白煙を吐いて、藤堂さんは髪をかき上げる。長くしっかりとしたキレイな指先をしている。確か年下の二年生男子と付き合っているような話を聞いたことがある。
「一服」
「顧問の先生に見付かったらヤバいんじゃないの」
「もう関係無いじゃん」
 煙の漂う先を追うと、白く欠けた月が澄んだ空に掛かっていた。藤堂さんの隣に立ってぽかんと眺めていると、若干苛ただしげな声が問いかけた。
「よくやるよね、演劇なんて」
「どういう意味」
「大勢の前で演技するなんてさ」
 あー、よくあるご意見ですね。私ですら時々そう思っちゃうもの。
「そりゃ見て感動とかしてくれたら有り難いけど、そのためにやってるんじゃないよ」
「大塚さんだっけ? 本気で女優目指してるとか、よっぽど自分に自信が有るんだね」
 大塚さんは外の劇団付き養成学校に通っているため、高校の演劇部には所属していないが、いろいろな場面で助っ人になってくれる。女優のたまごらしく華やかで社交的なせいか、あること無いこと噂されているのが気の毒である。
「俳優の才能が有るんだから、そっちの職業選択して何が悪いの。藤堂さんだって、何度も表彰されてるじゃない。私たちからすれば、手が届かないのは同じだよ」
 ちょっとカチンときたので、こちらも嫌味な態度に出る。お互いよく知らないのに、どうしてこうなったのか。そもそも部室がなくて、屋上で発声や演技の練習をしなければならず、変なところで目立っている演劇部が悪いのか。おのれ、今年こそ鉄研から部室を奪還してやる。藤堂さんは普段もの静かな方だと思っていたが、今はよく喋る。
「私くらいの選手ならいくらだっている。俳優だって同じでしょ、プロ目指したって、芽が出なくて終わるのがオチなんだよ」
「え、卓球やめちゃうの」
 練習中の藤堂さんなら、何度も見かけたことがある。藤堂さんの卓球がどれだけ凄いのか、運動音痴の私には詳細など分からないが、ラケットを振るっている藤堂さんは気迫満点だ。そういうのを見るのは好きである。舞台に立つ部員たちの雰囲気が、スポットライトを浴びてがらりと変わると、ぞくぞくする。
「……進路決めなきゃならない。卓球を選ぶことはできない」
「でもスポーツ関連の何か専門にすればいいんじゃない?」
「そういう菅原さんは、“ナニか演劇関連”にするわけ」
「あー、ごめん、適当に言ったね私。いや、演劇関連はないと思うわ」
 いつの間にか肩が触れそうなほど近くに藤堂さんが立っている。少し傾げられた均整の取れた身体。もう一筋、白煙が上がる。
「菅原さん、どうやって受験勉強してるの」
「一応予備校行ってるよ。あとは図書館かな」
 他の本読んじゃうからあまり進まないんだけど。付け加えると、藤堂さんも思い出し笑いのように、少しだけ口元を緩めた。私もちょっと走ってこようと思って出かけて、結局夕方までぶらぶらしちゃう。
「寄り道も大切だよ。アームストロング船長も言っていたでしょ、これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だって」
 何が将来役に立つかなんて分からないじゃない。月を指差して言うと、藤堂さんはタバコを揉み消して肩を竦めた。そういうクサい屁理屈言うところが、演技っぽいんだよ。月を指差すと、耳を引きちぎられるよ。ブレザーのポケットに手を突っ込んで、藤堂さんは行ってしまった。高嶺の花かと思ってたら一匹狼だったのかあ、ドラマ好きの悪い癖で、ときめいてしまうじゃないの。なかなか刺激的な高校最後の年になりそうである。
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