見守るもの

文字数 1,745文字

 最初は父さん母さんと、生まれたばかりの美也子(みやこ)だけだった。
 何年かして美也子が年長さんになると、うちは犬を飼いはじめた。オスの柴犬で、名前はコロマル。ころころ丸っこいからと、美也子が名付けた。
 母さんと一緒に近くの公園へ行き、子犬のコロマルと美也子は兄妹のようによく遊んでいた。
 一年もするとコロマルはもう大人になって、美也子はうらやましがっていたけど、コロマルにもたれて寝るのは気持ちよさそうだった。
 散歩に一人で行ける歳になると、美也子は毎日のようにコロマルを連れ出した。普段は大人しいコロマルも、散歩の時は尻尾をくるんと巻き、お尻を振っていそいそ進んでいく。それを見るのが美也子は好きだったらしい。

 中学に上がり、美也子はダンス部に入った。
 友達に誘われて始めたのが、元々の活発な性格と合っていたのか、どんどん夢中になっていった。
 コロマルの散歩は母さんに任せるようになったけど、それでもよく撫でてやっていた。
 熱は冷めることなく、そのまま美也子は強豪ダンス部のある高校に入学した。

 沢山の観客の前で踊る楽しさと、万雷の拍手を浴びるうれしさ。全国の大きな舞台で美也子はそれを知った。
 高校三年の春、彼女は父さんにこう言った。
「東京に行ってプロのダンサーになりたい」
 真剣な眼差しで、決然と伝えた。しかし父さんの理解は得られなかった。
「その道で成功できるのは、ほんの一握りの人間だけだ。甘く考えるな」
 そう言って頭ごなしに否定した。
 美也子は何度も食い下がったが、父さんは取り合わなかった。お互いの意見は交わらず、反発し続けた。
 この頃のうちは、張りつめた雰囲気がいつも流れていた。二人とも目を合わさず、たまに言葉を交わしたと思えばすぐ喧嘩になる。怒鳴り声をぶつけ、叩きつけるように扉を閉めて美也子が部屋に戻ると、後には苛立ちだけが充満していた。
 そんな時、コロマルが死んだ。
 歳をとり、少し前から散歩に行けなくなっていたコロマルの世話は、母さんがすべてしていた。
 そのことは二人ともわかっていたけど、それはただ知っていただけだ。
 横たわったコロマルの前で動かない母さんの背中に、父さんと美也子は絞るような声で言った。
「ごめんなさい……」
 母さんは振り向かなかった。
「誰に謝ってるの」
 いつも穏やかな母さんが声を荒げたのは、それが最初で最後だった。

 コロマルの葬儀を終えてから、二人は向き合って話すようになった。あれだけあった怒りはもう消えていた。
 夢への熱意とアプローチについて美也子が語るのを聞いていた父さんは、ある日反対する理由を語った。
 かつて父さんには親友がいて、その彼はミュージシャンを目指して東京に行ったが、夢破れて自ら命を絶ったのだと。
 美也子には同じ道を辿ってほしくない。
 今まで言わなかったのは、未だに辛い記憶だからだと。
 予想もしていない話に、美也子は胸を痛めた。
「話してくれてありがとう」
 それから「でも」と言って、父さんの目を見た。
「私は何があっても生きていくよ。だって……」
 言おうとして、涙がこみ上げてきた。今さら泣いてもムシが良いことはわかってる。なのに思い出は次々と浮かんできた。
「わかった。わかったよ」
 美也子の肩に手を置き、父さんはぐっと唇を噛んだ。廊下で話を聞く母さんも泣いていた。

 十年ほど経ち、海外で小さな賞をとった美也子が帰ってきた時、その隣りには精悍(せいかん)な男性がいた。後に美也子の夫となる人だ。
 父さんと母さんは最初びっくりしていたけど、遅れて祝福し、初孫ができてからはデレデレだった。
 父さんと母さんは長生きした。
 美也子はもっと長生きした。
 そのことを僕はとてもうれしく思う。

 今はもう誰もいない。
 僕の中はすっかり荒れ果ててしまった。
 でもそれも今日で終わりらしい。ほら、黄色いヘルメットを被った人たちがやってきた。
 重機の長い首が伸びてきて、僕を見つめている。
 どうか、そんなに悲しい顔をしないでほしい。
 僕は幸せだった。
 彼らを見守ることができて。
 だからそう、もっとこっちに。
 ああ、それで、いいんだ。
 ……そういえば美也子が子供の頃、庭の木の下に宝物を埋めていたな。
 クッキーの入れ物に……ビー玉と……おはじき……それから……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み