第4話

文字数 12,471文字

 つばきは涙をぬぐい、渡されたスコップで桜の木の根元を掘っていた。スコップにはなにか魔力があるのだろうか、ゴンドラの櫂を手にしたときと同じように、消えていた足が姿を取り戻していた。
「なかなか腰が据わってるじゃねぇか」
 腕組みした騎馬命が、穴の脇で監督している。
 つばきは疲れ切った顔でスコップに足を掛けて土を掻き出していく。術は解けていて、心を締め上げた黒蛇も消えていたが、騎馬命の言葉と責め苦にすっかりやられて、もはや奴隷のような心境になっていた。
 ただ、それでも、思考力とともに自尊心は戻りつつあった。
「スコップは…園芸科では初歩も初歩よ…。これが使えないと……赤ちゃんみたいなもの」
「樹木医だっけか…。幼なじみのために目指したって割りには、一端のこと言うじゃんね」
「………」
 からかう騎馬命を不愉快に思うも、噛みつく気力まではない。相手の凶暴性は思い知らされていた。
 やがて穴は、胸の高さ程まで深くなり、さすがに汗だくになったところで、つばきはようやく騎馬命に聞いた。
「なにも出てこない…。一体、何が埋まってるっていうの?」
「埋まってる? あたし、そんなこと言ったか?」
「え? 何か埋まってるから…掘らせたんでしょう?」
「何か…って、たとえば?」
「たとえば…って」つばきは戸惑いながら答えた。「桜を弱らせた何かが埋まってる…? あるいは病巣が根にある…とか」
 すると騎馬命は、あきれたように肩をそびやかすと、またしても天に腕を伸ばした。そして闇が集まり、棒状のものに形を変え、手におさまったとき、騎馬命は口の片方を卑しく吊り上げていた。
「花を咲かせたいって言ったじゃねぇか。その花を咲かすには、だいぶ栄養がいるんじゃないかと思ってさ」
 騎馬命の手には、全長が腕の長さほどもある銃が握られていた。
「セーラー服とショットガン。似合うだろ?」
 冗談めかして言う。
 つばきは、騎馬命がなにを考えてそんなものを出したのか理解できなかった。
「鈍いねぇ…」
 騎馬命はあきれて言いながら、銃口をつばきに向けた。そして、ピリオドを打つように言った。
「花を咲かすには肥料が必要。そんなこと、医者じゃなくても知ってるぜ」
 指が引き金にかかる。
 穴の中のつばきは、ようやく騎馬命の企みに気づいた。
 だが、遅すぎた。
 騎馬命は、青ざめるつばきの胸に照準を合わせながら、口元に冷たい笑みを浮かべた。
「あんたが、すみれって子の何を知ってるか、これから閻魔の力で見せてやンよ。真実の走馬灯ってやつで、よ!」
「真実の…走馬灯?」
「そう。あんたとすみれの、時の絵巻さ」
「わたしと…」
「そいつを見れば、相手がなにを考えていたか、あんたがどうすればよかったのか、わかるかもな。ただし、他人の気持ちなんて、知らないほうが良かったってこともあるんだぜ?」
 騎馬命がニヤァと笑った。
 つばきは茫然としていた。
 直後、銃口の奥に閃光が広がった。
 その光に、つばきは走馬灯を見た。


 それは、高校二年のある日、仲違いする前日のこと。
 放課後、人波のはけた昇降口で、陸上部のユニフォームに着替えたつばきは、待たせておいたすみれに駆け寄った。すみれは帰宅部、帰って何をしているのかは知らなかった。
「用事って、なに?」
「うん…」
 つばきは頬を染めていた。そしてジャージの中に手を入れ、隠していた封筒を取り出した。
「これ…さ、弘堂先輩に渡してくんない?」
「弘堂先輩?」
 それは三年生、男子陸上部の主将だった。美男子で、知らない女子はいない。
「DMとかだとさ、みんなやってると思うし、気持ちが伝わらない気がして」
 すみれは、視線を落として封筒を見た。うっすらとピンク色に染められ、そこに桜の花びらが印刷された封筒だった。
「ラブレター?」
「やだ、口に出さないでよ」つばきは回りを気にする。「わたしね、彼に憧れてるの。知ってるでしょ?」
「……知らない」
「知らないの? 噂で聞いたことない?」
「わたし、あまり友だちいないから」
「……。そう。じゃ、知ってたことにして」
 つばきとすみれは、その頃にはもう、すっかり疎遠な仲だった。それでも、すみれなら自分をからかったり、はやしたてたり、噂にしたり、そんなことはしないと、つばきは頼ったのだった。
 しかし、すみれは正直に戸惑った。
「自分で渡せばいいのに。同じ部活なんだから」
「同じだから渡せないの!」
「回りの目が気になる?」
「違うけど…!」
 嘘だった。たとえ回りに知られていても、ラブレターなんて出したことは知られたくない。
「とにかく!
 すみれは、弘堂先輩とおんなじ団地でしょ? 今日、帰ってきたところを捕まえて渡して。お願い!」
 そう言って封筒を胸元に押しつける。
 すみれは渋々受け取った。
「お願いね!」
 つばきはパッと言うと、幼なじみ相手でも恥ずかしくて、その場から逃げ出した。そのまま全速力でグランドへ飛び出していく。
 走り去る後ろ姿には、アスリートと女の子が同居していた。すみれはそれを戸惑いの目で見送った。それから、改めて手渡された封筒を見、なにを思ったのか、少し楽しそうな明るい目になって鞄にしまうと、それを大事に抱きかかえて家路を急いだ。

 その日、部活の時間、つばきは、同じトラックの反対側を走る先輩のことが気になって、ほとんど練習にならなかった。
 家に帰っても、今にもDMが届くんじゃないかと、食事が喉を通らなかった。
 二階の部屋から窓の外を見れば、離れたところに高層建ての団地が何棟も重なっている一角が見えた。
 夕闇が迫り、ポツポツと部屋の窓に明かりが灯る。
 けれど、スマホが鳴る気配はない。
 だんだんと不安になり、陸上部のグループチャットを開くと、何事か無かったかと情報を探った。そこのメンバーに、すみれは当然ながらいなかったけれど、何か、変わったことが書き込まれていないかと気にしたのだ。

 つばきが気を揉んでいる頃、すみれはまだ、弘堂先輩の住む棟のエレベーターホールにいた。いや、正確には、エントランスホール脇の物陰に隠れていた。
 下校時刻から、もう一時間以上も待っている。なかなか帰ってこない。日も、すっかり暮れてしまった。
 煌々と電気のともる一階のホールは、学生達が帰宅する時間と、サラリーマンが帰宅する時間の合間で、人通りは絶えていた。
 すみれは、つばきと分かれた後、一旦家に帰り、余計な荷物は置き、髪も一応ブラシを通し、部活が終わる時間を見計らってエレベーターホールに来ていた。
 そして、さっきからずっと、心臓の音を聞いていた。大役を任されたと自覚していたからだ。
 桜模様の入ったピンクの封筒……。もちろんそれは自分のものではなかったけれど、幼なじみのしたためたものだと思えば、それはまるで自分のもののように重たかった。
(うまく…渡せるかな。ううん、渡さないと…。つばきちゃんのために…!)
 久しぶりに、つばきの笑顔が見たかった。無邪気に笑う顔が見たいと、心が欲していた。そしてすみれは、子どもの頃の思い出を美しく思い出していた。
 つばきはいつも、土手の道の先、千年黄桜の下で、陽光に笑顔を咲かせながらすみれを待っていてくれた。その頃のつばきに、そんな意識はなかったかも知れないけれど、体が弱く、駆け足も遅いすみれのことを、笑顔で待っていてくれた。葉もない梢から差しこんだ陽光に笑顔を咲かせ、たった一輪でも希望の花のように、すみれのことを待っていてくれた。その頃から内気で、友達のいなかったすみれにとって、つばきの笑顔は救いだったし、日々の希望だった。
 クラスが別になっても、中学生になっても、高校生になっても、いつも心のどこかに、その頃の希望は消えずにあった。すみれは、校内のざわめきの中につばきの声が聞こえることを楽しみにして学校へ行っていたのかも知れなかった。話すことはなくなっても、たとえひとりでも、友達の笑顔がある場所は居心地が良かった。
 そして今日、思いがけず、恩返しとも、新しい希望を見るための…とも言える使命が与えられた。
(久しぶりに……笑顔、見たいよ)
 すみれ自身の働きで、つばきが笑顔になれるなら……。
 夕暮れの物陰に潜む間中、肩にも足にも力が入っていた。すみれは、渡すことに一点集中し、その場面のシミュレーションばかりして、他のことはもう考えられなくなっていた。
 やがて、団地の間の道に、背の高い人影が現れた。バッグを肩に掛け、木立の間を抜けて、まっすぐにこちらへやってくる。
 すみれは思わずラブレターをクシャ…としてしまった。慌てて首を引っ込め、ごめんなさいと心の中で言いながら皺を伸ばし、小さくなって深呼吸をする。少し足が震えていた。
 問題は、立ち塞がるタイミングだ。
 早すぎず、遅すぎずが難しい。
 彼の足音が近づいてくる。距離を確かめるために、もう一度、物陰から覗く。……が、その心臓は、目に飛び込んだ光景に凍り付いた。
(え……?)
 先輩の隣に、スッキリと背の高い影がもう一つ、あった。ポニーテールを下ろして、印象は変わっているけれど、見覚えのある少女……。三年生、女子陸上部の主将だった。
 どうして二人して……と考えるまでもなかった。
 二人は、すみれが隠れる前を通って、そのままエレベーターホールへ行くと、ボタンを押して扉を開け、弘堂先輩だけが乗り込んだ。そして、ほんの短い間、二人は視線を向き合わせると、息を合わせたかのように顔を寄せ、短いけれど、確かにキスをした。
 ガラス窓の入る扉が閉まり、弘堂先輩は爽やかな、けれど甘やかな視線を残して上階へと運ばれていった。
 それを片手で見送った女子陸上部の主将は、小さくため息をつくときびすを返して戻ってきた。そして、再びすみれの前を通り過ぎるとき、彼女の横顔は、凜として自信に満ち、今日のこの一瞬の行為に満足して、視線はまっすぐ前に向けられていた。
 彼女は、物陰で手紙を手に小さくなっている人物のことになど、当然のように気づかなかった。
 やがて、足音が遠のいて…。
 すみれは物陰を出ると、夜のとばりが降りる中でも颯爽と去って行く後ろ姿を見やった。それから手の中に残された手紙を見、頭上の建物を見上げ、どうすることも出来ない現実を知って、人知れずため息を漏らしていた。

 とぼとぼと家に帰ったすみれは、スマホを開いてため息をついた。
 そこには、もういくつも、メッセージが入っていた。もちろん、つばきからだ。
『どう?』
『渡せた?』
『おーい』
『見てる?』
 返事を心待ちにしているのは間違いなかった。
 けれど、さっきのことをどう伝えていいのか。
 つばきは、弘堂先輩に恋人がいるとは思っていないはずだった。
 つまり、主将同士、人目を忍んでいるのだった。そこには、恥じらいだけでなくて、立場上、周囲への気遣いもあるに違いなかった。だから、飛び出して手紙を渡せなかったのだ。けれどそれを、素直につばきに話すことはできなかった。そんなことをしたら、つばきも、弘堂先輩も、彼女さんも、みんな笑顔が曇るに決まっている。いいや、それじゃすまないかも知れない。部活に行きにくくなる。廊下ですれ違う時は、どうするの?
 つばきが、涙を流すかもしれない。
 それが怖かった。
『まだー?』
 新しくメッセージが入る。
 おどけているけれど……、絶対に緊張しているはず……。
 たぶん、スタートのピストルが鳴る前くらいの緊張感……。すみれは、つばきが、運動会で見せる真剣な顔を知っている。ずっと、そっと、拳を握って祈ってきたからだ。競技会には行ったことがないけれど、たぶん、そのときも同じ顔をしている。そんなこと、想像するのは簡単だった。
 けれど今、すみれは拳をほどいてしまった。幼なじみの、一等賞の笑顔を見たい。けれどそれはかなわないだろう。そう悟ってしまっていた。拳を握る力は、なくなってしまっていた。
 すみれはため息をついた。
 その時、着信が…。
 ブルルル…、ブルルル…。
 とうとう、つばきが電話をかけてきた!
 すみれは、出る勇気がなかった。
 伝えて、落胆する声を聴きたくなかった。
 だから、電話が鳴り止むのを待って、メッセージを送った。ほっておいたら押しかけてくる予感がした。
『ごめんなさい、出そびれた』
『いいよ。で?』
 つばきは、性急に結果を求めてくる。
 すみれは、覚悟を決めなければならなかった。
『ごめんね、渡せなかった』
『え』
『好きな人がいたみたいで』
 返事が止まる。
 すみれは戸惑いながら打った。
『明日、手紙、返すね』
『待ってよ。受け取ってくれなかったってこと?』
『そういうわけじゃなくて』
 指が止まってしまう。
 沈黙の時間の後に、返ってきた言葉には疑念が感じられた。
『どういうこと?』
 そうだ……。
 声もかけてない。
 どう説明すればいいのか……。
 迷う間にもメッセージは続く。
『先輩、どんな顔してた? 迷惑そうだった?』
 返事ができない。
 恋人と一緒だったから……と言えば、相手のことを訊かれてしまう。主将同士、周囲に気遣いしている努力が無駄になってしまう。
『ねえ』
 詰問される。
 文字じゃ伝えきれない。
 返事をできないでいると、言葉の印象が変わった。
『ちゃんと渡そうとしてくれたの?』
 あ……と思った。それだけじゃなく、ゾッとした。自分が大きな過ちを犯したと気づいた瞬間だった。けれど、声もかけてないと正直に言うのは躊躇われた。途端、自分の守りに入っていた。返す言葉に間違えば、幼なじみの関係が壊れる気がした。たったひとりの、ともだちなのに……
 体に震えがきた。よくよく考えてみたら、渡すだけなら、弘堂先輩とその彼女の関係は公にはならない。それは自分が口をつぐめばいいだけだった。つまり、渡すだけのことなら、……つばきの気持ちを伝えることだけのことなら、すみれはやれた…のだ。
 すみれは焦りを感じながら言葉を打ちはじめた。ごめん、渡せなかったんだよ、理由を言ったら、誰ひとり、今まで通りにはいかないよ…と。
 誰も傷つけたくないような言い草をしながら、裏ではつばきを失いたくない、幼なじみの思い出も守りたい、そんな欲が出ていた。これを詭弁と言うに違いなかった。けれど送信ボタンを押すのを我慢できなかった。そして、押したと同時にメッセージが届いた。
『まさか』
『ごめん、渡せなかったんだよ。だけど、その理由を言ったら、誰ひとり、今まで通りにはいかないよ』
 つばきの疑いの言葉に続いて、自分の言葉が表示された。誰ひとり今まで通りにはいかないと続いてしまった。それは、とても言い訳がましく見えた。
 そして、返った言葉は、すみれを混乱させた。
『どういう意味?』
 どういう意味?
 どういう意味?
 どういう意味?
 理解しようとしているうちに、メッセージが届いた。
『もういい。バカ』
 これ以上なく、冷たい言葉に聞こえた。
 バカなんて言葉、つばきの口から言われたことがなかった。
 もう、正直に話すしかない。混乱しながら電話をするよと打ったが、もう届かなくなっていた。慌ててダイヤルしても拒否されていた。
 すみれは途方に暮れた。
 ふと目の端に色が差し、振り向くと、机の隅に薄いピンク色の封筒が忘れられていた。
 そこにどれだけの気持ちが込められているか。すみれは、それを渡してほしいと頼まれただけだった。
 後悔にさいなまれた。つばきの手紙に何が書いてあるか、結果をどれだけ期待しているか、もちろん叶わなかったときのことも考えていただろう。それでも渡したくて、自分では渡せなくて、……頼ってくれたのに。
 せっかく頼ってくれたのに…。
 間違ったことをしてしまった。
 全身に汗が噴き出し、直後に寒くなった。
 すみれは、その夜を、震えて明かした。


 ズドン!
 目の前に閃光が走った。
 爆音と共に胸を突き飛ばされ、つばきは穴の壁に背中を打ち付けていた。
 愕然と見上げると、火薬の煙の向こうに、口をゆがめてにやける騎馬命の顔があった。
 その目が、つばきの胸に下りる。
 恐る恐る胸を見下ろすと……
「………」
 何も起こっていなかった。
 骨が砕けるような衝撃があったのに、服の一つも乱れていなかった。
 騎馬命を見ると、にやりとしていた。
 どうしてそんな顔をするのだろう。そう思った直後だった。
「アアアーッ!」
 絶叫していた。
 突如、肺に灼けた鉛を流し込まれたような激痛が襲い来たのだ!
 目の前が激しく揺らぐ!
 胸をかきむしるがなにも変わらない!
 騎馬命が声を上げて笑った。
「今のは、『バカ』の一言さ」
「ウウアアッ!」
「言ったんだろ、幼なじみに」
 叫ぶことしかできないのに返事を求められた。まさか、小閻魔は、今この場で地獄の苦しみをくれようとしているのか。
 やがて痛みに感覚が麻痺して、叫びは荒い呼吸に形を変えた。けれど胸の中の灼熱が引いたわけじゃない。恨むように顔を上げると、騎馬命はますます笑っていた。狂気に支配された顔だった。
 背筋が凍った。
 その恐怖を見抜いたように、騎馬命が言った。
「動けるうちに、見てみなよ」
「……?」
「ス・マ・ホ♪」
 騎馬命に言われ、つばきは震える手でシザーバッグの中を探った。
 いつものインナーポケットにスマホはあった。
 ヴーン、ヴーン…と、振動している。
 震えながら画面を開くと、知らないグループチャットが開いていた。ルーム名は【2B女】……
『いまどきラブレターw』
『それ焼いたって』
『焼いたw』
『絶対わざとでしょ』
『わざとです』
『ww』
『けどさ、なんでうちのすみれに?』
『友達だったらし』
『やば』
『でもザマア』
『つばきザマ』
『w』
『ww』
『やめちゃえ、部活』
『それ困るw』
『は?』
『そしたら技会出んのあたしじゃん』
『いいじゃん』
『めんど』
『なるw』
『それよりさ』
『どした?』
『すみれ、これ見てんでしょ』
『見てんの?』
『見てんだ?』
『なんか言え』
『なんか言え、すみれ』
『聞きた』
『すみれさん? へんじは?』
『すみれさーん』
『。。。』
『???』
『あれ?』
『え?』
『まさか』
『タ』
『ヒ』
『w』
 怒濤の勢いで流れる文字にツバキは青ざめた。
 その瞳に写り込んだ文字を見て、騎馬命はニヤリと目を細めた。
「絶望するだろ?」
 けれど、狂気の言葉はつばきの耳には届かなかった。
 つばきは画面から目が離せなくなっていた。
 これをあの日、すみれが見たのだと思うと居たたまれなかった。いや、手を振り上げた自分のせいなのははっきりしていたし、そのあと、クラスメイトに話してしまった記憶もあった。その後、先輩の相手が誰かを知って諦めもついたし、噂もすぐに消えたけど、すみれは学校をやめてしまった。ひどく傷ついたのだと思った。もちろん謝りにも行った。会っては、くれなかったけれど。
「会ってはくれなかった…だって? つばきさんよゥ、まだそんな言い訳してのか。ほら、もういいよ、こっち向きな」
 命令口調で言われて目を上げると、銃口を向けて笑う騎馬命と目が合った。
 視線がかち合った。心を見られていると知らされた。咄嗟に顎を引いた。すると騎馬命は、笑みを消した。
「あんたはまだ、見てるだけだぜ。そいつのホントの痛みなんて知りもしねぇんだよ。だから、本当の痛みってモンを、教えてやンよ」
 そう言った顔は、どこかで絶望を味わったことのある顔だった。裏切られ、怒りに目を吊り上げ、相手の話も聞かずに一方的に憎悪して……。その顔は、どこかで見覚えがある気がした。どこか…どこかで…。
 そうだ、とつばきは青ざめた。
 あの日、あの夜、すみれを拒絶したとき、机の上には鏡があった。そこに映った自分の顔にそっくりだ。次の日、手を振り上げた時も、その顔をしていた。
 体がすくみ上がった。
 そして。
 ショットガンを手にした騎馬命が、ゆっくりと唇を開いた。
「手紙、焼いた」
 スバンッ!
 引き金が引かれた。
 耳をつんざく音と衝撃が、つばきを再び穴の壁に打ち付けた。
 それは苦痛なんてものじゃなかった。体が吹っ飛ばされ、首がもげるほどの衝撃があった。
 騎馬命は淡々とリロードすると、薬莢を足下に転がした。そして、くちびるを動かした。
「つばきザマア」
 ズバン!
 体が砕けてしまう…! つばきは白く喉を見せた。
「なんか言え」
 ズバン!
 意識が飛び、何も考えられなくなった。
 それでも騎馬命は、次々に引き金を引いた。
「タ」
 ズバン!
「ヒ」
 ズバンッ!
「w」
 ズバンッッ!
 最後の一発は眉間に向けられた。
 その時、すでに、つばきの瞳に光はなかったが、撃ち込まれた瞬間は脳髄を破壊されたかのように全身を跳ねさせた。そのあとは、パタリと、壊れた人形のようにうなだれた。
「あたしは!」
 くゆる白煙の向こうから騎馬命はつばきを怒鳴りつけた。
「あたしはね!
 自分の悪さも認めずに言い訳ばっかしてるヤツ見ると!
 たまらなく腹が立つんだよッ!」
 つばきはピクリとも反応しない。
 騎馬命は、ショットガンを下ろすと、穴の中に沈んだつばきのことを見下ろした。
「………」
 初七日の罰は下された。
 騎馬命のそれは、二度目の死…。
 静けさが戻ってくる。
 ひとりになると、騎馬命の顔からは狂気が消えていった。
 手のひらが緩み、ショットガンが地面に落ちた。そのことを気に留める様子もなく、騎馬命は立ち尽くした。
 その姿は抜け殻のようになった。
 瞳は沈黙し、さっきまでの荒くれは形を潜めていた。無表情…。嘲笑はもちろん、どのようなものも、かけらすらなくなっていた。そんな目で、騎馬命は声を震わせた。
「痛かっただろう? だけど、これが、あたしの仕事…、使命なんだよ。でも、これで、未練も吹っ切れただろう?」
 使命は果たした…が、同時に後悔が沸いてきた。
 今日の自分は、罪人の心をえぐって痛めつけただけだった。
 そして、そんな自分のことを、笑い飛ばしているだけだった。
 自分は、相手がいる限り、狂う。
 相手がいなくなれば、後悔だけが残る。
 自分の罪も認めずに、言い訳ばかりしている。
 でも、あたしだって、さんざん辛い思いをしてきたんだ……。
 そして今日も、最後は言い訳で終わりのはずだった。
「!」
 騎馬命は竦みあがった。突然、辺りの景色にベールがかかったからだ。それは何者かの意識の中に取り込まれた証だった。
(しまった!)
 霊の世界は精神力がすべての世界だ。弱い者は強い者に呑まれる。騎馬命は今、己の感傷にひたった隙を、何者かに付け入られたのだ。
 咄嗟に拳を握り、攻撃を警戒して身構える。ところが、視線をあたりに振っても、それらしい影はない。……と、まさかの正面に人影が立った!
「…こいつ!」
 死人の顔になったつばきが、眼前に忽然と浮かび現れていた。穴の中を見ると、霊体は、まだそこにあった。暗示か幻覚か、いずれにしても騎馬命は、つばきの意識が支配する空間に呑まれてしまっていた。
 騎馬命は、分の悪さを感じて舌打ちした。さっき、騎馬命がつばきを暗示にかけたように、一度、呑まれてしまうと抜け出すのは容易じゃない。
(どういうことだい…)
 騎馬命は焦りの中で考えた。相手はただの死人、霊界ではズブの素人のはずだ。閻魔の一族を呑むほどの精神力があるとは思えない。
 つばきの顔を確かめると……。
 彼女は騎馬命の顔を見てはいたが、くすんだ瞳は焦点を結んでいなかった。表情もなく、自分が何をしたのかもわかっていない。どうやら、無意識に騎馬命を取り込んだらしい。
(つまり、あたしが、未熟者ってことかよ)
 悔しさが沸き上がる。つまり、つばきは強いわけでもなんでもない。まだ何か未練があって、その思いが、ふぬけになった瞬間の騎馬命を取り込んだのだ。しかし、その程度ならば……、
(思いっきり、ど突けば抜け出せるか)
 騎馬命は拳を固め、つばきの胸を狙った。
 するとつばきは、まるで気配を察知したかのように、焦点の合っていないままの目で騎馬命の顔を見た。そして、詫びの言葉を口にした。
「認めます…
 すべての罪を…
 だから…
 すみれを助けてください……」
 遠く、願うような言葉だった。
 騎馬命はハッと気づいた。呑まれたここは、つばきの自責の念だった。二度目の死を経験しても、拭いきれない未練の元凶なのだった。
「しつこいんだよ…!」
 騎馬命は、つばきの後悔の深さと、未練の根の深さを同時に知らされて目を吊り上げた。そして、つばきの顔めがけて正拳突きを繰り出した。
 だが、鼻を砕くところで拳を寸止めにした。
 脅しだった。いくら騎馬命でも、女の顔は傷つけたくない。
 ゆっくりと拳を戻し、目をつむって青ざめている顔を見ようとした。
 しかし、それは叶わなかった。
「まさか、生き返りたいって言ったのは、ほんとうに、その子のため……だけなのか?」
 つばきは、拳を繰り出されても視線を寸分も動かさず、まぶたを閉じることもなく、そして手をどけた今も、焦点の定まらない眼ながら騎馬命の顔を見ていた。
 そして言った。
「どうか力に……なってください……」
 願いの言葉は、万能の神を見ているかのようだった。
 騎馬命は空恐ろしい気持ちになった。小閻魔になる前も、なってからも、怖れられることはいくらでもあったが、求められることなど経験がなかった。いや、そうではないか…。思い返せば、一度か二度、そんなことの記憶があった。
 そう。
 こんなあたしでも、頼りにされたことがあった。
 騎馬命はゴクリと唾をのんだ。そして目の前の現実と記憶の間を行きつ戻りつし、気づけば、記憶の中の自分に、憧憬とも言える目を向けていた。そう、いつの日だったか、誰かに頼りにされて、得意げで、あたたかで、微笑みあった日々があった。
 けれど騎馬命は、その記憶から目をそらした。
「履き違えるな。あたしはもう、地獄の住人なんだぜ」
 ふぬけた夢を見そうになる自分をたしなめる。その声はつばきの耳にも届いた。ところが彼女は、その声をたぐって、見えていないような目で騎馬命の瞳を覗き込む仕草をした。そして、求めるように手を差し出し、ゆっくりと、極めてゆっくりと、騎馬命のことを目がけて空中を浮遊してきた。
 騎馬命は思わず腰が引けた。悪意のない相手に振るう拳など持ち合わせてなかったからだ。そして、逃げだすことも追い払うこともできずに立ち尽くした。
 つばきは、とうとう騎馬命の胸にたどり着くと、ゆっくりと背中に手を回し、その胸に頬を埋めようとした。しかし、抱きつく力が無く、騎馬命は胸に、わずかな風圧を感じただけだった。それでも、その風は言葉よりも強く、肌と肌で伝え合うかの如く、騎馬目の心を揺さぶった。
 たすけて……
 おねがい……
 心に訴える言葉は涙に濡れていた。真実の走馬灯、そして騎馬命が突きつけた言葉に追い詰められ、無慈悲な罰を受け、四肢も意識も砕かれたようになって、最早、できることがなにもないことを嘆いていた。
 そして、ただただ訴えていた。
 力ある者を前に訴えていた。
 騎馬命はうめいた。
「あたしに…、もっと使命を果たせと…、そう言うのかい?」
 確かめるために訊くと、つばきは埋めた頬を上げて騎馬命を見た。その目にはもう、視力が無いようで、相変わらず焦点を結ばない。ただ、目尻から一筋の涙を流した。
 騎馬命は、思わずその涙に親指を添えた。
 氷のように冷たい涙だった。
 そんな風にしてしまったのは、きっと、騎馬命だった。
 真実の走馬灯など見せず、ひと思いに罰することもできたのに……。
 騎馬命は罪悪感に苛まれながら涙をすくい取ると、そのしずくを自分の口に持っていった。そして味を確かめ、嘆いた。
 つばきの涙は、なんの味もしなかった。空から降ってくる雨のように、なんの味も、しないのだった。そこに騎馬命は、つばきの気持ちをくみ取った。
「どうしても…桜を咲かせたいんだね?」
 すると、また、涙が流れた。
 きっと今まで、枯木に語ってきた涙も、雨のように透明だったのだろう。
 ふと、騎馬命は、閻魔が一番考えてはいけないことを思った。閻魔の力を、救いのために使うことは、できないものか、と。
 しかしそれは、閻魔の掟で禁じられている。情にほだされて罰に手を抜くなど言語道断、ましてや救いとなるようなことを考えるなどもってのほかだ。
 けれどもう、見て見ぬ振りはできなかった。透明な涙にまみれる後悔を、笑い飛ばすことはできなかった。今、役立てる力を持つ身でありながら、それを隠して後悔することもできなかった。だからせめて、自分が納得できる程度に禁忌を犯すくらいのことは、こっそりとなら許されると、そう思ってしまった。
 騎馬命は、拳を握ると言い聞かせた。
「泣くな。少しだけ助けてやンから。
 いいか、よく聞くんだ。誰に看取られようと、焼き場で骨と灰になろうと、あんたの死に場所はこの桜の袂なんだ。それを忘れないでおれると誓えるのなら、少しだけ命をやるよ。だが、その命で生き返るってわけじゃない。朝日が昇るまでの命だ。それ以上は、時の理を破ることになるからね。
 それが約束できるなら、わたしの、この命を、少しだけ分け与えてあげる。だから、自分が思うとおりにして、今度こそ未練を断ち切ってくれ」
 つばきは頷かなかった。
 ただ、焦点の定まらない眼には、新しい涙がにじんでいた。
「大切な涙だろ、もう無駄にするんじゃない」
 騎馬命は、その涙がこぼれる前に、つばきの頬を両手で支え、顔を上向かせた。そして、野獣が獲物の喉笛に食らいつくように迫ると、覆い被さるように荒々しく唇を重ねた。
 つばきの体から力が抜けていく。同時に、その姿が霞となって輪郭を失い、光る砂のようになって地面に落ちていった。そこには墓穴があり、つばきの霊体が亡骸となって沈んでいた。砂は、星屑のように亡骸の上に積もり、周囲の土にも散り、そしてゆっくりと光を失って見えなくなった。
 あたりを囲っていたベールが夜風に流されていく。
 つばきの姿は消えてしまった。
 それでも騎馬命は、時が止まったかのように、口づけをしていたときの姿勢のまま、薄く目を開いて、消えたつばきの顔を見ていた。そして、唇を噛むと、人知れず小さな涙をこぼした。
 その涙は、つばきが掘った穴へと落ちていった。
 憐れみなのか、後悔なのか、罪悪感なのか、あるいは心が重なっただけなのか、だれにもその涙の意味はわからない。騎馬命の気持ちは誰に知られることもない。なのに、騎馬命は、その涙の痕さえ隠すべく、スコップを握った。
 つばきが掘り返した土をすくい、穴に放り込んでいく。その額では、人ならざるものを示す飾りが揺れていた。
 無造作に投げ込まれた土は、動かなくなったつばきの姿を汚していった。けれどつばきは顔を上げることもなく、ただうつろな眼差しを下向けて、少しずつ土に埋もれていった。

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