3.世界で一番幸福なのはだあれ?
文字数 3,113文字
それからも、私は豚のことを調べた。
話は周りからいくらでも聞けた。彼の家はあまり裕福ではなく、そして母親は心を病んでいた。
「それでね......ついこの前の話なんだけど。彼のお母様、首を括って自ら命を絶ってしまったらしいの。失敗したと言っても、別に大狼王様から責任を追及されたりはしていないのに。本人も、生活のためにお金を稼がないとって、大変な仕事をしているみたいで......。可哀想よね、本当に」
私は豚の現状を聞くためだけに仲良くなった、元あの豚の先輩だったという女性に話を聞いていた。
彼女は心から悲しそうに、目を伏せながら言った。私は隣で彼女の肩に手を置くと、優しく叩きながら答える。
「本当に、悲しい事ね。たった一つの失敗でそんなことが起こるなんて......。でもきっと、その分いつか幸せが訪れるわ。大丈夫よ」
慈愛に満ちた私の言葉に、彼女は薄く涙を湛えた目を私に向けると、小さく頷く。私も笑顔を浮かべて、頷き返した。
次の授業に行くという彼女と別れ、私は一人で廊下を歩いていた。途中、何食わぬ顔で教材準備室に入った。物販の保全のために窓はなく、中は暗い。
ランプをつけないまま、私は後ろ手でドアノブをおさえた。これで誰かが入ろうとしても、咄嗟には開かない。
暗い、暗い部屋。
誰もいない、私だけの場所で。
「......、ふ、ふふ」
肩を揺らして、私は笑った。
「ふふふ、ふふふ.......、母親が自殺だって、んふふふ......! 面白い、面白すぎるんだけど! あーおかしい、そこまで不幸になってるとか最高!」
お腹を抱えて私は笑う。あまりにおかしくて、目に涙が滲んだ。本当に、ああ、いい気味だった。豚が不幸になればなる程に、私が満たさせる感覚。
もっともっと不幸になって欲しい。私の未来の伴侶、所有物を傷つけた愚かな豚に。
この世が終わるくらいの罰を。
会う度に、彼の事は慰めるようにしていた。
心の弱い彼には癒しが必要だ。
「それでね、あいつの母親が自殺してしまったらしいの。可哀想にね、レンガの家を建ててさえいればこんな事にはならなかったのに。息子が単純な作業すらできなかったせいでね。追い詰められて心を病んでしまっていたみたい」
いつもの店。一息で言って、私はガラスの底に残った赤ワインを飲み干す。話して喉が渇いていたせいか、とても美味しく感じた。
はは、と彼は気弱そうに笑う。まったく、誰もが羨むような立派な狼なくせに。彼の優しく気弱な所は嫌だった。早く直して欲しい。
けれどそんな言葉は出さずに、私は
「だから貴方の失敗なんかじゃない、貴方は何も苦しく思う必要はないの」
と、いつもの台詞で話を終えた。ダラダラと慰め続けても仕方ない。彼は小さく頷き、香辛料と香菜で調理されたパンを口に運んだ。
私は今度は白ワインを注文し、その味を楽しみながら運ばれてきた魚料理に手をつける。しばらく小さな食器の音だけが響いた後、彼は顔を上げて
「そういえば、君の方はどう? 次回の役決めの試験があったって聞いたけど」
心配してくれたのだろう、彼は急に違う話を始めた。私はフォークを置き、一口ワインを飲んだ後に答える。
「全然? 難しくなかったし、周りのレベルも大して高くなかったから。主役級の役は貰えると思うわ」
別にたいした事じゃない、というニュアンスが滲むように言葉を選んだ。わざわざ前日の深夜まで試験の勉強をしていた事は話さない。努力せずとも何でもできる、というイメージ戦略である。
彼は嬉しそうに微笑むと、「良かった」と言った。先程とは違い、心の底から喜んでいるのであろう笑顔だった。私も微笑み返す。
幸せだ。
愛する人と二人、美味しい料理に、美味しいお酒。明るい未来。
満ち足りた気分。
『自分は幸せな側の人間だ』という確信。身震いするほどの優越感。
だからこそ。もっと私が幸せであるために。
不幸側にはもっと不幸になってもらわないと。
私は露天で買ったパンを齧りながら、路地裏に立っていた。時間は昼近く。そろそろ、下水道から清掃業者の人たちが上がってくる頃だ。きつく、汚く、日当だけはそれなりの仕事。『私だったら絶対にやらない』仕事。
そんな仕事で毎日、口を糊している豚を見たくて。私は時間を潰していた。
自然と口に笑顔が浮かぶ。
楽しみで仕方ない。早く、早く下水から上がってきて欲しい。私の愉悦のために。
「......!」
ギギッ、と軋んだ音を立てて、下水道と裏路地を隔てる扉が開いた。下に続く暗い階段を、数人の作業員が登って来る。彼らは酷く疲れた表情をして、空を見て眩しそうに顔を顰めていた。
近づかなくてもわかる、下水のすえた臭い。私はわざとらしく鼻を押さえながら、彼らが上がってくるのを眺めていた。
「.......」
そして、いよいよ。最後に豚が上がってきた。この世の終わりのような顔をして、汚れた作業着を着ている。手には先ほどまで使っていたのだろう道具類の入った箱を抱えていた。
少し眩しそうにした後、豚は同僚を探して辺りを見回す。同時に彼のお腹から『ぐうぅ......』と獣の鳴くような、はしたない音が聞こえた。慌てて豚は片手でお腹を押さえ、同時に私の方に視線を向ける。抱えていた箱が落下しかけて、みっともなく体をよろめかせていた。
私はその汚さに驚いたようなフリをしつつ、手に持っていた食べかけのパンを地面に落とした。特に理由はない。ただ豚がどんな反応をするのかが見たかった。
空腹のせいだろう。一瞬豚は、物欲しそうな顔で私の落としたパンに目を向けた。粘度のある、じっとりとした。生に執着する醜い視線。その後ハッとした様子で顔を上げる。『いけない、だめだ』とでも言うように。
ああ、それは。
まさに私の求めていた反応だわ。醜い豚の三男。
「きゃぁ、気持ち悪い!」
聞こえるように大声で言いながら、私は走り出した。耐えきれず笑い声を上げながら。走りながら後ろを小さく振り返ると、豚は立ち尽くしたまま、まだ私の方を見ていた。
怯えたような、辛そうな、苦しそうな。
不幸を顔に塗りたくられたような表情で。
面白かった。楽しくて、私は笑いながら走り続けた。
曲がり角を走り抜け、裏路地を抜ける直前で私は立ち止まる。笑いを抑えながら、深呼吸をした。通りには友人が歩いている可能性があった。息が上がった状態はあまり見せたくない。イメージを損なう可能性がある。
「はぁ、はぁ......ふふ、んふふふ.......」
笑いの残滓を引きずりながら、あの豚の話をどう彼に話したものかと考える。醜くて汚かったことは言ってもいいだろう。でも、私一人でからかいに行ったことは言わない方が良いかもしれない。あの狼......いや、もうどうせ伴侶になるのは確定しているのだから、伴侶でいいか。
私の伴侶は繊細だから、私がわざわざ嘲笑いに行ったと知れば良い顔はしないだろう。少し悩んだ後、『笑いに行きたがった友人に連れられて仕方なく』と言うことにした。
どうせ嘘かどうかを探られる事はないのだから、舌先三寸でどうとでもなる。
「......ああ、面白かった」
呼吸を整え終えて、私はどう話すかを考えながら表通りに足を進める。また今日も彼を励ますのが楽しみだった。
全く。
「私が居ないと、何もできないんだから......彼ったら」
幸せに満ちた淑女の笑顔を浮かべながら、私は学校に向けて歩き出す。
もし私が物語に出てくる魔女であれば、問いかける場面だった。鏡よ鏡、と。
「世界で一番幸福なのはだあれ?」
もちろんそれは、私に決まっている。
話は周りからいくらでも聞けた。彼の家はあまり裕福ではなく、そして母親は心を病んでいた。
「それでね......ついこの前の話なんだけど。彼のお母様、首を括って自ら命を絶ってしまったらしいの。失敗したと言っても、別に大狼王様から責任を追及されたりはしていないのに。本人も、生活のためにお金を稼がないとって、大変な仕事をしているみたいで......。可哀想よね、本当に」
私は豚の現状を聞くためだけに仲良くなった、元あの豚の先輩だったという女性に話を聞いていた。
彼女は心から悲しそうに、目を伏せながら言った。私は隣で彼女の肩に手を置くと、優しく叩きながら答える。
「本当に、悲しい事ね。たった一つの失敗でそんなことが起こるなんて......。でもきっと、その分いつか幸せが訪れるわ。大丈夫よ」
慈愛に満ちた私の言葉に、彼女は薄く涙を湛えた目を私に向けると、小さく頷く。私も笑顔を浮かべて、頷き返した。
次の授業に行くという彼女と別れ、私は一人で廊下を歩いていた。途中、何食わぬ顔で教材準備室に入った。物販の保全のために窓はなく、中は暗い。
ランプをつけないまま、私は後ろ手でドアノブをおさえた。これで誰かが入ろうとしても、咄嗟には開かない。
暗い、暗い部屋。
誰もいない、私だけの場所で。
「......、ふ、ふふ」
肩を揺らして、私は笑った。
「ふふふ、ふふふ.......、母親が自殺だって、んふふふ......! 面白い、面白すぎるんだけど! あーおかしい、そこまで不幸になってるとか最高!」
お腹を抱えて私は笑う。あまりにおかしくて、目に涙が滲んだ。本当に、ああ、いい気味だった。豚が不幸になればなる程に、私が満たさせる感覚。
もっともっと不幸になって欲しい。私の未来の伴侶、所有物を傷つけた愚かな豚に。
この世が終わるくらいの罰を。
会う度に、彼の事は慰めるようにしていた。
心の弱い彼には癒しが必要だ。
「それでね、あいつの母親が自殺してしまったらしいの。可哀想にね、レンガの家を建ててさえいればこんな事にはならなかったのに。息子が単純な作業すらできなかったせいでね。追い詰められて心を病んでしまっていたみたい」
いつもの店。一息で言って、私はガラスの底に残った赤ワインを飲み干す。話して喉が渇いていたせいか、とても美味しく感じた。
はは、と彼は気弱そうに笑う。まったく、誰もが羨むような立派な狼なくせに。彼の優しく気弱な所は嫌だった。早く直して欲しい。
けれどそんな言葉は出さずに、私は
「だから貴方の失敗なんかじゃない、貴方は何も苦しく思う必要はないの」
と、いつもの台詞で話を終えた。ダラダラと慰め続けても仕方ない。彼は小さく頷き、香辛料と香菜で調理されたパンを口に運んだ。
私は今度は白ワインを注文し、その味を楽しみながら運ばれてきた魚料理に手をつける。しばらく小さな食器の音だけが響いた後、彼は顔を上げて
「そういえば、君の方はどう? 次回の役決めの試験があったって聞いたけど」
心配してくれたのだろう、彼は急に違う話を始めた。私はフォークを置き、一口ワインを飲んだ後に答える。
「全然? 難しくなかったし、周りのレベルも大して高くなかったから。主役級の役は貰えると思うわ」
別にたいした事じゃない、というニュアンスが滲むように言葉を選んだ。わざわざ前日の深夜まで試験の勉強をしていた事は話さない。努力せずとも何でもできる、というイメージ戦略である。
彼は嬉しそうに微笑むと、「良かった」と言った。先程とは違い、心の底から喜んでいるのであろう笑顔だった。私も微笑み返す。
幸せだ。
愛する人と二人、美味しい料理に、美味しいお酒。明るい未来。
満ち足りた気分。
『自分は幸せな側の人間だ』という確信。身震いするほどの優越感。
だからこそ。もっと私が幸せであるために。
不幸側にはもっと不幸になってもらわないと。
私は露天で買ったパンを齧りながら、路地裏に立っていた。時間は昼近く。そろそろ、下水道から清掃業者の人たちが上がってくる頃だ。きつく、汚く、日当だけはそれなりの仕事。『私だったら絶対にやらない』仕事。
そんな仕事で毎日、口を糊している豚を見たくて。私は時間を潰していた。
自然と口に笑顔が浮かぶ。
楽しみで仕方ない。早く、早く下水から上がってきて欲しい。私の愉悦のために。
「......!」
ギギッ、と軋んだ音を立てて、下水道と裏路地を隔てる扉が開いた。下に続く暗い階段を、数人の作業員が登って来る。彼らは酷く疲れた表情をして、空を見て眩しそうに顔を顰めていた。
近づかなくてもわかる、下水のすえた臭い。私はわざとらしく鼻を押さえながら、彼らが上がってくるのを眺めていた。
「.......」
そして、いよいよ。最後に豚が上がってきた。この世の終わりのような顔をして、汚れた作業着を着ている。手には先ほどまで使っていたのだろう道具類の入った箱を抱えていた。
少し眩しそうにした後、豚は同僚を探して辺りを見回す。同時に彼のお腹から『ぐうぅ......』と獣の鳴くような、はしたない音が聞こえた。慌てて豚は片手でお腹を押さえ、同時に私の方に視線を向ける。抱えていた箱が落下しかけて、みっともなく体をよろめかせていた。
私はその汚さに驚いたようなフリをしつつ、手に持っていた食べかけのパンを地面に落とした。特に理由はない。ただ豚がどんな反応をするのかが見たかった。
空腹のせいだろう。一瞬豚は、物欲しそうな顔で私の落としたパンに目を向けた。粘度のある、じっとりとした。生に執着する醜い視線。その後ハッとした様子で顔を上げる。『いけない、だめだ』とでも言うように。
ああ、それは。
まさに私の求めていた反応だわ。醜い豚の三男。
「きゃぁ、気持ち悪い!」
聞こえるように大声で言いながら、私は走り出した。耐えきれず笑い声を上げながら。走りながら後ろを小さく振り返ると、豚は立ち尽くしたまま、まだ私の方を見ていた。
怯えたような、辛そうな、苦しそうな。
不幸を顔に塗りたくられたような表情で。
面白かった。楽しくて、私は笑いながら走り続けた。
曲がり角を走り抜け、裏路地を抜ける直前で私は立ち止まる。笑いを抑えながら、深呼吸をした。通りには友人が歩いている可能性があった。息が上がった状態はあまり見せたくない。イメージを損なう可能性がある。
「はぁ、はぁ......ふふ、んふふふ.......」
笑いの残滓を引きずりながら、あの豚の話をどう彼に話したものかと考える。醜くて汚かったことは言ってもいいだろう。でも、私一人でからかいに行ったことは言わない方が良いかもしれない。あの狼......いや、もうどうせ伴侶になるのは確定しているのだから、伴侶でいいか。
私の伴侶は繊細だから、私がわざわざ嘲笑いに行ったと知れば良い顔はしないだろう。少し悩んだ後、『笑いに行きたがった友人に連れられて仕方なく』と言うことにした。
どうせ嘘かどうかを探られる事はないのだから、舌先三寸でどうとでもなる。
「......ああ、面白かった」
呼吸を整え終えて、私はどう話すかを考えながら表通りに足を進める。また今日も彼を励ますのが楽しみだった。
全く。
「私が居ないと、何もできないんだから......彼ったら」
幸せに満ちた淑女の笑顔を浮かべながら、私は学校に向けて歩き出す。
もし私が物語に出てくる魔女であれば、問いかける場面だった。鏡よ鏡、と。
「世界で一番幸福なのはだあれ?」
もちろんそれは、私に決まっている。