第3話

文字数 11,972文字

 ・夢、消えない記憶。

 つばきは、ほんの束の間、夢を見た。
 気の弱い、隣のクラスの子。公立高校の、飾り気のない制服を、さらに質素に見せる地味な子。活発快活なつばきとは見た目も性格も正反対のおとなしい子。でも、つばきとは幼稚園の時からの付き合い、幼なじみの少女。
 最近は、自分からそばに来たことのない彼女が、その日は、朝練から上がってきたつばきをクラスの戸口で呼び止めた。
 つばきは、それを予想していたし、それ以上に不愉快だった。
 もうすぐ始業のチャイムが鳴るという忙しない中で、誰もふたりのことを気にしていなかったが、ふたりの間には張り詰めた空気があった。
 にらみつけると、相手は怖ず怖ずと言った。
「手紙、渡せなくて、ほんとに、ごめんね」
 たどたどしい謝罪の言葉……。幼なじみの声を、こんなにも耳障りだと思ったのは初めてだった。返事をしないでいると、相手は胸に抱えた鞄の口を開け、いそいそと手を差し入れ、何かを探った。そして、薄桃色の封筒を取り出そうとした。その瞬間、つばきは手を振り上げていた。
 バシッ!
 幼なじみの頬をはたいていた。
 近くにいたクラスメイトが振り返る。ようやく、別のクラスの子が来ていることに気づく。静けさが広がっていき、ふたりは注目を集めてしまった。けれどつばきには、まわりのことなど見えていなかった。
「簡単な事じゃん、渡すだけなんだから! それともあんたに頼ったわたしがバカだったの? もう消えてよ!」
 そうわめくと、泣きはらした目にまた涙がにじんできた。その視界の中で、相手の驚いた顔が崩れていった。
 幼なじみは、絶望の眼差しでつばきのことを見た。それから視線を落とすと、鞄を閉じ、後ずさり、涙で揺らいだ視界の中をトボトボと消えていった。その後ろ姿は、つばきの心に傷となって刻まれた。
 ………。
 そして。
 今、思うのは。
「ごめん……すみれ……」
 悔やんでも悔やみきれない。胸が苦しくて、その名を口にすれば涙がにじむ。
 なのに。
「へぇ。あんたの未練の元凶は、そのすみれって子にあンのか」
 からかい、見下す声が、冷や水のようにかけられた。
 ハッと目を開けると、涙に揺れる視界の中で、誰かが自分の顔を見下ろしていた。それと、頭の下に感じる張りのある温もり……。
「………」
 小閻魔の騎馬命が、なぜか自分の顔を間近で見下ろしていた。にやけた口元に、からかう目…。気に障る表情だった。
 つばきはバッと体を起こした。
「おっと、頭突きを食らうところだった!」
 騎馬命がふざけて顔を引いた。
 つばきは振り向いて気づいた。気を失っている間、土手の斜面で騎馬命に膝枕をされていた。
 あたりをみると、破壊された漁船と、川の中にひっくり返った重機が見えた。岸壁には、茫然自失、ぺたんとへたり込んだ船頭少女の後ろ姿もあった。
 振り返って視線を上げると、土手の上には千年黄桜が、街の薄明かりの中、葉の一枚も無い、くたびれた姿で佇んでいた。
「よっこら、せー」
 騎馬命が年寄りみたいに言って立ち上がり、腰を伸ばした。
 つばきはギョッと警戒した。
 騎馬命は口の片方をつり上げた。
「地獄の備品をあんなにしちまいやがって。どう落とし前つける気だい?」
「お…としまえ?」
「フランソワーズの下僕になるか、あるいは今すぐ未練を断ち切って地獄に落ちるか、どっちか選ぶんだよ」
 騎馬命の顔は笑っていたが、目からはいたずらな気配が消えていた。
 つばきはゴクリとツバを呑むと、顎を引いて、にらみ返した。
「どっちもお断りよ。私は、その桜を咲かせなきゃならないの」
「桜を? ……枯れ木じゃねぇか」
「枯れ木じゃない。まだ生きてるわ」
「言い切るね。あたしには死んでるように見えるけど」
「あの子が言ったのよ、咲かせたいって。それはつまり、生きているって事」
「その、あの子ってのは、すみれって子のことか?」
「!」
「寝ぼけて言ってたぜ。そうなんだろ?」
 不意に問い返され、つばきはハッと黙った。相手は小閻魔とかいう地獄の住人だ、余計なことをしゃべってしまったら、すみれに危害が及ぶかもしれない……。
 一方、騎馬命の方は、押しつけられた仕事でしかない相手に興味を持ち始めていた。すみれという名を口にして涙をにじませ、枯れ木を生きていると言い張り、なによりスケバンの格好をした小閻魔に挑みかかってくる、そんな相手に興味を持ったのだ。
 すみれ。
 それがおそらく未練の正体。
 いったい、ふたりに何があったのか。
(野次馬根性って言われても、気になるモンは気になるモンね)
 自分でも意地悪いところはわかっている。けれど、気になるのだから仕方がない。騎馬命は己の欲求に素直だった。
 その時、様子見をし合うふたりをからかおうとでもするように、夜空からカラスが舞い降りた。そして騎馬命の肩に止まると何かを耳打ちした。
「……へえ? そりゃあ、ただの笑い話だな」
「……?」
「あんたが死ぬとこ、カラスが見てったってよ」
 騎馬命はますます面白がって言った。
「その木が、生きてるか死んでるかなんて関係ないね。あんたの想いも関係ない。とにかく、あんたの死に様は惨めだよ。ユンボの前に立ちはだかって、うっかり、返り討ちにあった。ほんと、そんな死に様、笑っちまうね」
「………」
 つばきは閉口した。自分が死んだ場面を思いだしたというのもあったし、その事故を面白おかしく言われたのが不愉快だった。
「おや、噛みついてこないのかい?」
 騎馬命は冷ややかに見る。するとつばきは口を尖らせ、ますます警戒した。ならば…と、騎馬命は枯木の梢を見上げた。
「ところでその枯れ木、千年黄桜だっけか…、命をかけて守るほどのものだったのかい?」
「ええ。私にとっては、ね」
 つばきは思わず即答した。
 騎馬命は挑発的に鼻で笑った。
「まさか、恋人と再会する場所に決めてたとか?」
「……恋人なんていないし、いらないわ」
 その言葉は、騎馬命の眉を曇らせた。なぜなら、つばきのその言い方が、色恋事とは決別したと言わんばかりだったからだ。そのせいで騎馬命は胸のうずきを感じた。実は自分も、恋愛なんて……と、そんな風に思っていた過去がある。
 けれどそれは今、口にする必要も無いことだ。騎馬命は自分に言い聞かせて、己を隠すように軽口を叩いた。
「へえ、そうかい? でも、それくらいのオチがついてくれないと未練も生まれないと思うけどね」
「恋人なんていらない。そんなことより花を咲かせたい。伝説の、黄色い桜を」
「黄色い桜……ねぇ」
 騎馬命は疑わしく笑う。
「まさか、その黄色い桜が未練ってやつかい?」
「未練とか、そういうことじゃない。わたしは咲かせないといけないの!」
「そういうのを未練って言うんだ。死んじまったクセに、まだわからねぇのかよ」
「死んでなんか…」
 つばきはにらみ返したが、逆に射竦められてギョッとなった。
 騎馬命は閻魔の力を目に溜め、つばきの心を攪乱した。そして、つばきが目を背けている事実を束にして突きつけた。
 つばきは唇を噛む。記憶をフラッシュバックさせられた。自分の意思とは関係なく家族に泣かれ、葬式で友人に泣かれ……。自分以外の全員が、つばきの死を悼んでいた。不幸中の幸いだったのは、そこにすみれの姿がなかったこと。死に顔なんて見られていたら、もうそこで、すべて観念してしていたかもしれなかった。
「あんた、とっくに死んでんだよ」
 騎馬命が蔑む。
 つばきは目を伏せた。ステンレスの板の上に広がる白い灰と、骨のかけらになった自分の姿まで思い出してしまった。するともう、なにを考えるのも嫌になってきた。
 ……。
 そうだ、死んだんだ…。
 そう思うと、つばきの目は生気を失った。顔を上げる力も失せていく。
「おいおいおい…」
 騎馬命は苦笑いしてつばきの頬をペチペチと叩いた。
「だんまりはごめんだぜ。それじゃ元の木阿弥だ」
 つばきはハッとした。三途の川のほとりに立ったときのように、再び、無力感に囚われようとしていた。
 騎馬命は、急に理解者面になった。
「あんた、未練があんだろ? そんなの、あたしがぶった斬ってやっからよ、話してみなよ。そしたらよ、助けてやらないでもないぜ?」
 助ける? その言葉につばきは惑わされた。どう助けようというのか…。それを聞き返そうとすると、
「小太郎様に言われているのは、今夜中にあんたの未練を断ち切ること。それがあたしの仕事。もしかしたら、未練を断ち切ることが、あんたの悩みも解決することにもなるかもしれない。そういうこった。どうだい?」
 騎馬命の目を見ると、チラリと炎が見えた。その意味を、つばきは考えられなかったが、それは騎馬命の本性が目を覚ました瞬間だった。同時に、つばきの心には、藁にも縋る思いが沸き上がった。
「私は死ぬわけにはいかないの。千年黄桜を咲かせないといけないの」
 言いながら足元を見た。
 ゴンドラで櫂を手にしたとき、うっすらと姿を取り戻していた足は、また膝から下が消えていた。このままだと騎馬命の言うとおり、消えてしまうか悪霊になってしまうのだろう。その前に……。
「頼ってくれて、いいんだぜ」
 騎馬命が、一転して穏やかな声を聞かせた。
 つばきは思わず騎馬命を見上げた。
 騎馬命はつばきの頬に、まったく自然な仕草で手を添えてきた。そして視線を捉えて瞳を覗き込んだ。
「あ……」
 つばきが漏らした声には、期待とも恐怖ともとれる色があった。
 騎馬命は、優しく笑んでいた。けれど瞳には、おどろおどろしい闇が渦巻いていた。そしてつばきは、その目を見た瞬間に、視線をそらすことができなくなっていた。
 騎馬命は、閻魔の眼力を発揮していた。そして、その視線にのせて、心を縛る黒蛇の縄をつばきの意識に送り込んだ。
 その黒蛇は、騎馬命の体に宿った閻魔の力のひとつだ。シラを切ろうとする死人の嘘を暴くために相手の心を雁字搦めにして、苦痛と恐怖を与え、口を割らせるのだ。それを騎馬命は、ちょっとばかり都合よく使った。
 つばきの心は、手足に絡まる黒蛇に為す術なく、気づけば胸元まで巻き取られ、赤く光る目に喉元を狙われてしまった。同時に、氷よりも冷たい蛇の体に心を冷やされ、意識を握り取られてしまった。つばきは手足を縛られて為す術なく、瞳をかすませ、死に怯えるだけの哀れな表情になった。そして、優しい言葉をかけてくる騎馬命のことを、縋るまなざしで見上げた。
 騎馬命はほくそ笑むと命じた。
「さあ、話すんだ。そしたらすぐに楽にしてやっからよ」
 つばきはあらがえず、一歩一歩、死刑台に上がっていくように、ぽつり、ぽつりと口を開いた。
「……わたしには、不登校になった幼なじみがいるの。わたしのせいで、学校に来なくなった……親友がいるの。あの子の人生は…、その時からきっと…止まってる。だから、あの子のために、わたしは……」


 つばきの独白

 あれは、小学校に上がった春のことだった。
 わたしとすみれは、いつも帰り道が一緒だった。
 幼稚園から一緒だったから、その頃はなんの疑問も抱かずに一緒にいたけれど、わたしは走るのが好き、すみれは静かに過ごすのが好きな子だった。
 その日の帰り道も、土手の道で、わたしが言い出してかけっこをした。
 目指すゴールは土手に立つ一本の大木、春の芽吹きも忘れて佇む枯木だった。わたしはすみれのことなどかまわずに全力で走って幹にタッチした。
「ゴール!」
 乾いた木肌は、汗ばんだ手にひんやりとして気持ちが良かった。振り返ると、すみれは大きなランドセルに振り回されながら追っかけてきていた。まだだいぶ距離がある。そして、あくびをするくらいたってから、やっと木の幹に手を触れた。
「すみれもゴール!」
 息が上がったすみれの代わりに声を上げると、わたしはすみれのランドセルを奪って手を引いた。そしてどうしたかというと、ランドセルを土手の斜面に放り出して、ふたりしてそこに寝転がった。正確に言うと、すみれの肩に手を回して、だいぶ無理矢理に付き合わせた。
「♪」
 薄雲が流れる空の下、土手は、春まっさかりの匂いがした。わたしは、すみれのハアーハアーという呼吸を聞きながら、機嫌良く足を伸ばし、一人っ子のさみしさを、この一瞬とばかりに晴らしていた。
 一人っ子という点では、すみれも同じだったはずだ。けれど、彼女は少し感じ方が違ったようだった。わたしのように、自分が中心と言わんばかりに空を眺めるのではなく、呼吸が落ち着いてくると、何かを気にして、おずおずと体を起こしてしまった。
「どした? のんびりしようよ」
「うん……」
 歯切れが悪いのはいつものことだけれど、そのときはいつもにも増してはっきりしない。どうしたのかと横目で見ていると、すみれは自分が寝転がっていたところを確かめ、それからわたしの方を見て、肩にちょんちょんと触れてきた。
「起きて」
「?」
「いいから」
 言われるままに体を起こすと、すみれはわたしの肩の下にあったものに手を伸ばした。
「………」
 そこには、茎の折れたタンポポがあった。
 シュッとした中空の茎が真ん中辺りで折れていて、そこから、ミルクのように白い樹液をしみ出させていた。きれいな液体だったけれど、それがタンポポの血だと思えば、どこか痛々しくもあった。すみれは無言で茎を直そうとしたけれど、一度折れてしまったものは、もう元には戻らなかった。
 すみれは何も言わなかったけれど、タンポポの花を可哀相に思っているのはわかった。
 わたしは膝を抱えて体育座りをすると、不思議そうに言った。
「花の気持ちが、わかるみたいだね」
「……うん」
 わたしは、少し驚いた。
「わかるの?」
「わかるよ」
 そんなわけない。そう思ったけれど、すみれの声には、珍しく芯があった。わたしは、ああ、と思った。
「そっか、すみれのパパ、花屋さんやってるんだもんね。そりゃ、わかるよね」
「………」
 わたしは少し嫌味っぽく言った。自分の親が、何をしているのかもわからないサラリーマンだったことに比べて、花屋の子には、それだけで夢があると感じていたのだ。
 すみれは、わたしの声の調子を敏感に感じ取ると言った。
「わたし、花屋さん、きらい」
「え?」
「きらい」
「なんで?」
「切られた花がいっぱいあるから。切られた花は、枯れていくだけだから」
 そういったすみれの指は、タンポポの折れた茎を治そうと一生懸命だった。
 わたしはますます気まずさを感じながら、その仕草を止めることも出来ず、空を見た。そこには、わたしとすみれを見下ろして、丸坊主の梢があった。わたしはその木が、枯れ木だということを聞き知っていた。
「別に…さ、切られなくても…さ、草なんて枯れちゃうじゃん」
「え?」
 どことなくつまらなくなって、口が勝手に動いていた。別に花屋になりたいなんて思っていなかったし、将来の夢は別にあったけれど、その時は、否定されただけで不愉快で、口が勝手に動いたのだった。
 わたしが口をとがらすと、すみれはわたしの視線を追って枯れた梢を見上げ、それからポツリと言った。
「でも、切ったらそれで、おしまいだよ」

 その後、私たちは、小学生のうちにもクラスが別になったり、わたしが運動クラブに入ったりして、お互いにだんだんと疎遠になっていった。朝練など始まると学校の行き帰りも一緒じゃなくなり、すみれの姿はいつしか、わたしの視界に入ってこなくなっていった。どうしているかなと思う日もあったけれど……。
 そして小学校の卒業が近くなったあるとき、学校で配られた卒業文集で、わたしは久しぶりにすみれの言葉に触れた。
『将来の夢は、樹木医という、木のお医者さんになることです。そして、千本黄桜という、千年に一回しか咲かない桜を咲かしてみたいです。タンポポのように黄色い桜を見てみたいです』
 樹木医。
 そんな言葉があることを、わたしは初めて知った。同時に、すみれらしいと思った。花の気持ちがわかると言った、すみれらしい夢だと思った。


 つばきは騎馬命の術中にはまっていたが、話の途中で瞳を閉じて黙った。
「それで? その幼なじみが不登校になったのと、あんたの未練と、なんの関係があるんだい?」
 野次馬な騎馬命は、体に力が入ってくるのを我慢しながら、じれったく急かした。その先に、核心があるに違いないと期待していたのだ。なぜなら、ここまでの話に未練が生まれるような部分がなかったからだ。
「さあ、胸に詰まってるもの、吐き出しちまいなよ」
 コイツは面白そうだ……。
 騎馬命は高揚感を隠しながら手を伸ばすと、子どもをあやすかのようにつばきの髪をなでつけ、話の続きをせがんだ。
 するとつばきは、閉じた目に涙をにじませたようだった。
「わたしの……せいで」
 つぶやいた言葉は茫洋として、力が無い。
 騎馬命は突然、つばきのことを強く抱き寄せた。そして頬を違わせ、耳元で囁いた。
「話してごらん。あたしが力になってあげるから」
 つばきには見えないところ、頬を違わせた騎馬命の顔には、やさしげな笑みと、心の闇を映す瞳とが同居していた。それは、相手を陥れることに、なんの抵抗も抱かない者の顔だった。たとえ、どんなにつばきの目がかすんでいても、今の騎馬命の顔をみれば、その先は語らなかっただろう。けれど、抱きすくめられたつばきはもう、騎馬命のいいなりだった。
「……わたし、高校の先輩に恋…をして、手紙を渡したくて……、すみれに頼んだのに……、あの子は……渡せなかった……。
 わたし……腹が立って……叩いちゃった。それが……噂になって、すみれが……悪く言われ……て、あの子……学校に……来なくなったの」
「なるほどな。だから、不登校になったのは自分のせいだ、と?」
「……謝りに行ったけど、会ってくれなかった……。向こうのお母さんにも…睨みつけられて……。でも、わたしだって……戸惑ってた。その間に、あの子は学校をやめてしまって、それきりになった。花屋を手伝ってるの……と…思ったら、花屋…なくなってた。何があったのか…わからない。幼なじみ…なのに、なにも知らなかった。わたし…あの子を、傷つけた……」
「不登校で引きこもりってやつか? じゃあ、その子が引きこもりをやめれば、あんたの未練も消えるってわけだな?」
 つばきは黙って、力なくまぶたを開くと千年黄桜を見上げた。
「……この木……、あの子の部屋から見えるの。団地の高いところから……。わたし、ずっと毎日、朝も夜も、ちょっとの間だけここに立って、あの子の部屋の窓が…開くのを……待ってたけど……」
「開かなかったんだな?」
「次の春が来て…思った。この桜が咲けば、あの子も気づいてくれる……。部屋から出て、ここに来てくれる……。だから……わたしが……樹木医になろうと……思った。樹木医に…なれば、咲かせることができるから」
「だけどよ、こいつは枯木だろう?」
「すみれは……花の気持ちがわかる。あの子が咲かせてみたいって言った……から、死んでなんか…ない」
 つばきはかすれ気味の声でも言い切る。
 騎馬命は意地悪に言った。
「けどよ、誰かが切り倒すって決めたんだ。そうしなきゃならないって事じゃねぇの?」
「………」
「あんたは重機に押しつぶされたけどさ、枯れ木をほっておいたら誰かがコイツに押しつぶされるんじゃね? それが困るから切り倒すんだろ?」
「そうなのかも……。でも」つばきはくちびるを噛んだ。「わたしが樹木医になって……千年黄桜が咲けば、……あの子の心も、きっと…前を向く。そう信じてる…の。だから……まだ、どうしても守らないと……。今、切ったら……おしまいよ……」
 深刻な顔をして言う。
 騎馬命は呆れて冷たく言った。
「それさ、ただの自己満じゃね?」
「自己…満?」
「あんたがその子のために罪滅ぼしがしたいって思ってるだけだろ。それにさ、相手の方だって、本当のところはどうなんだろうなぁ。人の悪口で不登校…なんてさ、ただの言い訳でさ、本当は花屋が潰れて金がなくて学校をやめたのかもしれないし、こっちは引きこもってるって思ったって当人にしてみたら学校サボれていいとか思ってるかもしれないぜ?」
「そんなこと…ない」
「そうかな、あたしだったらサボり大歓迎だけど」
「花の気持ちがわかるあの子が……好き好んで日陰にいるわけがない」
「花の気持ち…ねぇ」
 騎馬命は呆れた声を聞かせながら、こっそりと舌なめずりをした。すみれという幼なじみのことを気にかけ、その子を引きこもりにしたことに責任を感じ、救い出す手立てを考え、実行し、その半ばで死んでしまったことへの未練……。一見すると、美しい友情にも見えるこの未練だが、根本的に悪いのはつばき自身だ。しかもつばきは、すべて想像でしか話をしていない。本当のところ、すみれがどう思っているのかも知らない。
 騎馬命は、わずかに指に力を込め、つばきの背に爪を立てた。
(もしかしたら、すみれって子の心の痛みは、あんたが考えている程度のものじゃないかもだぜ)
 騎馬命は心で言った。心の痛みなんて、本当のところ、他人には伝わらない。そんな心当たりがあった。さらに騎馬命自身の心の中で変化が起こった。野次馬な気持ちが、つばきに対する明らかな嫌悪へと変わったのだ。
(いいだろう、思い知らせてヤンよ。地獄に落ちる前に、死ぬほど後悔するがいい)
 この未練、この上もなく憎らしく思った。後悔するだけで済まそうなんて都合が良すぎると思った。希望を煽るだけ煽って、絶望の淵へ突き落としてやろう。そう思い始めていた。
 騎馬命は、つばきの髪を撫でるのをやめ、肩に手を置いて押し戻すと、茫然とした眼をじっと見つめた。
「あたしはね、未練ってやつをぶった斬ると、すっきりした気持ちになるんだ。相手が喜ぼうが絶望しようが、それは関係ねぇよ。とにかく、あたしはすっきりしたいのさ」
「………」
 つばきは、騎馬命の心の変化に気づいていない。それさえ面白く感じながら、騎馬命は、沸々とした高揚感に目を剥いて言った。
「それじゃあ、そろそろ味わわせてもらおうか。あんたの、未練を」
 騎馬命は目を爛々とさせた。一方、つばきのほう、は、未だに術中にあってぼんやりとしていた。
「わたし…、生き返ったら…」
「は? 生き返ったら…だって?」
 思わず言葉を遮って目を吊り上げた。友人を苦しめておいて、まだ自分の利に執着する姿が醜いと、咄嗟に心が反応していた。つばきの罪は、子供じみた行き違いで、取るに足らないものかも知れないけれど、今の一言のせいで、今からでも、タダで死なせるわけには、どうにも許せない気分になった。そして、聞き分けのない子を叱るように目をつり上げると、つばきの肩をグッとつかみ、まるで鳥の翼をもごうかという勢いで力を込めた。
 つばきは肩を割られるような苦痛に喘いだ。しかし催眠術にかかっているような状態では逃げ出すことはおろか、痛いと訴えることもできない。
 騎馬命は厳しく言った。
「生き返ったら…だと? あんた、人の話、聞いてっかよ? あたしはね、他人の未練をぶった斬るのが、あたしの最高の楽しみだって言ってるだけなんだよ。あんたが生きるとか死ぬとか、そんな話じゃねえんだよ。
 しかもよ、さっきからお子様みたいな後悔ばっか見せやがって。どんなものかと思って聞いてれば、友達がどうだの、人生が止まってるだの、ちいせぇんだよ。そんなこと、誰が気に留めた? 世の中の誰が気に留めたんだ? 言ってみな。言えねぇだろ? そんだけ小せえことなんだよ。くだらねぇと思わねぇか?
 未練をぶった斬る前に、教えてやンよ。あたしはね、人殺しだとか詐欺師だとか、そんな奴らのえげつない未練が専門なんだよ。本当なら、あんたみたいにガキっぽい後悔なんて握りつぶしておしまいさ。
 でもよ、その気になっちまった。あんたの未練、ぶった斬ってやンよ。だから、黙って聞けや。
 さっきからあんた、自分が悪いって言いながら、結局、やることやってねぇじゃねえか。もっと必死になれば、会えたんじゃねぇの? 何度だって通って、ダメなら手紙でも書いたら良かったんじゃねぇの? 自分のための手紙は書けても、詫びの手紙は書けないってのかい?
 ああ、見てて気分悪ぃよ。
 だからよ、今から罰を与えてやンよ。あたしにはその権限があるんだ。初七日の罰を任されてんのさ。
 ああ、ゾクゾクするね。大悪党じゃなくてもいいや。あんたみたいに、自分を守っていい子ぶってるヤツを、ガタガタ震えさせるのも面白そうじゃないか。ああ、そうだな、たまんねぇな、もう我慢なんねぇ。グチャグチャ言ってねぇで、さっさと喘いで見せてくれよ」
 騎馬命の手の力はさらに強まり、仕舞いには、つばきの体を持ち上げ、自分の顔の高さにぶら下げててしまった。足が地面から離れ、あるはずのない体重がつかみ取られた両肩にかかる。
 苦痛に顔をゆがめるつばきを、騎馬命はなじった。
「絶望する自分に酔ってんだろ? だったら何度だって絶望させてやンよ」
「絶…望?」
「あんたまだ、生き返りができると思ってるみたいだが、それは、絶対に無理だ。あんたの体はもう、焼かれちまってるんだよ。自分でもわかってんだろ? だからよ、無理なモンは無理なんだ。諦めな」
「………」
 つばきは苦しそうな顔をしながらも諦めの目をした。
 けれど、未練が消える気配はない。
(へえ? そう来なくっちゃな)
 騎馬命は意外に思ってからほくそ笑むと、ぶら下げたつばきの体を無造作に揺さぶった。骨が悲鳴を上げ、苦痛が増し、再びつばきの横顔から意識が遠のいた。
「まだだ、まだだぜ。簡単には地獄にはやらねえ。ここまで手間かけさせたんだ、もっと楽しませてくれよ」
 騎馬命は肩に爪を立て、肩を揉み砕くようにグイグイと力を込め、さらに、つばきの心に送り込んだ黒蛇を暴れさせた。黒蛇は牙をむき、心の喉首に何度も食いついた。さらに、苦痛に負けてしまいそうになる意識を締め上げ、何度も何度も覚醒させた。
 喘ぎながら、うっすらと目を開いたところに、騎馬命は意地悪く言った。
「この世は時間ってヤツに支配されてる。生き返りなんて絶対に無理だ。けどよ、夢見んのは自由だよな。そこで確かめておきたいんだが、あんたが生き返ることと、そこの木に花を咲かせることのどちらかができるとしたら、あんた、どっちを選ぶ?」
「………」
 騎馬命は邪悪な気持ちに酔いしれてつばきをいたぶった。生き返ることは絶対にできないと教えておきなら、意地悪な選択をさせることに興奮していた。
「生き返れば、こんな痛い目に遭うこともないし地獄にも落ちないかもな。さあ、生き返りと満開の桜、どっちを選ぶんだい?」
 さあさあ、どう答えるか? 答えを間違えば、ぼろきれになるまでいたぶってから地獄に突き落としてやる。騎馬命は目を爛々とさせた。
 つばきは、答えを求められると、ゴクリとあえぎ声を飲み込んで呻いた。
「桜を……」
「へえ? 花を咲かせたいのかい」騎馬命は意外だという目をした。「生き返れば、そのすみれって子に謝ることだって出来るだろうに。そうすれば仲直りできて未練は消えるぜ。そうじゃないかい?」
 つばきは苦しげに首を横に振った。
「……あの子にはもう、わたしの言葉なんて……」
 その言葉を聞いて、騎馬命は、ほう…と思った。すみれという子のことを、もうどうでもいいと思うことができれば、そこまで思い詰めることはないはずだ。楽になれる方を選べばいい。それなら、たとえ無理だと言われていても、生き返りたいと口にするのが人情じゃないか。だが、その誘惑に負けないということは、まだ何か理由があるのだろう。それは、なんだ?
「そうかぁ…、そうだよなぁ…。謝って傷が癒える程度のことなら、もうとっくに仲直りしてるよなあ…。それができないってことは、何かがあるってこと……だよなぁ」
 その言葉を受けて、つばきの目が再び閉ざされた。ためた涙がしずくになって伝う。
「……どうすれば、許してもらえるの?」
「さあなぁ…、そればっかりは相手に聞いてみねぇとなぁ…」
 つばきは、目を閉ざして涙を流す。騎馬命はつばきの肩をグッとねじったが、つばきはもう反応しなかった。心の苦痛が体の苦痛を越えたのだ。
 つばきの苦悩が、それほどまでに深いことはわかった。しかし、とどのつまり、つばきはすみれの本心を知らないのだ。考えもまとまらないし、決められることも決められない。悩むだけ無駄だが、つばきはもうずっと、そこから抜け出せないでいるのだ。
 これ以上、つばきを締め上げる意味はなさそうだ。痛めつけても答えは出ない。騎馬命はフッと手の力を抜き、つばきの肩を解放した。
 つばきの足が地面につく。だが彼女は立ってられずにその場に座り込んでしまった。地面に目を落とし、ハアハアと息をしながら、未だ軋みを上げる肩を震える手で守る。
 騎馬命は、うずくまるつばきを睨みつけながら、スッと片手を天にかざした。そして、口の中で 何かを呟く。すると空中に闇が集まり、それが集約して棒状のものになった。一端には尖ったスプーンのような形をしたものが付いている。間もなくして闇は形になり、物体を形成した。
「おい、顔上げな」
 騎馬命は、怒りが転じた高揚感に沸々としながら命じた。
 つばきは、軋む体に喘ぎながら顔を上げ、騎馬命が自分に対して何を差し出しているのかを見た。
「説教は終わりだ。コイツを貸してやるから、枯木の根元を掘るんだ」
 騎馬命が差し出しているのは、錆び付いて薄汚く、使い倒された風体のスコップだった。

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