第2話

文字数 9,318文字

 謎のスケバンをノックアウトして、つばきは地獄の三丁目を走っていた。
「三途の川…、どこ?」
 さっきは咄嗟で思い出せなかったが、よくよく思い返してみれば川のようなものを渡った記憶があった。大勢の人が川につかって渡っていく中、自分は確か、舟に乗せられていた。
「わたし、死ぬわけには…」
 そして騎馬命が言ったとおり、思い出したことがあった。ショベルカーの前に立ち塞がって桜を守ろうとしたこと。土手が崩れて鋼鉄のアームが視界いっぱいに迫ってきたこと。そして衝撃、圧迫、体を伝わってくるく破砕音……
「と…とにかく、川を戻れば生き返ることができるはず……」
 生々しい瞬間を頭から追い払おうとしつつ走り続けた。
 しばらく走ると、川を上がってくる人たちが見えてきた。皆、死装束で△の白い布を額に結んでいて、しかもずぶ濡れだった。見るもみすぼらしい姿でトボトボと歩いてくる。それを逆行して走って行くと、三途の川の桟橋にたどり着いた。
「【三途の…渡し】?」
 さっきは気づかなかったが、桟橋の手前に立て看板があった。そこには、【こちら、あの世。あちら、この世】と書かれている。…と、不意に楽しげな歌声が聞こえてきた。少女の声…、よく通る歌声だった。
「わたしゃ世界で一番~♪
 気楽な稼業の少女~♪
 十三グラムのキミ乗せて~
 舟を漕ぐ漕ぐ、舟を漕ぐ~♪」
 舟の前後、舳先と艫(とも)の立ったゴンドラが、艫に立つ船頭の櫂(かい)で桟橋を離れていくところだった。船頭は鬼ではなく、異国の衣装を着た金髪の少女だ。背中まで長く梳き伸ばした髪をこちらに見せつけて、つばきが来たことには気づいていない。
 少し奇妙だが三途の川の渡し船だ。お客は乗っていない。たぶん今から、向こう岸の人を迎えに行くのだろう。
(あれに乗れば…!)
 舟は桟橋を離れたばかりだ。今なら間に合う! つばきは目測をつけ、脚力を集中し、桟橋の板を鳴らしながら助走をつけると、
 タン、タン、ターン!
 三段跳びで板を蹴り、全力で思いっきり空中に飛び出した!
「タァーッ!」
 気合いのかけ声とともに宙を飛ぶ。
 船頭の少女がつばきの大声に驚いて振り返った。
 つばきはアッ!と思ったが、一瞬の後には、無意識にバランスを取っていた腕が少女の喉首を思いっきり引っかけた!
 ぐえっ…!と船頭の少女はのけぞり、そのまま舟からはじき出され、静かな水面に背中から落ちて盛大な水しぶきを上げた! 手放された櫂が舟底にゴトン!と転がる。
 つばきはなんとか着地したものの、ゴンドラはグラグラと揺れ、思わず船底に四つん這いになった。
「う…ぷ! た、助けて!」
 慌てふためく声に船縁に飛びついて水面を見ると、髪までびしょ濡れになった船頭少女が水面でもがいていた。
「あっ、ごめんなさい! い、今、助けま…!」
 つばきは慌てて手を差しのべようとしたが、その言葉は尻切れになった。なぜなら、もがく船頭少女の回りで水面が泡立ち、そこから無数の腕が突き出てきて彼女に襲いかかったからだ。見るとそれは、水中を歩いて渡っている死人達の手だった。彼らは藁にもすがる思いで少女にしがみついてきた。
「や、や、やめて!」
 船頭の少女は青ざめて叫ぶ。その金色の髪を、細い肩を、死人の手が無我夢中で掴み、船頭少女は何をできる間もなく水中へと引きずり込まれた。最後に少女の片手が水面に残ってつばきに助けを求めたが、それも苦しげに戦慄きながら沈んで消えた。
「あ……あ……」
 つばきは混乱した。少女の身を案じることも、自分が何をしてしまったのかもわからなかった。
 そのとき。
 グラリ…!
 ゴンドラが傾いた!
 ギョッとして見ると、何本もの手が船縁を掴んでいた。三途の川を渡るための舟でも、助けを望む死人にとっては救いの舟に見えたのだろう。つばきはおびえて立ち上がり、揺れるゴンドラによろけながら、あたりを見渡してさっきの桟橋を探した。けれどもう、ゴンドラは川に流されていて、しかも漂う霧に視界を邪魔され、桟橋はおろか岸辺の影も見えなくなっていた。
 タスケテ…
 タスケテ…
 足元から声がする。
 青ざめて見下ろすと、水面から顔を出した死人が、窒息しかけた魚のように口をパクパクさせながら弱々しい声で訴えているのだった。そして次から次へとゴンドラによじ登ろうとしていた。その重さに絶えかね、ゴンドラはググッと喫水を上げた。
「やめて! 沈んじゃう!」
 つばきは慌てふためいてわめく。
 けれど死人達が言うことを聞くわけもなく……
 彼ら彼女らは我先にとゴンドラによじ登ってきた!
 つばきは震え上がった。水に落ちれば、あの船頭少女と同じになっしまう!
 そう思うと、恐怖に体を支配された。
「こ…このっ!」
 つばきは咄嗟に、足元にあった棒を拾い上げた。それは、身の丈の倍はある棒で、水かきはついていなかったがゴンドラの櫂だった。水底に突いて舟を操るものだ。
 それをとにかく掴み、無我夢中で死人の腕を叩いた! しがみついて離れない相手には額を突いて追い払った!
 攻撃された死人達は哀れに呻きながら水中に沈んでいった。他の死人達も、櫂を手にしたつばきのことを見ると、まるで鬼でも見たかのように絶望して水中へと戻っていった。そして、それきり姿を見せなかった。
 つばきは気づいた。櫂を手にした瞬間から、消えかけていた足が薄ぼんやりと戻ってきていた。どういうわけだかわからない。それに、理由を考えている余裕もなかった。
 つばきは肩で息をしながら、静まりかえった水面を警戒した。けれど、聞こえてくる音が、チャプン、チャプンとさざ波が打つ音だけになると、今、自分が やったことが 恐ろしくなって 船底に へたり込んだ。体が震えてくる。櫂は、一旦はガラン…と投げ出したが、また、死人が現れるのではないかと思うと恐ろしくて、片手ですぐにありかを探っていた。
 櫂を握りしめ、目をつむって震えた。けれど、まぶたから、死人の瞳が消えることはなかった。耳からは、助けを求める声が離れなかった。自分も、死人だと言われた立場なのに……。
「………」
 つばきは恐る恐る薄目を開けて周囲を見渡した。
 辺りは川面を流れる霧で、ここがどの辺りかもわからなかった。
 誰かが追ってくる気配もなかった。
 逃げ切ったのか…、それもわからなかった。
 そして胸の中にはっきりと残っているのは、やはり、まだ死ねないという思いだった。
 つばきは気力を奮い立たせて立ち上がると、櫂を手に、とにかくどこかを目指して水底を突いた。


 その頃。
「大丈夫かい、フランソワーズ」
「大丈夫なわけないでしょ!」
 三途の川の桟橋で、騎馬命は、ゴンドラの船頭フランソワーズを水中から引き上げていた。フランソワーズは死人たちに顔を引っかかれ、お気に入りの衣装もボロボロにされて、キッ!と騎馬命を睨み上げた。
「あなたがここに来てるということは、あの危険人物、あなたが関係してるのね?」
 騎馬命は察しがいいなと目をそらしながら「知らないね」と返した。
 フランソワーズは嘘を見抜いてジト目になった。
「あの子、霊船とニョイ棒を奪っていったわ。こっちに来るときは置物みたいに大人しかったのに!」
「へえ、そんな危険人物なら、あたしも見てみたかったな」
 騎馬命はとぼけて天を仰ぐ。
 フランソワーズは冷たい目をして付け加えた。
「これは事件よ。小太郎様に報告しなければ」
「事件発生! 緊急事態!」
 騎馬命がシャン!と背を伸ばす。報告などされたら面倒だから一気に前向き対応だ! しかしフランソワーズは、容赦なく騎馬命を追い詰めた。
「私は今から手紙をしたため、小太郎様に進言するわ。死人ひとりまともに扱えない小閻魔なんて地獄に落とすか、被害者であるこの私の下僕にしてくださいと」
「………」
「下僕、ああ、最高だわ。百パーセント従順な犬、または絶対無敵にかわいい猫、どちらも私のペットにぴったりだと思うけど、騎馬命、あなた、どっちになりたい?」
 スケバンのかっこうをした犬、または……猫!
「あーっ!」騎馬命は想像して頭を抱えた。「わかったわかった! 白状するぜ! だからおまえも協力してくれ!」
 騎馬命は大急ぎで事情を説明した。
 フランソワーズはスカートの水を絞りながらそれを聴き、髪をかき上げて口を尖らせた。
「油断したわね、騎馬命。そのつばきって子、なかなかの強敵よ」
「あ?」
「小太郎様があなたに託すほどの罪人ですもの、それはつまり腕力勝負、羊の皮を被った狼だと察するべきだったわ」
「そんな大層な相手かねぇ…」
「目が節穴? あの女、この私にフライングラリアットをかましたのよ。あの身のこなし、格闘技に覚えありだわ。でなければゴンドラマスターの私が落水させられることなどあり得ないから」
「フライングラリアット…、あの女、もしや女子プロ…」
「あら? その様子だと、もうなにか、一発食らったようね?」
「……いや」
 騎馬命は思わずスカートの前を押さえそうになりながら、「それより」とごまかした。
「ゴンドラを追うには舟がいるだろ。出してくれよ、舟」
「簡単に言ってくれるけど…」
「簡単だろ?」
「ええ。でも、タダじゃ嫌よ」
「………」
「新鮮なセイロンティーが欲しいわ。それからお菓子。美しいボーイ。もちろんきれいな花も…」
「わかった。小遣いはたいて全部用意する。だからあの女が現世に戻っちまう前に、舟、出してくれ。未練を断ち切れずに亡霊にでもなられたら、あたしが小太郎様にひねられちまうからさ。それにおまえだって、舟を取り返さないとなんねえだろ?」
「そうね、あの方は厳しいから…、みすみす奪われた…なんて思われたら…」フランソワーズはさっと青ざめ、それから念押しした。「それはともかく、わたしとの約束は約束よ?」
「ああ」 
「約束したからね?」
「ああ、ああ。だから、俺がひねられちまわないように協力してくれ」
「わかったわ」
 フランソワーズは立ち上がると桟橋の先まで歩き、そこで両手を空へ差し上げると、深呼吸一つ、天に向けて命じた!
「ピンライトよ!」
 すると、渦巻く雲の一つが開き、一条の光が走り、桟橋の先のフランソワーズを照らし出した。その白い光の中で、傷だらけになったフランソワーズの体は、どこからともなく湧いた黒煙に包まれた。そして彼女は、身振りを交えて叫んだ。
「変・身!」
 すると、体を包んだ黒い雲が肌に吸着し、そうかと思うとはじけて飛んで、その下から新しい衣装が光を放った。下はキュロット、上はセーラー服という、水兵さんルックの衣装だ。しかし、輝きが収まったとき、その水兵服は白基調ではなく黒基調の全容をあらわにした。スカーフは漆黒のシルクで、デザインの軽やかさとは裏腹に禍々しささえ漂う。そして足下は、裸足だった。
 服が整うのと同時にフランソワーズの金髪がたなびき、目に見えぬ閻魔の力で一本の三つ編みにされていった。最後に、二枚の黒い羽根、カラスの風斬り羽根が、どこからか射かけられたように飛来して、前髪の両脇に禍々しく突き立った。
 さらに、彼女の右手には、漆塗りのタクトが与えられた。それを彼女は、オーケストラの指揮者さながらに構えると宣った。
「歌える船乗り、フランソワーズ・テンプル・小閻魔が命ずる! 我がキョウダイよ、集いたまえーッ!」
 ……と、両手を振り上げ、モーゼ宜しく霧の漂う水面に叫び、パッとタクトを振った。
 すると。
 ドーン!と霧を震わせて男臭いメロディーが押し寄せた! ど演歌のイントロだ。
 さらに、にわかに水面が荒れ出し、白波が立ち、しけとなった。その最中に霧が左右に分かれ、花道となり、その先に黒々と船影が現れた。同時に聞こえてくるゴッゴッゴッゴッ…!という重たいエンジン音……。
 やってきたその船は、舳先を勇ましく反らせた一隻の、
「漁船かよ!」
 騎馬命が呆れとも歓迎ともつかない声を上げた!
 そう、三途の川の花道に現れたのは、白い船体もまぶしい一隻の漁船だった。操舵室の上にはレーダーも回っていて、周囲には、カモメならぬ、カァー、カァーとけたたまし騒ぐカラスの群れを従えていた。
 フランソワーズはウルトラCの跳躍で漁船の舳先に立った。
「くるくるマリンレーダーに衛星多重・測方位装置を艤装、当然おさかなソナーも完全装備♪ 今日のわたしは美少女漁師さんよ!」
 フランソワーズはタクトを釣り竿に見立てて振り上げ、釣人三平のポーズを決めた!
 そこで一時停止の後、パッと身を翻すと操舵室に駆け込んで、キラキラと光るコンソールに指を走らせた。そして舵輪に右手をかけると、左の窓から身を乗り出して騎馬命を怒鳴った。
「いざ漁場! 明日は錦の大漁旗! チンタラしてたら置いてくわよーッ!」
「へいへーい!」
 騎馬命は頭を掻きながら軽く飛んで舳先に立った。
 それをいくらか邪魔そうに見てから、フランソワーズは舵輪を握り、深呼吸一つ……。
 そして声高に出港を宣言した!
「歌えスロットル! 咆えろヤン坊! そしてわたしのキョウダイ船よ…、超・発・進!」
 ゴゴゴッ!とスクリューが回り船尾で水しぶきが上がる。白い船体はブルブル!と身震いしてうなり、黒煙を吐き、船首をグッと反らせ、ふたりの髪をたなびかせながら波を切って驀進した!


  流れ着いた先

 ゴンドラはつばきを乗せて、ゆっくりと川を下っていった。手元には棒状の櫂があったけれど、つばきはろくに使いこなせなかった。川底に突き立て、なんとなく舟を操ることは出来ても、霧に取り巻かれていては向かう先を定めることが出来ない。
 結局、流れに任せて漂っていくしかなかったのだが、そのうち霧が晴れてきて、両岸に夜の町並みが見えてきた。それは、マンションやビルが建ち並ぶ都会の街だった。
 その夜景に、つばきは見覚えがあった。そう、いつも、大学やバイトの帰りには、その景色を眺めながら土手の道を走っていた。
「…戻って来られた?」
 三途の川が近所の川につながっているとは知らなかったけれど、これは無事に生還したということなのだろう。ふと、気になって足を見ると、見慣れたスニーカーがはっきりと見えていた。全身が、ぼんやりとした青白い光に包まれているのは気になるけれど、きっと岸に上がれば、すべて元通り……。
 希望を沸かせて目を上げると、ゴンドラはまるで意思を持っているかのように、徐々に岸辺へと寄っていった。
 そして、間もなく。
 ゴッ…。
 舳先をコンクリートの岸壁に擦りつけて着岸した。
 そこがどこか、つばきにはすぐわかった。
「…千年黄桜」
 土手の上に、葉を落とした巨木が立っていた。千年に一度、黄色い花を咲かせるという伝説の木だ。ただし、その木は、つばきの記憶にある限り、花はおろか葉さえもつけたことはない。
 つばきはその巨木に小学生の時から馴染みがあった。学校の行き帰り、通学路に立っていたからだ。
 通りがかるときには必ず幹に手を触れた。それは大学生になった今も変わらない。変わったのは、幹に手をつきながら、遠くの窓辺を見やるようになったこと……だけだ。
 つばきは櫂を放り出して岸に上がり、斜面を一気に駆け登ると、自分の存在を確かめるように黄桜の幹に触れた。
 ゴツゴツとして乾いた感触は、いつもの記憶、そしていつかの記憶とも重なった。
 目を上げると、窓に多くの明かりが灯る高層団地が見えた。しかし、つばきが見やる窓には明かりがない。その窓は今日も、一日中、カーテンは引かれたままだっただろう。
「………」
 つばきは物思いに耽った。いま、この瞬間にも気持ちが届いて明かりが灯り、カーテンが引き開けられることを願った。けれどそれは届くわけもなく……。
 ザ……ザパンッ……!
 背にした川の方から、波の打つ音が聞こえた。振り返ると、ゴンドラで渡ってきた時は静かだった川面が、にわかにざわめきだしていた。いや、ざわめきどころか嵐の様相だ。川にはあり得ない白波が立ち、水がコンクリートの岸壁に打ち付けてくる。
 そんな中、機械音が聞こえてきた。ザン、ザンという波の大騒ぎをゴッゴッと割って近づいてくる…。
 船だ……。
 闇の中に白い船影が浮かび、程なくして人の騒ぐ声がした。「あった!」だとか「わたしのゴンドラ!」だとか、ギャアギャアと騒いでいる。
「追っかけてきた……」
 つばきは背筋を寒くし、咄嗟に千年黄桜の幹に身を隠して様子を見た。
 やってきたのは漁船一隻、夜の闇に紛れるカラスを何羽も従え、にわかにしけた水面に白波を立てながら岸辺へと船体を寄せてきた。操舵室には、舵輪を片手に身を乗り出す水兵服の少女と、舳先には腕組みをしてこちらを睨む大柄な女性……
「!」
 スケバンの格好をした小閻魔、騎馬命だ。目が合って、咄嗟に首を引っ込めたが、もう見つかったのは明かだった。
「どうしよう…地獄に連れ戻される…」
 ここから家へ逃げ帰る? けれど、ここへまっすぐに追ってきたということは、またすぐに追いつかれる。……と、あるものが目にとまった。
「………」
 つばきは心を決めると、ぱっと幹を離れて土手の向こう側へ滑り降りた。


「さあぁ、出ておいで、おてんば子ウサギちゃん。地獄の炎でフランス料理にしてやんよ!」
「そうよ! わたしの舟を盗んだ罪は重いのよ! 毛ぇむしって皮はいで、塩とコショウとハバネロで下味つけて、伸して叩いて煮て焼いて心ゆくまで喰ってしゃぶってキスして愛でて……抱きしめてから三途の川に沈めてやる!」
 フランソワーズはすっかり平常心を失っている。今にも操舵室から飛び出しそうだ。騎馬命はそれを片手を上げて制し、舟に残るよう言うと、舳先から岸へ飛び降りた。そして、斜面の草に長いスカートの裾を擦りながら、ゆっくりと千年黄桜を目指した。
 余裕の態度で幹を回り込む。……ところが、そこにつばきの姿はない。
「おやぁ? 今度は猫ちゃんみたいに木の上かい?」
 そう言って梢を見上げるが、枯れて枝ばかりになり、夜空がすかして見えるそこにも、姿はない。……と、突然!
 ブルンブルン…ブオオオッ!
 土手の向こう側でけたたましくエンジン音が上がった。怪訝に思って見下ろすと、斜面の下、警察が張った規制線の中にショベルカーが置かれていて、それがランプをともし、目を覚ましていた。
「あ?」
 その運転席に、つばきの姿があった。その目は好戦的に騎馬命を睨んでいる。
「そんなおもちゃで何をしようっていうんだい?」
「ユンボはおもちゃじゃない! 頼りになる相棒よ!」
「へえ? 相棒? でもそいつ、ウブなお嬢ちゃんにも乗りこなせるものなのかねぇ?」
 騎馬命は挑発する。
 するとアームがグイン!と上がり、ショベルの爪が攻撃的に騎馬命へ向けられた。
「園芸科をなめないで。こんなのキホンのキ、必修科目よ!」
 つばきが咆える。事実、樹木の植え替えなどで小型のユンボ、つまりショベルカーを扱うのは普通のことで、つばきの通う大学では必修科目だ。ただ、今乗り込んだものは、巨木を相手にしようとしていただけに、ヤワなサイズではなかった。
 つばきは強烈なエンジンの振動を腰に感じながら、肝を据えるとシフトの握り玉をつかんだ。思いっきりギアを前進に入れる。エンジンの駆動力がキャタピラに伝わり、ショベルカーはゴゴゴッ!と土を掻きながら斜面を登りはじめた!
 騎馬命は余裕の態度で腕組みだ。
「人間ごときが閻魔の一族に挑むたぁ、いい根性じゃねぇか。でも、そんなもので、このあたしをやり込められるかなぁ?」
 ニヤニヤとショベルカーを待ち構えている。
 つばきは睨み付けながらも額には汗をにじませた。
 ショベルカーは排気筒から黒煙を吹き出し、キャタピラで斜面を削り取りながら、まっすぐに騎馬命に向かっていった。そして、鋼鉄のショベルを高く振り上げ、余裕の顔に襲いかかった!……と思いきや、グッと方向転換して彼女の横を通り過ぎた。
「あ?」
 ショベルカーは土手の道を乗り越え、川側の斜面に飛び出し、そのままスリップしながら一気に下っていった。そして川縁まで行くと、止まる気配もなく、そこに着岸していた漁船の舳先に突っ込んだ!
 バキバキバキッ!
「アアッ! わたしのキョウダイ船が!」
 フランソワーズがよろけながら悲鳴を上げた!
 ショベルカーは舳先に乗り上げ、同時に鋼鉄のショベルを操舵室めがけて振り下ろした。
 バキバキバキッ!
「きゃああっ!」
 操舵室はあっけなく潰された!
 フランソワーズは、間一髪でゴンドラに飛び移って難を逃れがれたが、そこで立ち尽くし、この世の終わりのような顔をして破壊されていく漁船を見上げた。
 騎馬命は土手の上でその様子を見ながら、頭を掻いた。
「これ以上、怒らせて、どうすんだ。利口なんだか、馬鹿なんだか……」
 つまり、つばきの狙いは、自分を地獄へ連れ戻す手段を破壊することだったのだ。
「どいて!」
 つばきはゴンドラにいるフランソワーズを怒鳴りつけた。同時にアームがゴンドラに向けられる。
 フランソワーズは、つばきのたくらみを察してゴンドラの櫂を手にした。腰を低くして構え、そして一声、涙を散らしながらも凜々しく叫んだ!
「ニョイ棒よ!」
 その一言で、櫂がぐーん!と伸び、その先端が運転席のつばきを狙い、逃げる間を与えずにみぞおちを突いた!
 つばきは強烈な突きを食らって運転席からはじき飛ばされ、夜空にその身を放り出された。衝撃で口が、喘ぐ魚のように大きく開く。瞬時に意識が失われ、体は街の明かりを背景にしつつ、風に飛ばされたぼろきれのように舞って土手へと叩きつけられた。
 直後、水辺ではフランソワーズの悲鳴が上がった。
「あああっ!」
 操縦者を失った鋼鉄のショベルは停止したものの、漁船にのしかかっていたせいで巨体はグラリ…とバランスを崩し、ショベルカー全体が鋼鉄のアームを振り上げたままの状態でゴンドラに向かって倒れかかってきた。
 フランソワーズは慌てて応戦しようとするが、頼りのニョイ棒は無駄に伸びきっていて先端は重機の向こうにあった。手許まで縮めようとするが…
「ああっ! だめ、ダメダメダメ! やめてーっ!」
 ニョイ棒は間に合わなかった…。
 グシャッ!
「きゃあああ!」
 アームがゴンドラを直撃し、舳先に立っていたフランソワーズはシーソーの理屈で跳ね上げられて夜空に高く飛ばされた。
「あああああーっ!」
 フランソワーズは悲鳴を上げたが、それは、空へ飛ばされたことに恐怖したわけではなかった。そんなこと、地獄の住人なら気に留めることでもない。その気になれば空も飛べる。そうではなく、彼女は高いところに飛ばされながらも見ていたのだ。横倒しになったショベルカーが、大事なゴンドラをこれ以上無いくらいにぺしゃんこに潰していく、その瞬間を。
 バリバリ!
 ザバァッ!
 木材の砕かれる音と水音が混ざる。ゴンドラは木っ端微塵になって弾けた。そしてフランソワーズは、愛するゴンドラの断末魔にふわっと気を失い、人形のように脱力して土手へと落下していった。


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